聖女就任式
今日は、ミナの聖女就任式だった。
新しい当代聖女を、神殿と民に示す日。
そして、各区の代表が水を捧げ、聖女の祝福を受ける日でもある。
神殿の大広間には、白い槍を持った神殿衛士が左右に並んでいた。
祭壇の下には、各区の代表者が列を作っている。
その後ろには神官たち。
さらに奥には、貴族と、遠くから見に来た民たちがいた。
聖女に直接近づける者はいない。
式の最後には、献水の儀がある。
各区の代表者が、自分たちの区の井戸や水場からくんだ水を一滴、神殿の聖水へ合わせる。
水が澄んだままなら、聖女が区の名を聞いて祈る。
祈りのあと、神官はその聖水を小瓶に封じる。
代表者は小瓶を受け取り、自分たちの区へ持ち帰る。
井戸のそばへ。
祈りの日の祭壇へ。
病人の枕元へ。
薬ではない。それでも、民は聖水を待っている。
ミナは祭壇の上に立っていた。
白い衣の袖が、少し重い。
足元の石段が、いつもより遠く感じる。
横には、コーデリアが控えている。
白手袋の指が、予定表の端を押さえていた。
「最初は中央区です。聞くのは、代表者ではなく区の名です」
大広間の奥で、大神官が杖を鳴らす。
「当代聖女ミナ様の御前へ。中央区代表」
最初に進み出たのは、白髪の老人だった。
銀の水差しを両手で持ち、祭壇の三段下で膝をつく。
老人の額が、石の床につきそうなほど下がった。
「当代聖女様。中央区の水を、お受け取りください」
神官が水差しを受け取る。
白い器には、神殿の聖水が張られていた。
中央区の水が一滴、白い器へ落ちる。
水は透明なまま、朝の光を映して揺れていた。
ミナは胸の前で手を組んだ。
「中央区に暮らす人々の今日が、少しでも穏やかでありますように」
白い器の水面が、かすかに光る。
神官が聖水を小瓶に封じる。
老人は両手で受け取り、もう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。これで、今年も皆に祈りを持って帰れます」
後ろの民たちの間から、ほう、と息が漏れた。
ミナはその音で、自分が息を止めていたことに気づいた。
「今の祈りで、十分です」
コーデリアの声が、横から静かに届く。
ミナは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
二番目は、東門区だった。
若い代表者が、緊張で手を震わせながら水差しを捧げる。
東門区の水が一滴、白い器へ落ちた。
その水も、透明なままだった。
ミナは区の名を聞き、祈った。
「東門区で働く人々の手が、今日も守られますように」
水面が、また淡く光る。
若い代表者は小瓶を受け取ると、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。門番たちも、きっと喜びます」
三番目は、南市場区だった。
代表者は、丸い顔の女だった。
よく通る声で名乗ったあと、あわてて声を小さくする。
「す、すみません。市場の呼び声が抜けなくて」
近くの神官が眉を寄せた。
けれど、後ろの民たちから小さな笑いがこぼれる。
ミナも、少しだけ笑った。
「南市場区の水を、お受け取りします」
女は目を丸くしたあと、ぱっと明るい顔で水差しを差し出した。
水は透明。
祈りも、滞りなく終わった。
「うちの魚屋にも、肉屋にも、粉屋にも、持って帰ります。みんな聖女様を見たがっていましたから」
女は小瓶を胸に抱え、深く頭を下げる。
貴族席の一角で、扇がゆっくり動いた。
「思ったより、落ち着いていらっしゃる」
「名を間違えないのは大事ですわ」
「コーデリア様の補佐がよいのでしょう」
最後の言葉に、ミナは少しだけ背筋を伸ばした。
コーデリアは何も言わない。
予定表の端を押さえた指だけが、一度、軽く動いた。
川沿区、職人区、南丘区。
どの水も、白い器の中で澄んだまま光った。
水差しが捧げられる。
神官が一滴を落とす。
ミナが区の名を聞き、祈る。
小瓶は封じられ、代表者が深く礼をして戻っていく。
何度も同じ流れが続くうちに、大広間の空気が少しずつやわらいでいった。
はじめは遠くから見ていた民たちも、代表者が小瓶を受け取るたびに、胸の前で手を組むようになる。
神官たちの声も、最初より落ち着いていた。
衛士の槍も、まっすぐ立ったまま動かない。
ミナは祈るたびに、区の景色を思い浮かべた。
門の近くで働く人。
市場で声を張る人。
井戸へ桶を運ぶ人。
夜に家族の手を握る人。
顔は知らない。
けれど、桶を持つ手や、子どもの額へ触れる手なら思い浮かべられた。
そう思うと、祈りの言葉は少しだけ出しやすくなった。
「西橋区に暮らす人々の道が、今日も無事でありますように」
白い器の水面が、淡く光る。
西橋区の代表者が小瓶を受け取った時、後ろの民たちから小さな拍手が起きた。
すぐに神官が手で制する。
けれど、叱る声は出なかった。
ミナは、祭壇の上から遠くの民たちを見る。
何人かが、目を合わせる前にあわてて頭を下げた。
ミナが目を伏せると、その人たちも胸の前で手を組んだ。
ミナの指から、少しだけ力が抜けた。
「このまま進められます」
コーデリアが、予定表を一枚めくる。
「残りは三つ。外堀区、鐘楼区、北坂区です」
ミナの返事は、もう震えなかった。
外堀区の代表者は、大きな水差しを抱えていた。
水を一滴落としても、白い器は澄んだままだった。
「外堀区の暮らしが、今日も守られますように」
祈りを受けた小瓶を、代表者は額の高さまで掲げてから下がった。
次は、鐘楼区だった。
鐘守の家の者だという代表者は、年若い少年だった。
水差しを持つ手が緊張で震え、神官がそっと下から支える。
それでも、水はこぼれなかった。
白い器に落ちた一滴は、透明なまま光った。
「鐘楼区に響く鐘が、今日も人々の朝と夜を守りますように」
少年は小瓶を受け取ると、耳まで赤くして頭を下げた。
後ろの民たちから、また小さな笑いがこぼれる。
今度は、神官もすぐには制しなかった。
拍手の余韻が、大神官の杖が鳴るまで残っていた。
最後の献水を残すだけだった。
大神官の杖が、もう一度鳴る。
「北坂区代表」
大広間の端から、一人の女が進み出た。
細い肩の女だった。
晴れの日の衣を着ている。
けれど、袖口だけが少しくたびれている。
両手に抱えた水差しは、他の区のものより古かった。
磨かれてはいるが、持ち手の銀が少し黒ずんでいる。
女は祭壇の三段下で膝をついた。
「北坂区の代表、リィナです」
声は小さい。
それでも、最後まで消えなかった。
「当代聖女様。北坂区の水を、お受け取りください」
リィナは水差しを差し出した。
その指が、赤く荒れている。
爪の端に、小さな黒ずみが残っていた。
ミナは、なぜかそこから目を離せなかった。
「ミナ様」
コーデリアが、そっと呼ぶ。
ミナははっとして、前を向いた。
神官がリィナの水差しを受け取っている。
今までと同じ流れだった。
代表者が水を捧げる。
神官が一滴を落とす。
聖女が区の名を聞き、祈る。
それだけのはずだった。
神官が、水差しを白い器の上へ傾けた。
ぽたり。
北坂区の水が一滴、神殿の聖水へ落ちた。
その瞬間、器の底から黒い筋が走った。




