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聖女候補の面接で「志望動機は?」と聞かれました【連載版】  作者: あゆと
第二章 黒い聖水

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黒い聖水

 黒い筋は、白い器の底で止まらなかった。

 北坂区の水は、一滴だけだった。


 それなのに、神殿の聖水の中で煙のように広がっていく。

 透明だった水面が、内側からゆっくり濁った。


 大広間が、一瞬だけ静まった。

 一拍遅れて、神官の鋭い声が飛んだ。


「器を囲め!」

「水差しを封じよ!」

「代表者を聖女様から離せ!」


 神官たちが一斉に動いた。

 神殿衛士の白い槍が、半歩前へ出る。


 大広間の奥から、ざわめきが広がった。


「北坂区の水だろう」

「水差しに何を入れた」

「代表を下がらせろ」

「聖女様の晴れの日に、なんということを」

「あの女を近づけるな」

「不吉だわ」


 不吉。


 その言葉だけが、ミナの耳にはっきり届いた。


 北坂区の代表、リィナは水差しを抱えたまま動けずにいた。

 まわりの声に、返す言葉を失っている。


「ち、違います……」


 リィナは首を振った。


「私は、ちゃんと井戸から……今朝、くんで……」


「水差しを置きなさい」


 近くの神官が、低い声で言った。


 リィナは、水差しを抱え直した。

 赤く荒れた指が、白い水差しの取っ手を強く握っている。


「申し訳ございません……。聖女様の式を、私どもの水で……」

「こちらへ」


 衛士の手が、リィナの腕へ伸びた。


「待ってください」


 ミナは、祭壇の上から声を出した。

 大きな声ではなかった。


 けれど、衛士の手が止まった。


 コーデリアが、ほんの少しだけミナを見る。

 ミナは、石段を一段降りた。


「聖女様、危のうございます」

「腕を取らないでください」


 ミナは、衛士ではなくリィナを見て言った。


「水差しは封じてください。でも、リィナさんを罪人のように連れていかないでください」


 衛士が迷う。

 その前へ、コーデリアが静かに出た。


「聖女様のお言葉です」


 コーデリアの声は、低く、よく通った。


「水差しには封を。リィナ様には、手を触れないでください」


 リィナが顔を上げる。


「聖女様……」


 祭壇の下には、衛士が立っている。

 ミナはその手前で止まり、リィナの顔が見える段まで進んだ。


「リィナさん。その水は、どこでくみましたか?」

「坂を上がった先の共同井戸です」


 リィナは、震える声で答えた。


「北坂区の者が、いつも使っている井戸です。今朝、私がくみました」


「くんだ時は、透明でしたか?」

「はい!」


 リィナはすぐにうなずいた。


「本当です。朝一番に、澄んでいるところをくみました。聖女様にお出しするものだから、何度も見ました」


 そこまで言って、リィナは唇を噛んだ。

 まだ何か言いたそうだった。


 けれど、大広間の中では、別の声が広がっていた。


「透明だったと言えば済むのか」

「途中で何か入れたのでは」

「あの代表を下がらせろ」

「聖女様の前に立たせるべきではなかった」


 リィナは水差しを抱えたまま、また床を見た。


 ミナは、白い布をかけられた器を見た。

 黒く濁った水は、もう外から見えない。


 それでも、消えたわけではない。


「リィナさんの話を聞かせてください」


 ミナは言った。


 大広間のざわめきが、もう一度変わる。

 近くの神官が、困ったように口を開いた。


「聖女様」


 大神官が、黒く濁った器を見てから、ミナを見た。

 深いしわの奥の目は、怒ってはいなかった。


「聖女就任式は、ここまでとする」


 大神官の声が、大広間に通った。


「その器に触れるな。水差しにも封をしろ。他の聖水と混ぜるな」


 神官たちが動き出す。

 白い布の上に、封蝋が押された。


 リィナの水差しにも、神殿の封印が巻かれていく。


「北坂区の代表は、控えの間へ。手荒なまねはするな」


 大神官が言うと、衛士たちは半歩下がった。


 コーデリアが、リィナのそばへ寄る。


「リィナ様。こちらへ」


 リィナは、水差しから手を離すのに少し時間がかかった。

