29 聖遺物の正しい調理法 前
少し歩いた先で、私は驚くべきその光景を目にした。
一人のメイドが、廊下に無造作に横たわっている……。
「ちょっと、大丈夫……?」
声をかけながら近寄ってみると、どうやら死んではいない。ただ、いくら揺り動かしても起きる気配がなく、泥のように深く眠り込んでいるだけだった。さすがにこれが異常事態だということは、私にだってわかるわ。
一瞬、またマニアちゃんが何かやらかしたのかしら、なんて考えが頭をよぎったけれど、事態はもっと深刻そうね。私が『鑑定』をかけて視界を切り替えると、この屋敷の異常が「色」となって浮かび上がった。
呪いに似た、禍々しい一本の線のようなものが、壁を突き抜けて奥へと伸びている。さらに意識を集中して周囲を見渡せば、同じような線が何本も、網の目のように屋敷中を走っていた。
その線の先を辿っていくと、すべては窓の外――あの教会の方向へと繋がっている。
「……嫌な予感がするわね」
教会へ向かう前に、私は他の「線」がどこから伸びているのかを確かめることにした。
幾つかの扉を開けて部屋を覗いてみたけれど、どこも同じ有様だった。メイドや使用人たちは皆、昏睡状態としか思えない深い眠りに落ちている。
そして、昨日まであんなに騒がしく、元気に喋っていたあの三姉妹も。 几帳面な姫カットちゃんこと長女、マーガレット。 私を様付けで崇拝していた私の大ファン次女、ベリル。 相変わらず派手な縦巻きを誇っていたドリルちゃんこと三女、コーデリア。
彼女たちでさえ、それぞれの豪華なベッドに横たわったまま、ぴくりとも動かない。 屋敷の主である領主も、おそらく似たような状態で眠り続けているのでしょうね。
昨日までの華やかな喧騒が嘘のように消え失せ、冷たい静寂だけが部屋を満たしている。その光景を見ているうちに、私の胸の中にどろりとした不快感が湧き上がってきた。
「……なんか、無性に腹が立つわね」
せっかくのバカンスを、こんな気味の悪い呪いで台無しにされた。 私は、いまいましい線の行き着く先――教会へと、迷うことなく足を向けた。
教会へと向かう道中、街には全く人の気配がなかった。
オスマン邸だけでなく、立ち並ぶ民家や商店の至る所から、あの不気味な『線』が幾本も伸び、すべてが教会の方へと収束している。 そして、鼻をつくあの不自然な香りが、逃げ場を塞ぐかのように街全体にまとわりついていた。
「こんな大規模な呪い……いいえ、もはや儀式ね。一晩のうちにどうやって仕掛けたのかしら」
かつてマニアちゃんが騒ぎを起こしたときは、人工呪物を街中にばら撒いて、呪いを薄く拡散させる手法だった。あれは被害が出ない程度に呪いを「昇華」させた、いわば彼女なりの理屈があるものだったけれど。
でも、今回は違う。そもそも、街の住民への被害なんて微塵も考慮されていない。 鑑定眼越しに見えるあの線は、眠っている人々の生命力をじわじわと吸収している……そんな、吐き気を催すほど不快なものだった。
考えれば考えるほど、一つの疑念が確信に変わっていく。
あの眼鏡……。 まさか、私が邪魔をしないように遠ざける目的で、あのお嬢様方の相手を押し付けたの? はじめから、すべてあいつの計算通りだったっていうわけ?
