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白猫フェルと森の薬師 〜精霊に愛された少女は世界を癒す〜  作者: もふ森こはく


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第49話 呪いの子

天空都市シルヴァリア――。


雲海の上に浮かぶその都市は、まるで空そのものから生まれたかのように静かで、美しかった。


幾重にも連なる巨大な浮遊島には、白い石で造られた建物が並び、それらを結ぶように細く長い橋が伸びている。


橋の欄干には風を受けて回る小さな魔導機関が取り付けられ、淡い光を放ちながら、絶えず街の空気を循環させていた。


どこを見ても風がある。


けれど、その風は地上のものとは違っていた。


建物の間をすり抜け、橋を渡り、街の上空をゆっくりと巡っている。


それはまるで都市そのものが呼吸しているようで、シルヴァリアのすべてが空と共に生きているように感じられた。


リナは甲板からその街並みを見上げながら、しばらく言葉を失っていた。


先ほどまで空を駆けていた蒼翼船アストレイアが、ゆっくりと高度を下げていく。


港へ近づくにつれ、浮遊島の白い街並みが少しずつ大きくなり、人々の姿まで見えるようになってきた。


やがて船体が港へ降り立つ。


魔導機関の音が徐々に小さくなり、船を包んでいた風の結界が静かに消えていった。


「到着しました」


船員の声が響く。


それを合図に、甲板にいた者たちが動き始める。


リナも荷物を確認しながら、改めて天空都市を見渡した。


「……本当に、空の上に街があるんだね」


その声には、まだ隠しきれない感動が滲んでいた。


しかし――。


港へ降りた瞬間、周囲の空気に小さなざわめきが混じった。


「王都の船だ……」


「アストレイアじゃないか?」


「巡礼か……?」


港にいた人々が、次々とこちらへ視線を向ける。


王都から来た船というだけで、それなりに注目を集めるのだろう。


リナは少し緊張しながらも、エリオスと並んで歩き始めた。


けれど、不思議なことに、人々の視線はすぐに自分たちから離れていった。


何かを見つけたように、誰もが同じ方向へ目を向けている。


そして――。


「……また、あの子か」


誰かが、ぽつりと呟いた。


その声には、歓迎とは程遠い響きがあった。


「また来たのか……」


「どうしてまだいるんだ」


「……呪いの子」


その言葉を聞いた瞬間、リナの足が止まった。


「……え?」


思わず振り返る。


人々の視線が集まっているのは、港から少し離れた広場の端だった。


そこに、一人の少年が立っていた。


年齢は、リナたちから見ればまだ幼い。


薄い水色の短い髪が風に揺れている。その額には、小さな角が二本だけ覗いていた。


身体は細く、身につけている服は何度も繕われた跡があり、ところどころ擦り切れている。


背中には、身体の大きさには明らかに不釣り合いなほど大きな槍を背負っていた。


けれど、その槍が立派であればあるほど、少年自身の小ささが際立って見えた。


少年は俯いていた。


誰とも目を合わせない。


周囲の人々も、少年には近づこうとしなかった。


数歩。


いや、十歩近く。


誰もが自然と距離を取っている。


まるで、その場所だけが街の中から切り離されているようだった。


「近づくな」


「風が乱れるぞ」


「また何か起きたらどうする」


そんな声が、人々の間から聞こえてくる。


リナは少年を見つめたまま、眉を寄せた。


「……どういうこと?」


小さく尋ねたが、すぐには誰も答えなかった。


代わりに――。


パシッ。


乾いた音が、広場に響いた。


何かが飛んできた。


それは石だった。


石は少年の肩へ当たり、少年の身体がほんのわずかに揺れる。


「……っ」


それでも少年は顔を上げなかった。


逃げようともしない。


ただ、何もなかったかのように、その場に立ち続けている。


「出ていけ!」


「人殺し!」


「ここはお前の居場所じゃない!」


別の石が飛んだ。


そして、また一つ。


