避けられない現実
その日も、私はいつも通り針を動かしていた。
修繕が二着、新しい注文が一着。午前中に片付けてしまいたい。
チクチク、チクチク。
単純な作業だけど、嫌いじゃない。黙々と手を動かしている間は余計なことを考えずに済む。
「エラ、手が止まってるわよ」
「あ、すみません」
店長の声でハッと我に返った。いかんいかん。
針を持ち直して、作業に戻る。
そのまましばらく経った頃だった。
扉が開いて、涼やかな空気が入ってきた。
「失礼する」
低くて落ち着いた声。
顔を上げると、白い軍服を纏った長身の男性が立っていた。黒髪に、涼しげな目元。後ろには従者が畳んだドレスを抱えて控えている。
(あの人は……!)
第一王子、ロイス。
私は咄嗟に顔を伏せた。
(なんでここに!?)
「いらっしゃいませ」と店長が立ち上がった。
「どのようなご用件でしょうか」
「妹のドレスの修繕を頼みたい。裾がほつれてしまってな」
「かしこまりました。拝見しても?」
従者がドレスを店長に手渡した。店長はドレスを広げて確認しながら、ロイス王子に話しかける。
「これくらいでしたら、すぐに済ませられます。少々お待ちいただけますか」
「構わない」
ロイス王子は店内を見回した。椅子を勧められて、静かに腰を下ろす。
私はひたすら手元に集中する。
(見ないようにしよう。普通にしよう。いつも通りに仕事をすればいい)
チクチク、チクチク。
……視線を感じる。
(気のせい気のせい)
チクチク、チク――
「痛っ」
指に針を刺してしまった。
「大丈夫?」と店長が小声で聞いた。
「大丈夫です……」
小声で返しながら、そっとロイス王子の方を盗み見た。すると、彼もこちらを見ていたようで目が合ってしまう。
(だめっ!!)
私は即座に視線を手元に戻した。顔が熱い。
(なんで私が緊張してるんだ。向こうは私のことなんて知らないのに)
知らない。知らないけど。
雪さんと王子がキスをしたあのシーンが……
(この人が、私の正規ルートの……)
駄目だ。考えるな。手を動かせ。
チクチク、チク――
今度は糸が絡まった。
(なんで!?)
慌てて解こうとするけど、余計にこんがらがっていく。
「シンデレラ」
店長がそっと耳打ちしてきた。
「落ち着きなさい」
「落ち着いてます」
「落ち着いてないわよ」
否定できなかった。
深呼吸を一つして、もう一度針を持つ。
今度こそ集中だ。
チクチク、チクチク。
……やっぱり視線を感じる。
(見てるの?なんで?)
こっそりもう一度だけ盗み見た。
ロイス王子は静かに私を見ている。考えるような顔で。
(何を考えてるんだろう)
慌てて視線を戻したら、縫い目が曲がった。
(あああ……)
解いてやり直す。時間がかかる。店長がため息をついた気がした。
※※※※
数十分後、店長がドレスの修繕を仕上げた。私はそれを受け取りロイス王子に手渡す。
「お待たせしました」
「見事な仕上がりだ。礼を言う」
ロイス王子は立ち上がり、ドレスを受け取った。その時、うっかり指が触れてしまう。
「……」
「あ、ごめんなさい!」
私は必死に頭を下げる。ロイス王子は黙ったままだった。王子は何かを考えるように顎に手を当てて店内を見回す。そして、私のところで視線を止めた。
「君」
「は、はい!」
私は顔を上げた。ロイス王子と目が合う。間近で見ると、涼しげな目元がじっとこちらを見ている。
「さっき針で刺した指は大丈夫か?」
「あ、平気です」
「そうか」
ロイス王子は少し間を置いてから、続けた。
「ここで働いて長いのか?」
「少し前からです」
「そうか」
また間が空いた。ロイス王子は何かを考えているような顔をしている。私は顔が熱くなるのを感じながら、視線を手元に落とした。
(まともに顔が見られない……)
「また来る」
「あ、ありがとうございます!」
ロイス王子は従者に目配せして、ドレスを手渡した。帰り際、もう一度こちらに目を向けた。
「ところで」
「は、はい」
「その鞄、何か入っているのか」
「え?」
思わず手元の鞄を見た。ガラスの靴の先端が、鞄の口からほんの少しだけ顔を出していた。
(しまった!)
「……それは」
ロイス王子が一歩近づいた。涼しげな目が、ガラスの靴に向けられている。
「あの靴は……」
「あら、殿下!」
店長がすかさず割り込んできた。
「お帰りの前に、次回のご注文についてお伺いしてもよろしいですか?妹様のドレスでしたら季節に合わせた生地もご用意できますので」
ロイス王子はしばらく店長を見てから、ゆっくりと視線を私に戻した。私は鞄をそっと膝の後ろに隠す。
「……また改めて来よう」
「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
扉が閉まった。
私は大きく息を吐く。
「……ありがとうございます、店長」
「別に」
店長はそっけなく生地を片付けながら言った。
「あなたが面食いだったなんてね」
「……」
「でも、いくらあなたが美人でも、王子は厳しいと思うわ」
「で、ですよね〜」
「あの方、また来るわよ。きっと」
「……そうですね」
「その時はちゃんと落ち着きなさい。針を三回も刺して、糸は絡まるは、縫い目は曲がるは」
「……すみません」
「全部やり直したわよ、こっそり」
「え!?」
「気づいてなかったの?」
私は言葉が出てこない。店長は呆れたように笑った。
「まったく。しっかりしなさいな」
「……はい」
私は再び針を持つ。
(ロイス王子)
さっきの涼しげな目元が頭に浮かんだ。
(私の正規ルートの相手、か)
雪さんは正規ルートに戻った。潔癖症を克服して、自分の意志でリンゴを食べて、王子の手を取って歩いていった。
(私は……どうするんだろう)
答えは出なかった。
ただ、頭の中でロイス王子の顔とアースラ第二王子の顔が交互に浮かんで、私はまた縫い目を曲げてしまう。
「エラ!」
「……すみません」
※※※※
―王城にて。
ロイスは廊下を歩きながら、さっきの仕立て屋の娘のことを考えていた。ドレスを手渡された時に指先が触れた瞬間、何かが引っかかった。
(あの感覚は……)
舞踏会の夜、踊った娘の手を取った時の感覚に、どこか似ていた気がした。
それだけではない。鞄から覗いたガラスの靴。
(あの靴は……)
舞踏会の夜、あの娘が履いていたものと同じ形をしていた。偶然かもしれない。似ているだけかもしれない。だが――
「殿下、いかがなさいましたか」
従者に声をかけられて、ロイスは我に返った。
「なんでもない」
廊下を歩き続けながら、ロイスはもう一度あの娘の顔を思い返した。
顔を背けて、まともに目を合わせなかった娘。
(まさか……な)




