第3話 森の侵入者
エルダウッドの森――。
夜の森は、昼とはまるで別の世界だった。
昼間は木漏れ日が降り注ぎ、精霊たちの囁きが聞こえてきそうな穏やかな森。
だが夜になると、その表情は静かに変わる。
月明かりが木々の隙間から降り注ぎ、地面には銀色の模様を描いていた。
風が葉を優しく揺らし、森は本来なら安らかな眠りについているはずだった。
それなのに――。
どこか、おかしい。
虫の鳴き声が聞こえない。
夜鳥の羽ばたきも、小動物が草を踏む音さえもない。
森全体が息を潜め、何かを待っているような、不自然な静寂が辺りを包んでいた。
その静けさは、耳が痛くなるほどだった。
エルダウッドの森の奥。
小さな家の窓辺に、一匹の白猫が静かに座っていた。
月光を浴びた白い毛並みは淡く輝き、金色の瞳だけが森の奥をじっと見つめている。
その視線は、一度も逸れることがなかった。
『……来る』
誰にも届かない小さな呟きが、夜風に溶けて消える。
フェルの白い尻尾が、ゆっくりと一度だけ揺れた。
焦りはない。
恐れもない。
ただ、避けられない未来を静かに受け入れるような反応だった。
その時――。
ギシッ。
家の中で椅子が軋む音が響いた。
「……やはり妙だな」
窓辺へ歩み寄ったレオンが、森を見つめながら低く呟く。
灰色の瞳は鋭く細められ、その表情から穏やかさは消えていた。
「どうしたの?」
薬を片付けていたリナが、不思議そうに振り返る。
レオンは窓の外から目を離さないまま答えた。
「静かすぎる」
短い言葉だった。
しかし、その声音には騎士として幾度も死地を潜り抜けてきた者だけが持つ確信があった。
「静けさにも種類がある」
「これは……嫌な静けさだ」
リナも窓の外へ目を向ける。
風は吹いている。
木々も揺れている。
月明かりも変わらず森を照らしている。
それなのに、生き物の気配だけが消えていた。
「いつもこんな感じじゃないの?」
「いや、違う」
レオンは迷いなく首を振る。
「戦場では、大きな戦いの前にこういう静けさが訪れる」
その一言に、リナの胸が小さくざわついた。
理由は分からない。
けれど、レオンの言葉には不思議な説得力があった。
その時だった。
フェルの耳がぴくりと動く。
同時に――。
森の空気が変わった。
まるで見えない何かが森全体を覆ったように、空気が重く沈む。
風が止まる。
葉擦れの音が消える。
世界から音だけが切り取られたような感覚。
「……っ」
リナの背筋を冷たいものが走る。
思わず腕を抱いた。
「何……今の……?」
その言葉が夜へ溶けた瞬間――。
グルルルル……。
低く唸る声が、森の奥から響いた。
闇の中で、赤い光がゆっくりと浮かび上がる。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、それは赤い瞳だと分かった。
異様な殺気を纏った魔獣たちが、ゆっくりと姿を現したのだ。
黒く濁った毛並み。
歪に発達した四肢。
鋭い牙。
その姿は狼にも熊にも似ていたが、どちらとも違う。
自然界に存在する生き物とは思えない禍々しさを放っていた。
しかし、本当に異様だったのは――。
その現れ方だった。
まるで森そのものが魔獣を吐き出したかのように、闇の中から押し出されるように姿を現したのである。
「来るぞ!」
レオンの鋭い声が響く。
次の瞬間、勢いよく扉を開き放つ。
冷たい夜気が一気に室内へ流れ込んだ。
レオンは迷いなく剣を抜く。
キィン――。
澄んだ鋼の音が静寂を切り裂いた。
「リナ!」
「外へ出るな!」
短く言い残すと、レオンは地面を蹴り、夜の森へ飛び出した。
月明かりの下。
三匹の魔獣が、ゆっくりと家へ歩み寄ってくる。
赤い瞳だけが、不気味な光を放っていた。
「……依頼の魔獣とは少し違うな」
レオンは静かに剣を構える。
その瞳に迷いはない。
騎士として数え切れない戦場を生き抜いてきた男の覚悟が、その立ち姿だけで伝わってくる。
次の瞬間――。
一匹目の魔獣が、大地を蹴った。
黒い影が一直線にレオンへ襲いかかる。
鋭い爪が月明かりを裂き、唸りを上げた。
だが、レオンは一歩も退かない。
身体をわずかにひねり、紙一重でその一撃をかわす。
風を切る爪が頬をかすめた次の瞬間――。
「はあっ!」
銀の剣閃が夜を駆け抜けた。
ガキィンッ――!
