御業
扉の向こうは、白かった。
面接室の白とは違う。
磨かれた石の白ではなく、水を含んだ布のような白だった。
中央には、低い水盤がある。
水盤の縁には細かな文字が彫られていて、ミナには読めなかった。
水は動いていないのに、底の方だけが深く暗く見える。
水盤の周りには、四つの台が置かれていた。
水差しと白い布。
薬草と銀の小鉢。
灯皿と火口箱。
小さな鐘と伝令札。
どれも、さきほど記録廊で見た四院の現物に似ている。
けれど、ここでは飾りではなかった。
何かを待っているように見えた。
「御業確認の間です」
大神官様が言った。
眼鏡の神官が記録板を開く。
年配の女性神官は、水差しの位置を確かめてから、静かに下がった。
コーデリアは、ミナの半歩後ろにいる。
けれど、その足音はもう聞こえなかった。
ここでは、誰も余計な音を立てないのだと思った。
「聖女様。御業確認は、力を無理に引き出す儀ではありません」
「試練ではないんですか」
「試練ではありません」
大神官様は、水盤を見た。
「御業は、呼び出せば現れるものではありません。歴代聖女様の御業も、多くは飢饉、疫病、戦のただ中で記録されました」
「では、ここでは何をするんですか」
「聖女様の祈りを確かめます」
祈り。
ミナは、胸の前で指を握った。
「私が村でしていた祈りも、確かめるんですか」
「はい」
大神官様は、さきほど通ってきた記録廊の方へ目を向けた。
「祈りの反応は、人に触れます。痛みを弱め、熱を鎮め、傷の治りを助ける」
「御業とは、違うんですね」
「違います」
大神官様の声は静かだった。
「飢えの中で麦が実り、病の中で霧が晴れ、戦の中で刃が止まりました。御業は、ただ人を楽にするだけではありません」
大鍋。
薬箱。
血の跡が残った外套。
ミナは、さきほど見たものを思い出した。
「言葉だけで覚えなくてよろしい。今は、祈ってください」
大神官様は、水盤の前を空けた。
「まずは、普段の祈りを水盤へ向けてください。立派な言葉である必要はありません」
「はい」
ミナは水盤の前に膝をついた。
石の床は冷たい。けれど、村の井戸端ほどではなかった。
水盤へ向かって、小さく息を吐く。
「痛みが、少しでも弱くなりますように」
水面に、小さな輪が生まれた。
それは、石を落とした時の波紋に似ていた。
けれど、誰も石を落としていない。
清水院の白い布の端が、ほんの少しだけ湿った。
そこで終わると思った。
けれど、波紋はもう一度広がった。
水盤の縁に置かれていた水差しの水が、かすかに湯気を立てる。
銀の小鉢の中の薬草が、ふわりと青い匂いを放った。
部屋の端にいた年配の女性神官が、自分の指先を見て、小さく目を見開く。
「……痛みが」
女性神官は、すぐに口を閉じた。
大神官様は、水盤から目を離さなかった。
「祈りの反応、確認」
「はい。反応、通常候補者の水準を超過。清水院聖具、薬草院聖具に微反応。室内対象者の手指痛に軽減反応あり」
眼鏡の神官が、記録板に素早く書き込む。
ミナは、年配の女性神官を見た。
「痛かったんですか」
「古い手荒れでございます。お気になさらず」
女性神官は、静かに頭を下げた。
その指の赤みは、少しだけ薄くなっていた。
ミナは、自分の手を見た。
村で祈っていた時より、強い。
それは分かった。
でも、麦は実らなかった。
黒い霧が晴れることもなかった。
刃を止める白い幕も降りなかった。
水盤は、静かになった。
大神官様が言った。
「御業は、確認されませんでした」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
ミナは息を吸った。
うまく吐けなかった。
「……神様の声は、聞こえたのに」
半歩後ろで、コーデリアの白手袋がかすかに動いた。
けれど、彼女は口を挟まなかった。
大神官様は、すぐに答えた。
「聖女様であることは、すでに示されています」
「でも、御業は」
「出ませんでした」
「……はい」
「御業は、呼び出すものではありません。ここで出なかったことも、記録です」
眼鏡の神官が、記録板に一行を書き足す。
祈りの反応、増幅。
御業、未確認。
「むしろ、本日分かったことがあります」
「何が、ですか」
「聖女様の祈りの反応は、当代聖女として明らかに増しています」
増している。
ミナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
胸の奥が、少し熱くなって、すぐにひやりとした。
嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からなかった。
「強くなったのに、御業ではないんですか」
「はい」
「どうしてですか」
「人を楽にしたからです」
大神官様は、そう言った。
「祈りは、女性神官の指を少し楽にしました。ですが、その指がまた冷たい水に触れれば、痛みは戻ります」
「冷たい水……」
東回廊。
湯気の弱い桶。
赤くなった指。
名前も顔も知らない。
でも、あの手は覚えている。
「大神官様」
「はい」
「あの手も、楽にできますか」
大神官様は、少しだけミナを見つめた。
「目の前で祈れば、痛みを和らげることはできるでしょう」
「よかった」
「ですが、同じ冷たさに触れれば、また痛みます」
ミナは、言葉を失った。
手は楽になる。
でも、また桶を持つ。
また冷える。
また赤くなる。
水仕事の後、村の女たちの指が赤くなるのを見たことがある。
冷たい桶を持った時、自分の手も痛くなったことがある。
祈ったら終わるものではない。
「……じゃあ」
ミナは、小さく言った。
「桶を見ないと」
大神官様は、何も言わなかった。
その横で、薄い予定表が開かれる音がした。
コーデリアの白手袋の指が、今日の予定をなぞっている。
「本日の予定には、御業確認後、大神官様への報告、祈祷本殿の案内、昼の休憩がございます」
ミナは、予定表ではなく、自分の手を見ていた。
赤くなった指。
弱い湯気。
冷たい桶。
御業は出なかった。
それでも、今朝の桶は消えなかった。
「東回廊を見たいです」
ミナは言った。
「朝番の人たちが、どこから桶を持ってくるのか見たいです」
コーデリアの指が、予定表の上で止まった。
「東回廊の朝番確認は、ございません」
「はい」
ミナはうなずいた。
「でも、見ないと、明日も同じです」
予定表の端が、少しだけ曲がった。
「……では、予定に入れます」
コーデリアは銀の筆を取った。
余白に、細い字が増える。
東回廊。
朝番確認。
「まずは、朝番の動きを確認します。誰が、どこから、何を、何度運んでいるのかです」
「……はい」
ミナには、まだ『動き』の意味が分からない。
でも、桶を見れば何か分かる気がした。
御業は、出なかった。
けれど、最初に見るものは分かった。
東回廊の桶だ。




