潔癖症を解決②
その朝、私はいつもより早く目が覚めた。
ロッソとテールはまだ丸まって眠っている。窓の外は薄明るくて、鳥の声が聞こえてくる。
(お腹すいたな)
私は静かに起き上がり、台所に向かった。簡単なものでいい。パンでも焼こう。継母達にこき使われていたおかげで、料理は一通りできる。むしろ得意な部類だ。
台所の扉を開けると、薪とフライパンに手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待って!!」
「わっ!?」
扉の陰からアナスタシアお姉様が飛び出してきた。両手を広げて、台所の入口を塞いでいる。
「な、なんですかお姉様、びっくりした」
「そ、それはこっちのセリフよ!急に台所に入ってこないでちょうだい!」
(急にって……台所に入るのに予告がいるの?)
「ちょっとパンを焼こうと思って」
「い、いいわよ!私が焼くから!」
アナスタシアお姉様は必死な顔で私の前に立ちはだかっている。その後ろを覗くと、ドリゼラお姉様が遠くの壁際に張り付いて、こちらをじっと見ていた。
「ドリゼラお姉様も早起きなんですね」
「そ、そうよ!たまたまね!」
(二人して台所の前で待ち伏せしてたの?)
「でも、私やりますよ。料理は得意ですし」
「だ、大丈夫!私達でできるから!」
「でも……」
「エラ」
アナスタシアお姉様が声を潜めた。真剣な目をしている。
「火は……使わないでちょうだい」
(あ、そういうことね)
なるほど。放火魔だと思われているわけだから、火を使わせたくないということか。
(いや、待って。普通に料理で火を使うのと、家に火をつけるのは全然違うんですけど!?)
「大丈夫ですよ、料理で家は燃えませんから」
「そ、それはわかってるけど……!」
アナスタシアお姉様は視線を泳がせた。全然わかっていない顔だ。
(わかってないじゃないですか!)
「本当に私がやりますから」
「い、いいから!ね?お願いだから部屋に戻っててちょうだい!」
(お願いされた……)
以前のアナスタシアお姉様がお願いなんてするはずがなかった。命令か、嫌味か、どちらかだった。それが今は、両手を合わせて必死にお願いしてくる。
(複雑な気持ちになるな、これ)
「……わかりました」
私は大人しく台所から引き下がった。
しばらくして、台所からジュウジュウという音と、焦げた匂いが漂ってくる。
(やっぱりそうなるよね……)
ドリゼラお姉様の「あっ」という声と、アナスタシアお姉様の「ちょっと、火が!」という声が聞こえた。
(大丈夫かな……)
私は部屋に戻りながら、小さくため息をついた。
結局、その朝の朝食は真っ黒に焦げたパンだった。
「……美味しいです」
「そ、そう。よかった」
アナスタシアお姉様は安堵したような、申し訳なさそうな、複雑な顔をしていた。
(私が作った方が絶対美味しかったのに)
そう思ったけど、口には出さなかった。
※※※※
その日の夕方、私は雪さんに会いに行った。
「潔癖症克服作戦の次のステップについて相談があります」
「リンゴね」
「そうです」
雪さんは腕を組んで、少し考えた。
「わかった。やってみる」
「本当ですか!?」
「寿司も食べれたじゃない。今さら怖気づかないわよ」
(頼もしい……!)
「まずは二人きりで練習しましょう。カリフさんの洗剤で洗ったリンゴから始めて」
「……洗剤で洗ったリンゴ」
「食べられますよね?」
「……たぶん」
雪さんは渋い顔をしたけど、頷いた。
「そういえば毒リンゴってどうやって作るんでしょうね?」
「は?」
「魔女がどこかの場所で、何かを混ぜて……」
「ちょっと待って」
「きっと不気味で大きな壺の中で……」
「やめなさいって言ってるでしょ!!」
雪さんが立ち上がった。顔が青い。
「ごめんなさい!」
「最悪。余計なこと言わないで」
(やってしまった……)
私は深く反省した。毒リンゴの作られる過程を想像させるのは、潔癖症の雪さんに対して最悪の行為だ。
※※※※
翌日。
カリフの洗剤で丁寧に洗われたリンゴが、テーブルの上に置いてある。皮は私が剥いた。手も洗剤で念入りに洗った。
「どうぞ」
「……」
雪さんはリンゴを見つめたまま動かない。
「大丈夫ですよ。カリフさんの洗剤で洗いましたし、私の手も……」
「わかってる」
「じゃあ……」
「わかってるって言ってるでしょ!」
(寿司の時と同じ流れになってる……)
雪さんはゆっくりと手を伸ばした。リンゴを持ち上げる。口元に近づける。
止まった。
「……なんで寿司より難しいのよ」
「やっぱり難しいですか」