硬いものを斬りつけたような音が響き、火花が散る。
魔獣の肩口が深く裂け、黒い血が飛び散った。
しかし、魔獣は倒れない。
傷を負いながらも、低く唸り声を上げて立ち上がる。
「……硬いな」
レオンは油断なく剣を構え直す。
普通の魔物なら、今の一撃で決着がついていたはずだ。
その時、二体目が横から飛びかかる。
さらに三体目が背後へ回り込み、逃げ道を塞ぐ。
三方向からの挟撃。
だが、レオンの表情は変わらない。
「悪くない連携だ」
低く呟くと同時に、大地を強く蹴った。
一歩。
二歩。
最小限の動きで魔獣の懐へ飛び込み、剣を横薙ぎに振るう。
鋭い斬撃が夜気を裂いた。
一体目が大きく吹き飛び、地面を転がる。
続けざまに二体目の爪を受け流し、その勢いを利用して身体を反転させる。
流れるような剣筋。
騎士団でも一、二を争う剣技だった。
家の中では、リナが息を呑みながら窓越しに戦いを見守っていた。
「レオン……」
胸が締めつけられる。
怪我をしたら、すぐに治療しなければ。
その思いから、自然と薬袋へ手が伸びる。
薬師として、人を助けることだけが自分にできる役目だから。
その時だった。
「ニャ」
小さな鳴き声が響く。
フェルが窓から音もなく飛び降りた。
「フェル!?」
リナの声が夜へ響く。
白い身体は軽やかに地面へ着地すると、そのまま魔獣たちの前へ歩いていく。
あまりにも小さな背中。
だが――。
その一歩を境に、森の空気が変わった。
風が止む。
木々が揺れるのをやめる。
まるで世界そのものが息を止めたようだった。
レオンも思わず動きを止める。
「……猫?」
魔獣たちも動かない。
いや、動けない。
赤い瞳に、明らかな戸惑いが浮かんでいた。
本能が告げている。
目の前の存在に近づいてはならない、と。
フェルは静かに魔獣たちを見上げた。
月明かりを映す金色の瞳。
そこには、小さな猫とは思えない威厳が宿っていた。
『……少し、騒がしいな』
誰にも届かない声が静かに響く。
その瞬間――。
空気が震えた。
目には見えない圧力が森全体へ広がっていく。
魔獣たちが一斉に後ずさる。
低く唸りながらも、一歩も前へ進めない。
まるで絶対に越えられない壁が目の前に現れたかのようだった。
レオンは息を呑む。
(何だ……この威圧感は)
剣を握る手に自然と力が入る。
敵ではない。
それなのに、身体が本能的に警戒していた。
『ここで終わらせる必要はない』
フェルが小さく息を吐く。
その一瞬。
魔獣たちの動きがわずかに鈍った。
「今だ!」
レオンはその隙を見逃さない。
一気に間合いを詰める。
銀の閃光が夜を切り裂いた。
一体。
二体。
鋭い斬撃が連続して走り、魔獣たちは地面へ崩れ落ちる。
最後の一体だけが悲鳴を上げ、森の奥へ逃げ出そうとする。
しかし――。
「逃がすか!」
レオンが大地を蹴る。
一瞬で距離を詰めると、振り下ろした剣が魔獣の背を深く貫いた。
魔獣は短い断末魔を上げ、そのまま動かなくなる。
静寂が戻った。
先ほどまでの殺気が嘘のように消えていく。
リナは慌てて家を飛び出した。
「フェル!」
白い身体を抱き上げる。
「大丈夫? 怪我してない?」
フェルはいつも通り、小さく鳴いた。
「ニャ」
その姿は普段と何も変わらない。
リナは安堵の息を漏らし、優しく頭を撫でる。
「本当に心配したんだから」
その時だった。
リナの手が止まる。
「……あれ?」
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
「ねえ、フェル」
白猫を見つめながら、小さく問いかける。
「さっき……何か言った?」
一瞬だけ、時間が止まったような静寂が流れる。
レオンも静かに視線を向けた。
「……何か聞こえたのか?」
「ううん」
リナは苦笑しながら首を振る。
「気のせいかな」
そう言いながらも、その表情から違和感は消えない。
フェルは何事もなかったように、小さく鳴くだけだった。
「ニャ」
レオンはその様子を黙って見つめていた。
剣を鞘へ収めながら、小さく息を吐く。
(……あの猫)
普通ではない。
説明はできない。
だが確かに感じた。
あの小さな身体の奥には、計り知れない何かが眠っている。
フェルはリナの腕の中で静かに森の奥を見つめる。
闇は晴れていない。
むしろ、その向こうにさらに深い気配が潜んでいる。
『……まだ終わっていない』
誰にも届かない声が夜風に溶けた。
森の最奥。
木々の隙間から、一対の赤い瞳が静かにこちらを見つめていた。
「……やはり」
低い声が闇の中で響く。
「あの場所にいたか」
口元がゆっくりと歪む。
その視線の先には、小さな家。
そして――。
銀色の髪を持つ少女の姿。
フェルは静かに目を細めた。
『……来るか』
夜は、まだ終わらない。
千年前から止まっていた運命の歯車が、静かに回り始めていた。
第3話 終わり
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