909:言葉の力
「あ、あの、この……本を借りたい……んですけど。」
ただ本を持ってきて、俺に貸し出しの旨を伝えながら渡してくれればいいだけなのに、その男の子はガチガチに緊張している。
まるでここがえっちな本を売る専門店で、彼は初めて買いに来た客のようだ。
<確かに、勢大の人相ならそういう店の店長だと言われても、過半数の人間が納得するでしょう。>
はは、違いない。
これは流石に、マキーナに反論出来ないな、と、心の中で笑う。
これまで無数の異世界で荒事をくぐり抜けてきた。
時には本当に危ない取引に巻き込まれることもあった。
それに比べれば、この少年にアダルトグッズを売りつけるくらい、何ということもないだろう。
まぁ、今の俺は学校司書だ。
そんなおかしな事をするまでもないが。
「はい、期限は1週間なんで、それまでには返してね。
読み切れなかったらまた持ってきてもらえれば、“次に借りたい”って人がいなければまた1週間の貸し出しは可能だからね。
えぇと、ハマイチくん、だっけか?」
「あ、ハイ。
覚えてもらってて恐縮です。
……その、この本って1週間じゃ読めないくらい難解なんでしょうか?」
チラと、貸し出し手続きを終えて渡そうとしていた本に目を落とす。
“罪と罰”──ロシアの文豪が書いた、人の心理描写を描いた長編だ。
一つの悪事は、その後の百の善行で帳消しになるのか。
確か、そんな命題がテーマだったはずだ。
今でも姿形を変えて論争になる、人にとっては普遍のテーマだろう。
「あー、まぁ、本を読み慣れているなら、そこそこ時間がかかっても読めると思うよ?
ただねぇ……。」
俺が言葉を濁すと、彼は少し青ざめた表情になる。
“そんな難しい本なのか”と、少し気後れしているようだ。
「いや、ロシア文学だろう?
名前がさ、あっちの人の名前はそもそも難しいのに、たまにソイツの愛称とかまで混ざるからさ、読んでても途中で“ん?誰だコイツ?”ってなったりするから、そこだけが難解なんだよなぁ。」
俺の答えが意外だったようで、彼は少し驚いた顔をした後にクスクスと笑う。
「フフ、セーダイさんでもそうなんですね。
良かった、前の本も色んな人がいっぱい出てきて混乱していたら、実際には同じ人だよって教えてもらったんですが、そうしたら今度は誰がどれだかますますわからなくなっちゃったりして、本当に難しいですよね。」
「前の……あぁ、“カラマーゾフの兄弟”か。
ありゃ俺でも理解するのはギブアップだぜ。
兄弟は3人だと思っていたのに、読んでて5人か6人くらいいそうに感じてたからなぁ。
まぁ、君には教えてくれる人、がいるようで、羨ましい限りさ。」
ニヤニヤとそう返すと、彼は途端に顔を真っ赤にする。
カラマーゾフの兄弟は、少し前にフネという少女が読んでいた。
そして今手に取っている罪と罰も、この間遅くまで残っていた時に彼女が読んでいた本だ。
「な、な、な。
そんなこと、ない、デスヨ……。」
途端にギクシャクとしてくれて、実にわかりやすい。
そんな彼を、少し後押ししてしまいたくなる。
「あぁ、そう言えばその本を最近読んでいた女の子がいてな。
今はその子は“異邦人”って本を読んでいたな。
ま、その子は数日同じ本を読んでいたりするから、まだ焦る必要は無いかもな。」
本を手渡しながら、独り言のように思い出したことを呟く。
彼は耳まで真っ赤にしながら、何も言わずにお辞儀をすると、両手で本を抱えて足早に出ていった。
<勢大、若者を応援するのは良いですが、まだ次の授業で使う予定の資料を集め終えていませんよ?>
マキーナのひと言で、余韻も何もかも吹き飛ばした俺は、慌てて席を立つと本棚へと向かう。
やれやれ、予想以上にこの仕事はハードだ。
「セーダイさぁん?開いてるぅ〜?」
結局、今日も定時に上がることはできずに模造紙を広げて図鑑の資料を貼り付けていると、当たり前のように学生たちが入ってくる。
「お前らなぁ、ここは遊び場じゃねぇし、居酒屋でもねぇんだぞ?」
「え〜、アタシらまだお酒飲めないしぃ〜。」
「マジ聞いてよセーダイさん、デコハゲが帰りにゲーセン行くなとか、見つけたら内申点落とすとか言っててさぁ〜。」
「時間を持て余している可哀想な学生たちが、悩みをオトナに相談しに来てんじゃ〜ん。」
やれやれ、コイツラは……と、額に青筋が立ちそうになる。
だが、考え直す。
この子たちは、言い方は悪いが“スレスレのラインにいる子たち”なのだ。
親からの愛情を受け、本人も頑張って品行方正にしている子たちもいる。
その逆に、愛情が受けられず、暗闇に向かっていく子たちもいる。
そして、その間には普通の生活をしている子たちがいる。
ここにいる子は、完全に闇の中へ踏み込むまでは行かず、しかし品行方正にも生きられない、ギリギリのラインで踏みとどまっている子たちなのだ。
浅瀬の、夕暮れの中で悪ぶっている、根は普通の子たち。
そういう子供を、文学の力で、品行方正とは行かなくても、普通のラインまで引き上げる手助けが出来ないだろうか。
学校司書をしていて、俺は少しずつそう思うことが増えてきていた。
人は変えられない。
しかし、言葉なら、文字なら、本人が考える経験を積んでくれるなら。
もしかしたら、変えられるきっかけくらいにはなるかも知れない。
歳をとると、本を読むことの重要性が身に染みる。
別に、文学を覚えることが重要なのではない。
“作者は何が言いたいんだ?”とか、“こういう経験・考え方をする奴もいるのか”と、“考える習慣”が出来る。
人は獣ではない。
“人間は考える葦である”と、昔の哲学者は言った。
人間は脆弱な存在だとしても、“考える”ことができる点で、生物としての偉大さや尊厳を謳った言葉だ。
俺もそう思う。
ここで彼らの悩みを聞き、相談にのり、そして考える手助けをする。
これもまた、大事なことと思えるのだ。
<それでも、残業手当は出ませんけどね。>
そうなんだよなぁ、そこが痛いところ……いやいや、現実的なことはさておこう。
俺は、娯楽施設の延長のように図書室で楽しそうに笑う彼らに、咳払いをして空気を変える。
「さて、皆さま、図書室ではお静かに願います。」
ほんの数秒、その言葉は効果があった。
しかし、次の瞬間にはまた、楽しげな会話に、俺を巻き込む彼らの姿がそこにはあった。




