第44話 受け継がれた風
王都アルディア――。
四大精霊神殿への巡礼に出発するまで、あと二日。
朝から広がっていた空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。
薄い雲が遥か彼方をゆっくりと流れ、その隙間から差し込む陽光が、王都の白い街並みを柔らかく照らしている。
頬を撫でる風にはまだ少し冷たさが残っていたが、その風は決して荒々しくはなく、まるで眠っている大地を優しく目覚めさせるように、王都全体を静かに吹き抜けていた。
その風の下を、一つの葬列が進んでいた。
先頭を歩くのは、黒い礼装に身を包んだエリオスだった。
その後ろには、白と蒼を基調とした正装に身を包んだ王都魔道院の魔導師たちが続き、さらにその周囲を騎士たちが整然と取り囲んでいる。
白銀の鎧に刻まれた王都の紋章が朝の光を受けて淡く輝き、その中央を、一人の男を納めた棺が静かに運ばれていた。
グランディ・シルフィード。
王都魔道院・魔道隊長。
そして――“風の賢者”。
長きにわたり王都の空を守り、多くの魔導師たちを導き、幾度となく人々の命を救ってきた男の、最後の帰路だった。
誰も口を開かなかった。
聞こえているのは、整然と続く足音と、衣服を揺らす風の音だけ。
コツ、コツ、と石畳を踏む音が重なり、葬列はゆっくりと王都の中心から外れへ向かって進んでいく。
エリオスは、一度も振り返らなかった。
背筋を伸ばし、前だけを見つめている。
涙は、もう流れていなかった。
昨日、父の手を握りながら泣き続けた。
声が枯れるほど泣いた。
それでも、悲しみが消えたわけではない。
むしろ、胸の奥には昨日よりも大きな空洞が残っているようだった。
父がもういない。
その事実は、何度心の中で繰り返しても、現実として受け入れきれない。
けれど――。
その空洞の奥には、別のものも確かに残っていた。
父から受け取った言葉。
父から受け取った風。
そして、最後に向けられた笑顔。
それらが、消えずにエリオスの胸の中に残っている。
少し離れた場所を、リナたちが歩いていた。
リナも黒い衣服に身を包み、静かに前を見つめている。
隣にはレオンとアルが並び、フェルはリナの肩に乗ったまま、いつになく静かだった。
誰もエリオスに声をかけようとはしなかった。
それが今の彼女に必要な距離なのだと、全員が分かっていた。
近すぎれば、彼女が自分の感情を整理する時間を奪ってしまう。
かといって、離れすぎれば、一人で悲しみを抱えさせてしまう。
だから――近すぎず、遠すぎず。
ただ、そこにいる。
それだけでいい。
やがて葬列は、王都の外れへと辿り着いた。
そこには、一面に広がる緑の丘があった。
風の丘。
王都の中でも特に風が強く通り抜ける場所であり、遠くには王都の城壁が見える。
さらにその向こうには、どこまでも続く山々と青い空が広がっていた。
風が丘の草を撫でるたび、緑の波が一斉に揺れる。
ざわ……。
ざわざわ……。
その音は、まるで大地そのものが静かに呼吸しているようだった。
生前、グランディが何度も口にしていた場所。
「死んだら、風の通る場所へ還りたい」
それが、彼の願いだった。
だからこそ――。
ここが選ばれた。
葬列が止まる。
数人の魔導師が棺をゆっくりと地面へ下ろした。
土の匂いが、風に乗って漂ってくる。
エリオスはその光景を黙って見つめていた。
父が、ここへ帰ってくる。
その事実が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
やがて、王都魔道院の長が棺の前へ進み出た。
深く息を吸い、静かな声で告げる。
「グランディ・シルフィード」
風の音が、その声を包み込む。
「その生涯において、貴殿が守った命は数え切れない。王都に暮らす者たちだけではない。戦場で救われた魔導師も、旅人も、名もなき人々も……多くの者が、貴殿の風によって生きることができた」
一度、言葉を切る。
丘を吹き抜けた風が、魔道院の紋章を揺らした。
「その風は、決して失われることはない。その意志もまた――ここに残り続けるだろう」
短い言葉だった。
けれど、その一つ一つには、長年グランディと共に歩んできた者たちの敬意が込められていた。
そして、魔道院長の視線がエリオスへ向く。
「……最後に、娘として」
