表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女候補の面接で「志望動機は?」と聞かれました【連載版】  作者: あゆと
第一章 名を呼ぶ聖女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

東回廊の桶

 御業確認の間を出ても、ミナの手はまだ少し冷たかった。


 御業は、出なかった。

 それでも、今朝見た桶が頭から離れない。


 祈祷本殿へ向かうはずだった足は、東回廊へ向かっていた。


 コーデリアは何も言わず、薄い予定表を片手に歩いている。

 余白には、さきほど書き足されたばかりの細い文字があった。


 東回廊。

 朝番確認。


 銀の筆で書かれたその文字は、他の予定より少し小さい。

 けれど、消されてはいなかった。


「こちらです」


 東回廊は、祈祷本殿の裏手にあった。

 王都神殿の中なのに、人の声が少ない。

 白い石壁は磨かれている。けれど、足元だけが少し湿っていた。


 ミナは立ち止まった。


 丸い跡がある。

 桶の底の跡だ。

 一つではない。

 石床に、丸い濡れ跡が点々と続いている。


「これ……」


 しゃがみかけたところで、コーデリアの白手袋の指が少し上がった。


「聖女様、そのままで。床が冷えています」

「あ、はい」


 ミナは中腰のまま止まった。

 濡れ跡の周りには、細い水の筋が伸びている。

 誰かが桶を置き、また持ち上げた跡に見えた。


 水は、もう温かくなさそうだった。


 回廊の奥から、木の軋む音がした。

 ぎ、と短く鳴って、次に水の揺れる音がする。


 小柄な下働きの少女が、両手で桶を持っていた。

 桶の縁からは、ほとんど湯気が上がっていない。


 その指は、赤かった。


「あ」


 ミナの声に、少女がびくっと肩を揺らした。

 桶の水が少しこぼれる。


「も、申し訳ございません!」


 少女は慌てて頭を下げた。

 桶が斜めになり、また水がこぼれる。


「怒ってないです。手、大丈夫ですか」

「手、でございますか」


 少女は自分の指を見た。

 赤くなった指を、隠すように桶の取っ手へ戻す。


「大丈夫です。いつものことなので」

「いつものこと」


 ミナは、その言葉を繰り返した。

 いつものこと。

 それは、痛くないという意味ではない気がした。


「この桶、どこから来るんですか」

「湯殿裏の炊き場でございます。そこで湯を汲んで、こちらへ」


 コーデリアの視線が予定表の余白へ落ちる。


「東回廊だけで、何往復ですか」

「ええと……今朝は五往復です」


 五往復。


 水が入った桶は、少女の腕には少し大きく見えた。


「持ってもいいですか」

「聖女様に、そのような」

「少しだけです」


 少女は困った顔で、コーデリアを見た。

 コーデリアはすぐには答えず、ミナの手元を見た。


「半分だけ、こちらへ」

「はい」


 少女が水を半分ほど別の桶へ移した。

 それでも、取っ手を握った瞬間、ミナの指に冷たさが刺さった。


 重い。


 ただ重いだけではない。

 木の取っ手が濡れていて、指に食い込む。

 手のひらに冷たさが貼りつく。


 ミナは、少し持ち上げただけで眉を寄せた。


「冷たい」

「朝はもっと温かいんです」

「でも、ここに来る頃には」

「冷めるんですか」

「はい」


 桶を下ろすと、指先がじんとした。


 回廊の曲がり角から、別の下働きが現れた。

 年上の女性だった。

 こちらも桶を持っている。


 その指も赤かった。


 ミナは、何も言えなくなった。


 あの人だけではなかった。

 桶の跡も、赤い指も、一つではなかった。


「その炊き場を見たいです」

「あの、炊き場は裏です。聖女様が行くような場所では」

「桶は、そこから来るんですよね」

「はい」

「なら、見ます」


 言ってから、ミナは自分でも少し驚いた。


 湯気が弱くなるまで、誰かが運んでいる。


 予定表の余白に、さらに細い字が増えた。


 湯殿裏炊き場。

 搬送経路確認。


「搬送……」

「運ぶ道です。桶がどこを通って、どれくらい時間がかかって、何度置かれるのかを確認します」


 桶の跡を追えば、何か分かる気がした。


 ミナは、丸い濡れ跡を踏まないように歩いた。

 湯殿裏へ向かう道は、思ったより遠い。


 回廊を曲がり、細い階段を下りる。