少年は避けなかった。


避けることすら、もう諦めてしまっているようだった。


「やめろ……!」


誰かが制止する声もあった。


けれど、それは石を投げる者たちを止めるほど強いものではない。


「一年前のことを忘れたのか!」


「この子が来てから、風がおかしくなったんだ!」


「家の周りだけ空が歪んでいた!」


次々に言葉が飛び交う。


そこには怒りだけではなく、恐怖も混じっていた。


「この子の育ての親も……あの日に……」


「家の中で二人とも……」


そこまで言った女性が、顔を歪める。


「……かわいそうに」


それ以上は、誰も口にしなかった。


けれど、その沈黙だけで十分だった。


リナの胸が、強く締めつけられる。


少年が何をしたのか。


何が起きたのか。


その真相を知っている者は、この場にはいないのかもしれない。


ただ一つだけ確かなのは――。


ここにいる誰もが、この少年を恐れ、そして疑っているということだった。


少年は俯いたまま、ぎゅっと拳を握りしめていた。


小さな指が白くなるほど、強く。


それでも声を上げない。


泣きもしない。


怒りもしない。


ただ耐えている。


その姿を見て、エリオスの表情が歪んだ。


「……ひどい」


小さな声だった。


けれど、その声は震えていた。


「何も分からないのに……どうして、こんな……」


アルは黙ったまま少年を見つめていた。


普段なら軽く笑っていることの多いその表情から、今は一切の笑みが消えている。


その目には、冷たい光が宿っていた。


レオンもまた、何も言わなかった。


ただ、ゆっくりと目を細める。


人々の言葉。


少年の態度。


そして、この場に漂う空気。


それらを一つずつ見極めるように、静かに周囲を見渡していた。


そして――。


リナが歩き出した。


「リナ」


レオンが呼ぶ。


低く、制止するような声だった。


けれど、リナは止まらなかった。


少年へ向かって、一歩ずつ歩いていく。


「リナ、待て」


もう一度呼ばれる。


それでもリナは振り返らない。


少年が何をしたのかは分からない。


この街で何が起きたのかも知らない。


けれど――。


今、目の前で一人の子供が傷つけられている。


それだけは分かる。


また、石が飛んだ。


リナは反射的に足を速めた。


そして――。


少年の前に立った。


コツン。


飛んできた石が、リナの肩に当たる。


「……っ」


小さな痛みが走った。


けれど、リナは動かなかった。


広場から音が消えた。


人々が息を呑む気配さえ分かるほど、静まり返っている。


リナは肩に当たった石を拾い上げることもせず、そのまま人々を見渡した。


「……やめてください」


声は大きくなかった。


それでも、不思議なほどよく通った。


「この子……何もしてない」


誰かが息を呑む。


「知らないのか」


人々の中から、一人の男が声を上げた。


「一年前のことだ」


男は少年を睨みながら続ける。


「この子の育ての親が死んだ。二人ともだ。家の中で、変わり果てた姿になって見つかった」


別の女性が言葉を重ねる。


「それで、生きていたのはこの子だけだったのよ」


リナは黙って聞いていた。


男は苦々しそうに眉を寄せる。


「だから……みんな思ってるんだ。この子が何かしたんじゃないかって」


「そうだ」


別の誰かが頷いた。


「風が狂ったのも、あの子がいたからだ」


「この子が来てから、空気がおかしくなった」


「呪いだ」


「この街に災いを呼ぶ子なんだ」


その言葉を聞くたびに、リナの胸が痛んだ。


証拠はない。


誰も、少年が何をしたのかを見ていない。


それなのに、起きた出来事と、この少年がそこにいたという事実だけを結びつけて、すべての罪を背負わせようとしている。


リナはゆっくりと少年へ振り返った。


「……あなたは?」


問いかけても、少年は顔を上げなかった。


薄い水色の髪の隙間から覗く頬は青ざめている。


そして――。


肩が、ほんのわずかに震えていた。


その震えを見た瞬間、リナは胸の奥で何かが切れたような気がした。