「当たり前でしょ。あれはあなたへの信頼が――じゃなくて……あー、もう!私に何を言わせるのよ」
「焦らなくていいですよ」
「焦ってない」
「……じゃあゆっくりで」
雪さんはもう一度口元に近づけた。また止まった。
結局その日は食べられなかった。
「また明日」と雪さんは言った。
負けを認めたくない顔で。
「また明日」と私も言った。
※※※※
数日後。
同じ練習を繰り返すうちに、雪さんはカリフの洗剤で洗った皮なしリンゴなら食べられるようになっていた。
「次のステップです」
「……皮付き?」
「はい。しかもドワーフさん達の前で」
雪さんの眉間のシワが深くなる。
「なんでわざわざ人前で」
「本番は魔女の前でやるわけですから、緊張感に慣れておいた方がいいと思って」
「……一理あるわね」
ドワーフの家のリビングに、五人が一列に並んでいた。カリフが洗剤でリンゴを洗い上げ、今度は皮付きのまま雪さんに差し出した。
「ゆきさま、どうぞ!」
「……」
雪さんはリンゴを受け取った。皮付きだ。洗剤で洗ってあるとはいえ、表面がある。
「ゆきさまならできます!」とフーラが拳を握った。
「ゆきさまがんばれー!」とマロンが叫んだ。
「うるさい」
「えへへ」
ミミは黙って応援している。ゴンゾは腕を組んで静かに見守っていた。
雪さんはリンゴをじっと見つめた。
(頑張れ、雪さん)
私も黙って待った。
「……っ」
雪さんは目を細めて、リンゴに齧りついた。
「やったー!!」
「すごいすごい!」
「ゆきさまー!」
「近づかないで!」
でも、雪さんの口の端が少し上がっていたのを私は見逃さなかった。
※※※※
そしてついに最終段階。
街の露天市場。色とりどりの果物や野菜が並んでいる。その中に、真っ赤なリンゴが積み上げられていた。
「……」
雪さんは露天の前で立ち止まった。
「誰が触ったかわからない」
「そうですね」
「洗剤もない」
「そうですね」
「こんなの……」
雪さんの声が小さくなった。人混みの中で、雪さんだけが止まっている。
私はリンゴを一つ買った。売り物のリンゴだ。露天のおじさんが素手で渡してくれた。
「はい」
「……」
雪さんはリンゴを見つめた。じっと、じっと見つめた。
その時――
雪さんの手の甲が、じわりと薄紫色に染まり始めた。
「雪さん!」
「大丈夫……ちょっと、眩暈が」
全然大丈夫じゃない。
(言うべきか……)
マジックイーターの正体。魔法少女の成れの果て。このまま正規ルートに戻らなければ、雪さんはいつかあの化け物になる。
それを今、言えば。
雪さんは恐怖から克服しようとするかもしれない。でもそれは、雪さん自身の意志じゃない。
(駄目だ。雪さんには自分で決めてほしい)
私は唇を噛んだ。
「雪さん、少し休みましょう」
「……待って」
雪さんが私の腕を掴んだ。
「待ってよ」
雪さんはリンゴを持ったまま、俯いていた。薄紫色がじわじわと広がっている。
「今日、やる」
「雪さん……」
「こんなところで、負けてたまるか」
雪さんの声は震えていたけど、芯があった。
私は何も言わなかった。
雪さんは顔を上げた。目を閉じた。
そして、リンゴに齧りついた。
人混みの中で、しばらく誰も動かなかった。
「……」
雪さんはゆっくりと噛んで、飲み込んだ。
肌の薄紫色が、すっと引いていく。
「雪さん……!」
「うるさい」
雪さんは顔を逸らした。でも、目が少し赤かった。
(泣いてる)
私も、なんだか泣きそうになる。
「よかった」
「……うるさいって言ってるでしょ」
でも、雪さんはリンゴをもう一口齧った。
(本当に、よかった)
※※※※
帰り道、二人で並んで歩きながら、私はふと考えた。
リンゴは食べられるようになった。次は毒リンゴを食べて眠ること。そして王子に目覚めさせてもらうこと。
(あれ……待って)
「どうしたの、急に止まって」
「……キスって」
「は?」
「白雪姫の正規ルート、王子にキスで目覚めさせてもらうんですよね」
「そうね」
「じゃあ……練習が必要では?」
雪さんはしばらく私を見てから、呆れたように言った。
「寝てるんだから関係ないでしょ」
「あ……そっか」
「バカなの?」
「……ごめんなさい」
私は顔が熱くなるのを感じた。確かに寝てたら関係ない。何を照れていたんだ私は。
「次は毒リンゴをどうするかね」
「そうですね……でも、ここまで頑張ったじゃないですか。きっと大丈夫ですよ」
「……」
二人で並んで、夕暮れの街を歩いた。
雪さんがリンゴを克服した。一歩、また一歩、前に進んでいる。
(私も、ちゃんと考えなきゃな)




