第4話 王都への誘い
エルダウッドの森――。
朝日が木々の隙間から差し込み、昨夜とはまるで違う穏やかな景色が広がっていた。
小鳥たちは枝の上でさえずり、小川のせせらぎが静かに森へ響いている。
昨夜、魔獣が現れたとは思えないほど、森はいつもの姿を取り戻していた。
だが、その静けさの中で。
小さな家の前に立つリナだけは、困ったように腕を組んでいた。
「……どうしよう」
視線の先には、昨夜レオンが倒した三匹の魔獣。
黒い巨体は地面に横たわり、禍々しい気配だけが辺りに残っている。
「このままここに置いておけないよね……」
リナが小さくため息をついた、その時だった。
魔獣の身体がふっと揺らぐ。
「え……?」
黒い毛並みが崩れ始める。
砂のように砕けたかと思えば、次の瞬間には黒い霧へと姿を変えていく。
ゆっくりと空へ昇り、朝日に溶けるように消えていった。
リナは思わず目を見開く。
「魔物って……死ぬと消えちゃうの?」
「いや」
隣に立つレオンが静かに首を振った。
その表情は険しい。
「少なくとも、俺は見たことがない」
灰色の瞳が、霧の消えた場所を見つめる。
「普通の魔物なら死体は残る」
「じゃあ……」
「この魔獣は普通じゃない」
短い言葉だった。
だが、その一言に重い違和感が滲んでいた。
レオンはしゃがみ込み、剣を抜く。
まだ形を保っていた一本の角を切り取った。
「これは?」
リナが尋ねる。
「討伐証明だ」
「討伐証明?」
「騎士団や冒険者ギルドでは、討伐した証拠を持ち帰る決まりになっている」
そう言って角を袋へ収めた。
「魔獣の身体が消えても、角や牙はしばらく残ることが多い」
「なるほど……」
リナは感心したように頷く。
知らない世界の話だった。
だが、その表情はすぐに曇る。
「でも……」
レオンが視線を向ける。
「三匹も一度に現れるなんて、おかしいよね?」
その問いに、レオンはしばらく黙っていた。
森を見渡し、ゆっくりと口を開く。
「……ああ」
「普通じゃない」
風が木々を揺らす。
しかし、その言葉だけは重く沈んでいた。
「魔物は本来、人里を避ける」
「それが三匹同時に現れ、しかも魔獣化していた」
「何者かに操られているか……あるいは」
言葉を切る。
まだ確証はない。
だからこそ、最後までは口にしなかった。
リナは不安そうに尋ねる。
「王都も、そんなに大変なの?」
「かなり深刻だ」
レオンは静かに答える。
「各地で魔獣の目撃情報が相次いでいる」
「負傷者も増えている」
「騎士団だけでは対応しきれないほどにな」
その声音には、焦りが滲んでいた。
リナは森を見渡す。
今まで安全だと思っていたエルダウッドの森。
その常識が少しずつ崩れ始めていた。
その時だった。
「ニャ」
足元から可愛らしい鳴き声が聞こえる。
フェルが何事もなかったように近寄ってきた。
リナはほっと笑みを浮かべる。
「フェル」
抱き上げると、柔らかな毛並みが朝日に輝いた。
「昨日はびっくりしたんだから」
「急に飛び出すんだもん」
「ニャ」
フェルは何も知らないような顔で鳴く。
その様子にリナは苦笑した。
一方で、レオンだけは静かに白猫を見つめていた。
昨夜の出来事が脳裏を離れない。
魔獣たちは確かに怯えていた。
あの小さな白猫を前にして。
(……偶然か)
そう結論づけようとしても、胸の奥の違和感は消えない。
フェルはちらりとレオンを見た。
金色の瞳が一瞬だけ細められる。
そして、何事もなかったように視線を逸らした。
「……気のせいか」
レオンは小さく息を吐いた。
その時、リナが思い出したように声を上げる。
「そうだ」
「レオン」
「怪我は?」
レオンは肩を軽く回す。
「問題ない」
「ほんと?」
薬師の表情へ変わったリナが近づいてくる。
「見せて」
その真剣な眼差しに押され、レオンは苦笑しながら外套を脱いだ。
包帯をゆっくり外す。
その瞬間――。
「……なっ」
思わず言葉を失う。
昨夜、深く裂けていた傷はほとんど塞がっていた。
赤い痕が薄く残るだけ。
普通なら数日どころか、数週間は治らない傷だった。
リナは満足そうに微笑む。
「うん、ちゃんと治ってる」
「……信じられない」
レオンは傷口を見つめる。
「これほどの治癒力は聞いたことがない」
「薬が効いたんだよ」
リナは無邪気に笑う。
だがレオンは首を横に振った。
「薬だけじゃない」
「何か別の力を感じる」
「そうかな?」
リナは首を傾げるだけだった。
フェルは小さく欠伸をする。
『……ようやく気付き始めたか』
誰にも聞こえない声。
『その娘の力は、薬草だけでは説明できない』
レオンは静かにリナを見つめた。
少しだけ迷う。
だが、やがて決意したように口を開く。
「リナ」
「頼みがある」
「なに?」
「王都へ来てくれないか」
その言葉に、リナは目を丸くした。
「……え?」
森しか知らない少女。
王都を守る騎士。
二人の運命が、大きく交わる瞬間だった。
「各地で魔獣が増えている」
「怪我人も増え続けている」
「君の力が必要なんだ」
真っ直ぐな瞳。
迷いのない言葉。
リナは戸惑いながらも、小さく息を呑む。
王都――。
一度も訪れたことのない世界。
森の外へ出ることなど考えたこともなかった。
フェルが静かに目を閉じる。
『……始まるか』
金色の瞳が細くなる。
『千年前から待ち続けた物語が』
その頃――。
森の最奥。
誰も足を踏み入れたことのない深い闇の中で。
黒い霧がゆっくりと立ち上る。
そして、その奥で。
赤い瞳が静かに開いた。
「ようやく……動き出したか」
低い笑みが闇へ溶けていく。
誰もまだ知らない。
少女が踏み出そうとしている一歩が――。
世界の運命を変える旅の始まりになることを。
第4話 終わり
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