この子は怖いのだ。


石が怖い。


怒鳴り声が怖い。


そして何より――誰にも信じてもらえないことが、怖いのだ。


その時、エリオスが一歩前へ出た。


「証拠はあるんですか?」


広場に、静かな声が響く。


人々がエリオスを見る。


「……何?」


「その子がやったという証拠はあるんですか」


エリオスの声は震えていた。


それでも、引かなかった。


「何が起きたのかも分からない。誰も、この子が何かをしたところを見ていない。それなのに、ただ怖いからという理由だけで……」


一度、エリオスは唇を噛んだ。


それでも目を逸らさない。


「こんな小さな子に石を投げて……それで本当に、人として恥ずかしくないのですか」


誰も答えなかった。


怒鳴り声も、罵声も止んでいる。


広場にいる人々は、気まずそうに視線を逸らした。


その沈黙の中を、レオンがゆっくりと歩く。


銀の鎧が陽光を受けて淡く輝いた。


そして、少年と人々の間に立つ。


「……やめろ」


低い声だった。


ただ、それだけだった。


それなのに、空気が変わった。


王都白銀守護団の団長として、数えきれない戦場をくぐり抜けてきた男の声には、逆らうことを許さない圧があった。


レオンは周囲を見渡す。


「事情を知らず、一人の子供を集団で追い詰める。それがこの街のやり方なのか」


誰も答えない。


「これ以上は見過ごせない」


その言葉に、人々が一人、また一人と後ずさった。


やがて誰かが視線を逸らし、その場から離れていく。


それをきっかけに、別の者も、また別の者も、何も言わずに散っていった。


最後まで少年を見ていた者も、やがて顔を背ける。


広場には、静かな風だけが残った。


リナはそれを確認すると、ゆっくりと少年の前にしゃがみ込んだ。


少年と目線を合わせる。


けれど、少年はまだ顔を上げなかった。


「……痛かったよね」


返事はない。


リナは急かさなかった。


ただ、少年の肩に残った小さな傷を見つめる。


「怖かったよね」


少年の指が、わずかに動いた。


それでも顔は上がらない。


リナは少しだけ微笑んだ。


「もう、大丈夫だよ」


その言葉に、少年の肩がわずかに震えた。


そして、長い沈黙のあと――。


「……違う」


かすれた声が、ようやく返ってきた。


リナは黙って待った。


少年は俯いたまま、震える唇を動かす。


「……僕じゃない」


声が震えていた。


「父さんも……母さんも……」


その先を言おうとして、言葉が詰まる。


小さな拳が、再び強く握りしめられた。


「僕は……やってない」


ぽたり。


頬を伝った涙が、地面へ落ちる。


「なのに……」


少年の声が途切れる。


「信じてくれない」


もう一粒、涙が落ちた。


「誰も……」


その言葉の後、少年は何も言えなくなった。


ただ、小さな身体を震わせながら俯いている。


誰にも届かないと思っていた言葉。


何度否定しても、誰も聞いてくれなかった言葉。


それを、今初めて口にしたのだ。


リナはしばらく少年を見つめていた。


そして――。


そっと手を差し出した。


「……いいよ」


少年の肩が止まる。


「え……?」


かすかな声。


リナはその瞳をまっすぐ見つめた。


「理由なんて、いらないよ」


少年の目が、ゆっくりと上がる。


そこには驚きがあった。


信じてもらえるなど、考えたこともなかったような顔だった。


リナは静かに続ける。


「あなたは、違うって言ったんでしょ?」


少年が、小さく頷く。


「それで、十分だよ」


その瞬間――。


風が止まった。


ほんの一瞬。


都市を包んでいた風が、まるでリナの言葉を聞くように静かになる。


少年の瞳が揺れた。


リナは差し出した手を、そのまま少年の前に置いていた。


「私は、あなたのことを知らない。何があったのかも知らない」


そう言ってから、ほんの少しだけ微笑む。


「でも……あなたが今、こんなに苦しそうにしていることは分かるよ」


少年の唇が震えた。


「だから――」


リナは迷わなかった。


「私が、信じる」


その一言が、静かな広場に落ちた。