その言葉を受け、エリオスはゆっくりと一歩前へ出た。
草を踏みしめる。
一歩。
また一歩。
棺の前へ立つ。
そこには、もう動かない父がいる。
昨日まで握っていた手も。
自分を見つめてくれた瞳も。
もう動かない。
それでも、エリオスは逃げなかった。
静かに棺を見つめ、やがて顔を上げる。
「……お父様」
声は驚くほど穏やかだった。
昨日あれほど泣いたのに、今は涙さえ出てこない。
「まだ……何も返せていません」
風が吹き抜け、エリオスの淡い緑色の短い髪を揺らす。
「魔法を教えてもらって……何度も失敗して。それでも、お父様はいつも笑っていましたよね」
ほんの少しだけ、エリオスの口元が緩んだ。
「もっと自由に飛べって……何度も言われました」
胸の奥が痛む。
けれど、その痛みから目を逸らさない。
「強くなれって言われていたのに……まだ、全然です」
一瞬だけ、声が震えた。
それでも、エリオスは続ける。
「怖いこともあります。自分に何ができるのか分からなくなることもあります。これから向かう神殿で、私が本当にみんなを守れるのか……今だって、まだ自信はありません」
背後で、リナが静かにエリオスを見つめていた。
レオンもアルも何も言わない。
エリオスはゆっくりと空を見上げる。
どこまでも青い空。
風が流れている。
それは、昨日父が最期に語った“風”と同じだった。
「でも……」
エリオスは胸の前で、そっと手を握った。
「それでも私は、行きます」
その声に、初めて強さが宿る。
「私は――グランディ・シルフィードの娘であることを、恥じない」
風が、頬を撫でた。
「そして……いつか胸を張って言えるようになります」
エリオスは空を見上げたまま、静かに微笑んだ。
「私は、お父様の娘ですって」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「ちゃんと……誇れる風になります」
その瞬間だった。
丘を渡っていた風が、一段強く吹き抜けた。
ざあああっ――。
草原が一斉に波打つ。
エリオスの髪と礼装が大きく揺れ、棺を包む白い布が風を受けて静かにはためいた。
まるで、誰かが答えたようだった。
エリオスは目を閉じる。
「……お父様」
小さく呟いた。
「行ってきます」
その言葉を最後に、棺はゆっくりと土へ還されていった。
誰も声を上げない。
土が静かに重ねられ、やがて墓標が立てられる。
そこに刻まれた名は――。
グランディ・シルフィード。
その名を見つめながら、エリオスは長い間、動かなかった。
葬儀に参列していた人々も、やがて一人、また一人と丘を離れていく。
リナたちもすぐには近づかなかった。
今は、エリオスが父と二人だけで向き合う時間だから。
風の丘には、いつしかエリオスと墓標だけが残された。
エリオスは、手にした杖を静かに見つめる。
父が長年使っていた魔導杖。
その先端には、風の精霊石が埋め込まれている。
淡い緑色の石は、太陽の光を受けて静かに輝いていた。
「……お父様」
エリオスは杖を胸元へ抱き寄せる。
「本当に……もう、いないんですね」
答えはない。
当然だった。
それでも、その言葉を口にしたことで、胸の奥に押し込めていた悲しみが再び込み上げてくる。
「……もっと、話したかった」
唇が震える。
「もっと、教えてほしかった……」
涙が、一粒だけ頬を伝った。
けれど、その涙が地面へ落ちるより先に――。
ふっと、風の流れが変わった。
エリオスが顔を上げる。
先ほどまで一定だった風が、突然、途切れた。
草原の揺れが止まる。
鳥の声さえ遠ざかったように感じられた。
ほんの一瞬。
世界そのものが息を止めたような静けさが訪れる。
そして――。
足元から、風が巻き上がった。
さらり……。
最初は、ほんの小さな流れだった。
けれど、それは次第に強くなっていく。
エリオスの足元を中心に、淡い風の渦が生まれる。
それは荒々しいものではなかった。
髪を乱すこともなく、衣服を激しく煽ることもない。
ただ、エリオスを包み込むように、ゆっくりと旋回している。
少し離れた場所で、その異変に気づいたリナが息を呑んだ。
「……風が……」
レオンも目を細める。
アルは無言のまま、その光景を見つめていた。
そしてフェルだけが、何かを察したように金色の瞳を細める。
『……来たのか』