高級ベッドや大浴場で私を釣って、その隙にこんな真似を……。 「してやられた」という思いが頭をもたげ、私の中の不快感はさらに激しく募っていく。
「……タダで済むとは思わないことね」
プライドを傷つけられた怒りを燃料に、私はいまいましい線の行き着く先――教会の門前へと辿り着いた。
ようやく教会へと辿り着いた私。
そこには、街中から伸びていたあのいまいましい『線』が一点に収束していた。 中心にあるのは、一つの呪物。いえ、そんな生ぬるい言葉じゃ足りないわね。あれはもはや、人々の生命力を凝縮して固めた『呪結晶』とでも呼ぶべき、禍々しさの塊だわ。
それを恭しく掲げているのは、やはりというか、あの眼鏡司教ことルキウス。 左右には、鉄壁の守りを固めるように、威圧感を放つ二人の神官騎士を従えている。 そしてその傍らには、苦しげに喘ぎながらも、なんとか眠りに抗っている司祭ちゃんの姿もあった。
「おや? 遅かったですね。必ず来るとは思っていましたが……クシナさん」
私の姿を認めるなり、眼鏡は相変わらずのうさん臭い笑みを浮かべて、余裕たっぷりにそう言った。
「いかがでしたか、伯爵邸の寝心地は。あなたをそこへ留めるためだけに用意させた、最高級の『檻』ですよ」
「……あー、やっぱりね。あんな露骨なエサに釣られるなんて、一生の不覚だわ。おかげで目が覚めたら、街中が気味の悪い糸くずだらけ。私の朝の気分をここまで最悪にした罪は重いわよ、眼鏡」
私は吐き捨てるように言い、さらに視線を鋭くして続けた。
「それに、よく見るとその護衛騎士。……あのごろつき二人組じゃない。昨日、衛兵に連行されていったはずの連中が、なんで神官の格好をしてアンタの横に立ってるのかしら。はじめから全部、仕組まれていたっていうわけね」
「ふふ、なんのことか分かりませんね」
とぼける眼鏡司教の表情は、どこまでも白々しい。けれどその瞳の奥には、すべてを掌の上で転がしているという傲慢な悦びが透けて見えた。
「それで? 一体全体、何を目的としてこんな大掛かりな真似をしでかしているのかしら? 教会っていうのは、こういう歪んだ収集癖(趣味)の持ち主が集まる場所だったのかしらね?」
私の刺すような言葉にも、ルキウスは眉一つ動かさない。
「別に、あなたに説明する義理もないのですが……。まあ、良いでしょう。退屈な朝の余興にはなりますからね」
ルキウスはそう言うと、手にした呪結晶をうっとりと眺めながら言葉を継いだ。
「なに、簡単なことですよ。私はこの街の住民のことを思って、彼らのために行動したに過ぎません。すでにあなたも知っている通り、聖遺物は浄化を行うたびに莫大な力を消費します。その不足分を補填するために、住民の皆さんの生命力を少しばかり『寄進』していただいた……それだけのことですよ」
(……何を言っているのよ、この眼鏡は)
吐き気のするような言い草に、私は鼻で笑ってやった。
「……嘘ね。自分で言っていたじゃない、あの数の呪物を浄化したところで、聖遺物は大して力を失っていないって。それに、あなたの信奉するその『聖代教』だっけ? それは他者を犠牲にしてまで奇跡を成せ、なんて不吉な教えを説いているのかしら?」
私の追及に、ルキウスの余裕に満ちた笑みが、一瞬だけ止まる。 静寂。苦しげな司祭ちゃんの呼吸音だけが、不自然なほど大きく聞こえた。
「……ふむ。そういえば、そんなことを言った記憶もありましたね」
ルキウスは、まるで「今日の天気は晴れでしたね」とでも言うような軽さで、あっさりと自分の嘘を認めてみせた。その瞳の奥には、もはや隠そうともしない冷酷な光が宿っている。
苦しげに喘ぎながらも、司祭ちゃん――シエスタが声を絞り出した。
「……違います……っ。聖代教の教えは……そんな、そんな非道なものでは……ありません……!」
震える声での必死の抗議。けれど、眼鏡司教ルキウスは、足元に転がるゴミでも見るかのような冷ややかな視線を彼女に投げた。
「司祭ともあろう者が、この程度の『聖域』で床に伏すとは情けない。……今のあなたに、教えを説く権利などありませんよ」
ルキウスの手元で、呪結晶がドクンと脈打つように禍々しく発光した。その拍子にシエスタは短い悲鳴さえ上げられず、糸が切れた人形のようにガクリと意識を失った。
「なっ……!? ちょっと、仮にも同じ教会の仲間でしょ、あの子!」
あまりに容赦のない仕打ちに、私は思わず声を荒らげた。けれど、眼鏡は事もなげに、むしろ不気味なほど楽しげに口角を上げた。
「仲間だと思ったことなど、一度たりともありませんよ」
クスクスと喉を鳴らすその笑い声が、静まり返った教会に薄気味悪く響き渡る。
「さて……クシナさん。邪魔者も眠ったことですし、少し『真実』の続きを語りましょうか」