少年の顔が歪んだ。


「……っ」


声にならない。


ずっと耐えていたものが、内側から崩れていく。


「……う……」


小さな喉から、震える声が漏れる。


「う……うあ……」


そして――。


「うああああああっ!!」


少年の口から、堰を切ったように泣き声が溢れた。


それは怒りでもなかった。


憎しみでもない。


ずっと一人で抱えていた悲しみと、寂しさと、誰かに信じてほしかったという願いが、一度に溢れ出したような泣き声だった。


小さな身体が激しく震える。


リナは何も言わず、その身体をそっと抱きしめた。


少年は一瞬だけ身体を強張らせた。


誰かに触れられることさえ、久しぶりだったのかもしれない。


けれど、やがてその小さな手が、恐る恐るリナの服を掴んだ。


「……うっ……うぅ……」


泣き声が、リナの胸元に吸い込まれていく。


リナは少年の背をゆっくりと撫でた。


「もう、大丈夫だよ」


何度も、何度も。


「ここにいるから」


その時、風が再び流れ始めた。


けれど、先ほどまでの風とは違っていた。


冷たさも、鋭さもない。


少年を包み込むように、穏やかな風が二人の周囲を静かに巡っている。


エリオスはその光景を見つめながら、そっと目元を拭った。


「……よかった」


アルは何も言わなかった。


ただ、わずかに目を細めている。


その表情には、リナの行動に対する驚きと、どこか納得したような色が浮かんでいた。


レオンも黙って二人を見守っていた。


止める必要など、もうなかった。


リナがここに来た理由を、今は理解している。


そして――。


少し離れた場所で、その様子を静かに見つめている白猫がいた。


フェルだった。


金色の瞳が、少年へ向けられている。


リナと少年を包む穏やかな風。


その風の奥にある、微かな気配。


人には感じ取れないほど僅かなものだった。


フェルはしばらく黙っていた。


やがて、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。


『……なるほど』


その金色の瞳が細くなる。


『人ではないな』


少年の小さな角。


身体に宿る、微かな異質な魔力。


そして――風そのものが、この少年をどこか特別な存在として認識しているような感覚。


フェルには、それが分かっていた。


けれど、今はまだ何も言わない。


『……忘れてしまったか』


その言葉には、わずかな意味深さがあった。


まるで、少年自身がまだ知らない何かを、フェルだけが知っているかのように。


だが――今は早い。


まだ、この少年に真実を告げる時ではない。


フェルは静かに目を伏せた。


一方、リナはそんなことなど知らず、泣き疲れて力を失いかけている少年の背を、優しく撫で続けていた。


「もう、大丈夫だよ」


その声は、どこまでも穏やかだった。


「一人じゃないから」


少年は涙で濡れた顔をリナの胸元に埋めたまま、何度も小さく頷いた。


その姿だけを見れば、どこにでもいる、ただの傷ついた子供だった。


けれど――。


この少年の中には、まだ誰も知らないものが眠っている。


この少年が、どこから来たのか。


なぜ風は彼を恐れ、そして同時に、彼の周囲で歪んだのか。


なぜ彼だけが、一年前の惨劇を生き残ったのか。


そして――。


この小さな少年が、いつか何になるのか。


その答えを、今はまだ誰も知らない。


ただ一人を除いて。


風の中で静かに目を細める、白猫だけが――。


少年の本当の姿を、見つめ続けていた。


少年の名は――ルシエル。


天空都市シルヴァリアで出会った、この小さな出会いが。


やがて、世界を大きく動かすことになる。


第49話 終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!


少しでも続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回もぜひ読んでいただけたら嬉しいです!

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