 階段の端には、水がこぼれて黒くなった線が残っていた。


 少女は慣れた足取りで下りていく。

 けれど、桶を持つと歩幅が小さくなる。


 途中の踊り場で、一度桶を置いた。


 ごとん。


 木の底が石に当たる音がした。

 少女は指を開いて、息を吐く。

 赤い指が、少し震えている。


 ミナは、思わず手を伸ばしかけた。


 祈れば、楽になる。

 でも。


 少女はすぐに桶を持ち直した。

 また、同じ指で。


 ミナは手を下ろした。


「……また持つんだ」


 誰に言ったわけでもない声だった。


 コーデリアの筆が、予定表の端を走る。


 階段。

 踊り場。

 一時置き。


 湯殿裏の炊き場に着いた時、ミナは足を止めた。


 大きな釜があった。


 釜の上では、白い湯気が立っている。

 炊き場の空気は、むしろ温かかった。


「……温かい」


 少女がうなずく。


「ここでは温かいです」


 ここでは。


 ミナは、その言葉を聞き逃せなかった。

 炊き場には、確かに湯気がある。

 釜には熱がある。

 桶へ汲む時には、手を近づけるだけで温かいと分かる。


 でも、東回廊に着く頃には弱くなっている。

 冷たい桶になる。

 赤い指になる。


「お湯は、あるんですね」

「はい」

「では、途中で何が起きているのでしょう」


 コーデリアの声が、少しだけ低くなった。


 少女は答えられなかった。

 年上の女性も、目を伏せた。


 炊き場の隅に、空の桶が並んでいる。

 どれも同じ木の桶だった。


 ミナは、一つに近づいた。

 桶の取っ手に、そっと触れる。


 濡れていた。


 中身が空でも、取っ手は冷たい。


「持つところが、濡れています」


 自分でも、どうしてそこが気になったのか分からなかった。

 けれど、さっき自分の手に貼りついた冷たさを、指が覚えていた。


「湯を汲む時に、どうしても濡れます」

「濡れたまま、持つんですか」

「はい」


 当たり前のことを言うような声だった。


 ミナは、桶の取っ手を見た。


 濡れた木。

 冷たい取っ手。

 赤い指。


「ここに、何か巻いたらだめですか」


 炊き場が、少し静かになった。

 コーデリアの銀の筆が、予定表の上で止まる。


「乾いた布はありますか」


 年上の女性が、はっと顔を上げた。


「ございます。拭き布の端切れなら」

「清潔なものを。今すぐ四枚」

「は、はい」


 年上の女性が、棚の方へ向かった。

 少女は、ぽかんとした顔でミナを見ている。


「巻いてもいいんですか」

「だめなんですか」


 少女は困ったように視線を落とした。


「だめ、とは言われていません。ただ、そうして運んだことがなくて」


 ミナは、その言葉が少し怖かった。


 だめとは言われていない。

 でも、誰もしていない。


 だから、ずっと濡れた取っ手を握っていた。


 コーデリアは表情を変えないまま、予定表の余白に細い字を書いた。


 東回廊朝番。

 取っ手布、仮使用。


「正式な備品変更ではありません。仮対応として、本日の残りの朝番から使います」

「はい」


 少女は、まだよく分かっていない顔でうなずいた。


 運ばれてきた布は、白い端切れだった。

 年上の女性が桶の取っ手に巻きつける。


 濡れた木の上に、乾いた布が重なった。


「持ってみても、いいですか」


 コーデリアがうなずく。

 少女は、おそるおそる取っ手を握った。


 さっきまでのように、指を固くしなかった。

 握ってから、少し驚いたように目を開く。


「……冷たくないです」


 その一言で、ミナの胸が少しだけ軽くなった。


 階段はまだある。

 距離も、五往復も消えていない。


 それでも、少女はさっきより少しだけ強く桶を持てていた。


「これで、大丈夫ですか」

「完全ではございません」

「少し、楽になりますか」

「はい。少しです」


 ミナは、少女の手を見た。

 赤みは、まだ残っている。


 桶の取っ手には、白い布が巻かれている。

 さっきまで赤かった指が、その上から木を握っていた。


 コーデリアが予定表の余白に、最後の一行を書き足す。


 東回廊朝番。

 明朝、再確認。


 ミナは、その文字をじっと見た。

 明日の朝、また見る。


 その一行は、祈りより遅い。

 けれど、消えずに予定表へ残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