歴代聖女
大神官様は、大鍋の前で足を止めた。
片方の取っ手が曲がっている。
底には黒い焦げ跡が残っていた。
ミナの村にも、大鍋はあった。
祭りの日、炊き出しの日、風邪が流行った日の粥。
大鍋は、綺麗なものではない。重くて、熱くて、洗う時に腕が疲れるものだ。
けれど、聖女記録廊に置かれた大鍋は、ただの炊き出し鍋ではなかった。
「飢饉の年の聖女様です」
大神官様の声が、石の壁に静かに響いた。
「北の七つの村で麦が尽き、雪で道が閉ざされました。支部神殿から届いた報告には、三日以内に、七つの村で生きて冬を越す者はいないと記されていました」
三日以内に。
七つの村で。
ミナは、大鍋の底に残った焦げ跡を見た。
「その聖女様は、雪原で祈りました。翌朝、七つの村の畑に麦が実りました。雪の下から、冬にはありえない夏の穂が現れたのです」
ミナは息を止めた。
雪の下から、麦。
そんなことが、本当に起きたのだ。
「七つの村の者たちは、その麦を聖女麦と呼びました。今も北の支部神殿では、冬初めの祈祷で、最初の一束を祭壇へ捧げます」
大神官様は、大鍋の焦げ跡へ視線を落とした。
「この鍋は、その聖女麦で最初に粥を炊いたものです。七つの村の者が、順番にこの鍋から粥を受け取ったと記録されています」
ミナは、鍋底の黒ずみを見た。
「焦げています」
「火が強すぎたようです」
「お腹が空いている時は、早く炊こうとしますから」
大神官様は、少しだけ目を伏せた。
「記録にも、火が強すぎたとあります」
焦げた鍋は、村にもあった。
母が砂でこすっていた鍋。
底にこびりついた粥を、水に浸してから洗った鍋。
けれど、この鍋で炊かれたのは、雪の下から生えた麦の粥なのだ。
ミナは、指先を胸の前で握った。
聖女様の祈りは、麦を生やす。
それは、ミナが知っている祈りとは違いすぎた。
次の展示は、小さな薬箱だった。
ふたの角が欠けている。
金具の近くには、黒い染みが残っていた。
「疫病の年の聖女様です」
大神官様は、薬箱の前で足を止めた。
「王都を黒い霧が覆い、病の家は扉を閉ざされました。昼でも鐘楼の上が見えず、祈祷本殿の白い布まで黒ずんだと記録されています」
ミナは薬箱の染みを見た。
黒い。
薬草の色ではない。
煤にも見えるけれど、どこか違う。
「その聖女様は、鐘楼に立ち、王都全体へ祈りを降ろしました。夜明けまで鐘は鳴り続け、黒い霧は東の門から外へ流れ出たそうです」
「王都全部に、ですか」
「はい」
大神官様は、薬箱のふたに彫られた薄い花の印を示した。
「夜明けには、死病の熱にうなされていた者たちの額に、白い花のような印が浮かびました。その印が浮かんだ者は熱が下がり、病の山を越えた者として記録されています」
白い花。
ミナは、黒い染みの横にある花の印を見た。
村では、熱が出た子には額を冷やす。
水を替える。
布を替える。
薬草を煎じる。
夜中に何度も息を確かめる。
けれど、その聖女様は、王都を覆う黒い霧を祓った。
祈りが、都全部に降りた。
「王都では今も、疫病除けの護符に白い花を描きます。この薬箱は、白い花の印が初めて記録された日に使われたものです」
ミナは、知らないうちに息を浅くしていた。
麦を生やした聖女様。
黒い霧を祓った聖女様。
どちらも、村でしていた祈りとは違いすぎる。
三つ目の展示は、血の跡が薄く残った外套だった。
外套の横には、折れた矢じりと、刃の欠けた短剣が置かれている。
ミナは、近づく前に一度足を止めた。
「無理に近づく必要はございません」
コーデリアが言った。
ミナは、少しだけ首を振った。
「大丈夫です。見ます」
大神官様は、破れた外套ではなく、折れた矢じりを指した。
「戦の年の聖女様です。西の国境で城門が破られ、夜明けには城下へ兵が入るところでした」
ミナは、矢じりを見た。
先端が潰れている。
何か硬いものに当たったようだった。
「その聖女様は、破れた城門の前で祈りました」
「城門の前って……逃げる場所がないところですよね」
「ありません」
「大丈夫だったんですか」
「大丈夫ではなかったでしょう」
大神官様の声は静かだった。
「けれど、その聖女様は祈りました。すると三日三晩、城門の内側では、刃は人を切らず、矢は肌に届かず、火は衣へ燃え移らなかったと記録されています」
刃が、人を切らない。
ミナは、欠けた短剣を見た。
「兵は剣を振るいました。弓も放たれました。火矢も投げ込まれました。けれど、誰一人として、その結界の内側で人を殺すことはできなかった」
大神官様は、潰れた矢じりへ視線を落とした。
「その結界は、白い幕のように城下を覆ったそうです。三日目の朝、城門の前には、刃の欠けた剣と潰れた矢じりだけが残りました。敵兵も味方の兵も、剣を下ろしたと記録されています」
ミナは、短剣の刃を見た。
人を切るためのものが、人を切れなかった。
人を焼くための火が、人を焼けなかった。
そんな祈りがある。
聖女記録廊の奥は静かだった。
古い大鍋。
小さな薬箱。
血の跡が薄く残った外套。
どれも、綺麗な宝物には見えなかった。
使われたものだった。
誰かが持ち、誰かが運び、誰かが触ったものだった。
けれど、その後ろには、ミナの知らない祈りがあった。
雪の下から麦を実らせた聖女様。
王都を覆う黒い霧を祓った聖女様。
戦場の刃を止めた聖女様。
どれも、村でしていた祈りとは違いすぎた。
少し楽になりますように。
赤みが引きますように。
痛みが弱くなりますように。
ミナが知っている祈りは、そのくらいだった。
「ミナ様」
大神官様が、改めてミナを見た。
「あなたにも、御業は宿ります」
ミナは息を止めた。
「私の祈りは、少し楽になるくらいです」
「その祈りが当代聖女としてどのように顕れるかは、確認しなければ分かりません」
「……私が村でしていた祈りも、御業なんですか」
ミナは、思わず聞いていた。
「ロザおばあちゃんの背中が少し楽になりますように、とか。足の痛い子の痛みが、少し弱くなりますように、とか」
大神官様は、すぐには答えなかった。
代わりに、記録廊の奥にある扉を見た。
「その違いも、この先で確かめます」
ミナも、扉を見た。
扉の向こうから、水の気配がした。
祈祷本殿の水盤とは違う、もっと深く静かな気配だ。
「この先は、御業確認の間です」
ミナの指先が、少し冷たくなった。
村で冷たい水に触れた時とは違う。
何かが始まる前の冷たさだった。
「聖女様」
半歩後ろから、コーデリアが静かに言った。
「記録は、わたくしも見ます」
「……お願いします」
「ですが、祈るのは聖女様です」
ミナはうなずいた。
それは、分かっている。
怖いけれど、分かっている。
自分の祈りが、何に触れるのか。
その答えを、これから見られるのだ。
大神官様が扉に手をかけた。
「これより、当代聖女ミナ様の御業を確認いたします」