低い呟きが、風の音に溶けた。
エリオスは、自分を包む風に手を伸ばす。
触れることはできない。
けれど――。
懐かしかった。
幼い頃、父に手を引かれて庭園を歩いたときに感じた風。
魔法を失敗して泣いていた自分を、父が笑いながら励ましてくれたときの風。
そして、最後に父が「優しい風だ」と言ってくれたときに感じた、あの温もり。
同じだった。
「……お父様?」
その瞬間――。
風の中から、声が聞こえた。
『風は、止まらない』
エリオスの目が大きく見開かれる。
「……!」
確かに聞こえた。
幻聴なのかもしれない。
父の記憶が生み出した声なのかもしれない。
それでも――。
エリオスには、はっきりと分かった。
父の声だった。
『風は、どこへでも自由に行ける』
風が、エリオスの頬を優しく撫でる。
『だから――お前が選べ』
胸の奥が、強く脈打った。
ドクン――。
涙が溢れそうになる。
けれど、今度は悲しみだけではなかった。
父が最後に残してくれた言葉。
自分で道を選べという、何よりも大切な教え。
風が、少しずつ強くなる。
エリオスを中心に渦巻く風の中へ、淡い緑色の光が混じり始めた。
杖に埋め込まれた風の精霊石が、呼応するように輝きを増していく。
キィィン……。
澄んだ音が響いた。
エリオスが杖を握り直す。
指先には、もう震えがなかった。
「……分かりました」
涙を拭うことなく、エリオスは静かに答える。
「お父様の言葉……ちゃんと受け取りました」
風が、さらに柔らかく彼女を包む。
エリオスはゆっくりと目を閉じた。
深く息を吸う。
肺いっぱいに風を取り込むように。
そして――ゆっくりと吐き出す。
風の流れを感じる。
大地を撫でる風。
草原を渡る風。
空へ昇っていく風。
どこかから来て、どこかへ去っていく。
けれど、決して消えることはない。
「……ちゃんと、行ってきます」
その声には、もう迷いがなかった。
「お父様が教えてくれたこの風で――」
エリオスは杖を胸の前で強く握りしめる。
「私は、みんなを守ります」
風が、ふわりと大きく膨らんだ。
そして――。
弾けるように空へ昇っていく。
淡い緑色の光を纏った風が、エリオスの身体を包みながら高く舞い上がり、そのまま青い空へ溶けていった。
やがて、風の丘に静けさが戻る。
けれど、その静寂は先ほどまでとは違っていた。
悲しみに閉ざされた静けさではない。
何かを受け継いだ者だけが持つ、穏やかな静けさだった。
エリオスは、墓標を見つめる。
そこに刻まれた父の名。
グランディ・シルフィード。
もう、その名を見ても泣くだけではない。
悲しい。
寂しい。
もっと一緒にいたかった。
その気持ちは、これからも消えないだろう。
けれど――。
それと同じくらい、胸の奥に誇りがある。
自分は、あの人の娘なのだ。
その事実だけは、何があっても変わらない。
背後から、リナたちの気配が近づく。
それでもエリオスは、すぐには振り返らなかった。
最後にもう一度だけ、墓標を見つめる。
「……行ってきます」
今度の声は、穏やかだった。
「また、風に会いに来ます」
そして――。
エリオスは、墓標へ背を向けた。
一歩。
草を踏む。
さらに一歩。
今度は、振り返らない。
その背中を押すように、風がまっすぐ吹き抜けた。
まるで父が、「行け」と告げるように。
フェルが、その背中を見つめながら小さく呟く。
『……継いだな』
リナは静かに頷いた。
「うん……」
その声には、ほんの少しだけ涙が混じっていた。
けれど、エリオスはもう歩いている。
父から受け継いだ風を胸に抱きながら。
やがて向かうのは、天空都市シルヴァリア。
風の神殿――リベル・ヴェント。
そこには、空を閉ざす厄災と、かつて同じ精霊騎士として戦った者たちが待っている。
これから先、どれほど過酷な戦いが待っているのかは、まだ誰にも分からない。
それでも――。
風は止まらない。
誰かが亡くなっても。
道が途切れても。
残された者が涙を流しても。
受け継がれた想いは、次の場所へ吹いていく。
空へ。
巡礼へ。
そして――未来へ。
エリオスは歩き続けた。
その背中には、もう父のいない寂しさだけではなく、父から受け継いだ確かな風が吹いていた。
第44話 終わり
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