第43話 止まらない風
王都アルディア。
巡礼出発までーーあと3日。
その初日、エリオスは一人で回廊を歩いていた。
足音が、やけに響く。
石の床。高い天井。
いつもと同じはずの景色が、どこか遠い。
エリオスが向かう先は、決まっていた。
そこはーー医務棟。
エリオスは、扉の前で立ち止まり、手をかけて止める。
ほんの一瞬、幼い頃の記憶がよぎった。
小さな手を引かれて歩いた廊下。
風の魔法を教えてくれた背中。
「もっと自由に飛べ」と笑った声。
そして今、ゆっくりと扉を開いた。
ギィ……
静かな音を立てて中に入る。
薬草の香りが、胸に刺さる。
光の差す部屋の、その中央に父がいた。
「……お父様」
ベッドの上に、やせ細った身体が横たわっていた。
けれど、その面影は確かにそこにある。
王都魔道院 魔道隊長――
グランディ・シルフィード。
“風の賢者”。
そして――エリオスの父。
その瞳がゆっくりと開く。
「……エリオスか」
かすれた声。
それでも、いつもの優しい父の声だった。
エリオスは静かに歩み寄る。
「……お父様、来ましたよ」
エリオスの声が、少しだけ揺れる。
グランディは、かすかに笑った。
「……いい風を……まとっているな」
その言葉に、エリオスの胸が詰まる。
昔と同じで、何も変わっていないはずなのに、どうしてか遠く感じる。
「巡礼に出るそうだな」
エリオスは、うなずく。
「はい……」
「世界を……救うために」
短い沈黙あと、グランディは目を閉じる。
そして、ゆっくり息を吐く。
「……そうか」
それだけで、伝わる。
誇りも。
覚悟も。
その時ーー
コンコン……
控えめなノックのあと、部屋の扉が開く。
そして、小さな足音が近いてくる。
「……エリオス」
振り向くと、リナたちがそこにいた。
言葉はない。
ただ、そばに来る。
それだけで十分だった。
グランディの視線が、リナへ向く。
「……その光」
「やはり……そうか」
リナは、静かに頭を下げる。
「リナです」
グランディは、どこか懐かしそうにうなずく。
「……いい光だ」
そして、エリオスへ。
「……いい仲間だな」
その一言で、エリオスの中の何かが、崩れそうになる。
言葉が出ない。
ただ、うなずく。
グランディの呼吸が、わずかに乱れる。
時間が、減っていく。
誰もが、それを理解していた。
震える手が、持ち上がる。
エリオスは、すぐにそれを掴んだ。
「お父様……!」
その手は、もう軽かった。
それでも、温かい。
「エリオス」
かすれた声。
それでも、まっすぐ届く。
「お前は……優しい風だ」
涙が、にじむ。
「優しく……包む風にもなれる」
「すべてを乱す……嵐にもなれる」
呼吸が、途切れる。
それでも――言葉を紡ぐ。
「……お前の中の風は」
「どう在るかを」
「お前自身が、選べ……」
その言葉は、どこかで聞いた言葉と重なる。
エリオスの肩が震える。
「……怖いです」
こぼれた本音。
エリオスは、子どものままの声だった。
「間違えたら……どうしたらいいんですか……?」
一瞬黙ったあと、グランディの指が、ほんのわずかに動く。
エリオスの手を、握る。
「……風は自由だ」
かすれる声。
「止まっても……また吹くことができる」
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
エリオスの涙がこぼれ、止まらなくなる。
グランディの視線が、リナへ向く。
「……この子を頼む」
たった一言で、すべてを託す。
リナは、迷いなくうなずく。
「はい」
グランディの表情が、ほどける。
その瞬間、呼吸が大きく乱れた。
「っ……!」
「お父様!!」
医務官が動く。
だが――リナは首を降る。
そして、静かに一歩前へ出た。
「……大丈夫」
そっと、手を重ねる。
精霊たちが集まる。
やわらかな光。
風に揺れるような、やさしい光。
「もう……苦しくない」
光が、広がり包み込む。
まるで、風に抱かれるように。
グランディの表情が、ゆるむ。
「……ああ……」
かすかな声。
「……穏やかだ……」
その瞳が、エリオスを見る。
最後まで、まっすぐに。
「……誇りだ」
途切れそうな声。
それでも。
「……私の愛する娘」
その手が、わずかに力を込める。
そして――すっと、ほどけた。
静寂が落ちる。
何も、聞こえない。
エリオスは、動かない。
ただ――手を握ったまま。
「……お父様」
返事はない。
分かっている。
それでも。
「……お父様……」
声が崩れる。
「……っ……お父様……!」
そのまま、泣いた。
声を押し殺しながら、子どものように。
リナは、何も言わない。
ただ、そっと隣に立つ。
レオンも、アルも、動かない。
フェルだけが、静かに目を閉じていた。
『……風は、繋がったな』
小さな声で呟く。
窓の外で、風が吹く。
やさしく。
やわらかく。
まるで、見守るように。
ーーその日。
エリオスはひとつの別れを越えた。
だか――。
その風は、止まらない。
巡礼の旅へと、吹き始める。
第43話 終わり
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