 神官が水差しを白布で包んでも、リィナの目はしばらくそこから動かなかった。


 ようやく頭を下げて、リィナは神官に導かれていく。


 大広間の入口の方で、声がいくつも重なった。


「黒い聖水が出た」

「北坂区の水らしい」

「代表から話を聞くらしい」

「聖女様の晴れの日を汚したのだ」


 ミナは口を開きかけた。

 けれど、今その声に言い返せば、さらに人が集まるだけだった。


 さっきまで、民たちは胸の前で手を組んでいた。

 小さな拍手も起きていた。


 最後の祈りを終えれば、就任式は終わるはずだった。

 けれど今、誰も式の終わりを見ていない。


 見ているのは、黒く濁った水。

 そして、水差しを手放したあとも頭を下げ続けるリィナだった。


 他の代表者たちは、神官に導かれて大広間の外へ下がっていく。

 祭壇裏へ続く控え廊下の先には、地区代表の待機室があった。



 祭壇裏の控えの間へ入っても、外のざわめきは消えなかった。


「黒い聖水」

「不吉」

「北坂区」


 言葉だけが、扉の向こうから入ってくる。


 リィナが何度も頭を下げていた姿が、まだ目に残っている。


 コーデリアは扉の近くに立ち、外の音を聞いていた。

 少しして、ミナの方を向く。


「ミナ様が声を上げてくださらなければ、リィナ様はあのまま連れて行かれていました」


 コーデリアは、扉から視線を戻した。


「ですが、北坂区をかばったようにも見えます」


「かばったのではありません」


 ミナはすぐに言った。


「話も聞かずに、罪人のようにされるのが嫌だったんです」


「分かっています」


 コーデリアはうなずいた。


「私も、このまま終わらせてよいことではありません」


「コーデリア様も、そう思いますか?」


「はい」


 コーデリアは、迷わずうなずいた。


「このまま帰してよいことではありません」


 ミナは、ようやくコーデリアの顔を見られた。

 自分だけが、おかしいことを言っているのではなかった。


 リィナを放っておけないと思ったことは、間違いではなかった。


「……よかった」


 小さく出た声に、コーデリアが少しだけ目を細める。


「ですが、今すぐ井戸へ向かわれれば、リィナ様はもっと目立ちます」


 コーデリアは、扉の方を見た。


「聖女様にかばわれた代表。そう呼ぶ者が出ます」


「でも、このままだとリィナさん一人のせいになります」


「だから、先にリィナ様ご本人から聞きましょう」


 コーデリアは言った。


「水をくんだ時、誰がそばにいたのか。水差しに触れた者がいたのか。井戸のまわりに、変わったことはなかったのか」


「でも、それを聞いたら、リィナさんがもっと疑われませんか?」


 コーデリアは首を振った。


「聞かないままにすれば、外の声だけが先に広がります」


 外では、まだ人の声が絶えなかった。

 誰かが廊下を走る足音も聞こえた。


「ミナ様は、リィナ様のお話をお聞きください」


 コーデリアは続けた。


「器と水差しは、私が見ます。封をしたまま、誰にも触れさせません」


 ミナは、コーデリアを見た。


 リィナを見るのは、ミナ。

 水を守るのは、コーデリア。


 そう思うと、ひとりで前に出ている感じが少しだけ薄くなった。


「それからでも、井戸へ向かうことはできます」


 コーデリアは言った。


 ミナはうなずいた。


 ここで引けば、式は終わる。

 けれど、外へ出ていくのは「北坂区の水だった」という話だけだ。


「リィナさん一人のせいで終わらせたくありません」


「はい」


 コーデリアは、まっすぐミナを見た。


「そのために、私も動きます」


 その時、扉の外で神官の慌てた声がした。


「リィナ様をお連れしました。まだ控え廊下におります」


 コーデリアが扉へ向かう。

 白手袋の指が、扉の取っ手にかかった。


「リィナ様をお通しください」


 コーデリアが扉を開けようとした、その時だった。


 隣の地区代表の待機室から、声が漏れた。


「でも、新聖女様の就任式で黒い聖水でしょう」

「縁起が悪いわ」

「あの方、王都の方ではないのでしょう」

「コーデリア様なら、儀式の前に気づかれたかもしれませんわ」


 コーデリアは、取っ手に手をかけたまま止まった。

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