地図
任命の言葉が、まだ面接室に残っている気がした。
コーデリアの胸元には、さきほど渡されたばかりの銀の徽章がある。
白手袋の指は、面接の時と同じようにそろっていた。けれど、コーデリアはその徽章を見せるようには立っていない。
ミナの少し後ろ。
大神官様の説明を遮らない位置。
正補佐官になったばかりの人は、そこに静かに控えていた。
「聖女様」
大神官様が、長机の書類を閉じた。
「御業確認の前に、聖女様には知っていただくことがあります」
「……はい。たぶん、知らないことだらけです」
「まずは、この王都神殿が何をしている場所なのか、です」
「どこから覚えればいいですか」
「地図からにいたしましょう」
ミナは立ち上がった。
眼鏡の神官が記録板を抱え、年配の女性神官が静かに扉を開ける。
コーデリアは、ミナより先に歩かなかった。
けれど、遅れもしなかった。
その足音が半歩後ろにあるだけで、ミナは少しだけ背中を伸ばせた。
祈祷本殿の横にある回廊へ入ると、壁の色が少しずつ古くなった。
白い石は磨かれている。けれど角には細かな傷が残っていて、誰かが何度も手をつき、何度もここで足を止めた跡のようだった。
重い扉の上には、古い文字が刻まれている。
聖女記録廊。
扉が開いた。
最初に見えたのは、肖像画ではなかった。
壁に掛けられた、大きな地図だった。
町の名、山の名、川の名。
ミナの知らない文字が、細かく書き込まれている。
金の印が一つ。
銀の印がいくつか。
その周りに、黒い小さな点が無数に散っていた。
ミナには、どれが何を示しているのか分からなかった。
「金の印が、王都神殿です」
大神官様が、地図の中央を指した。
「銀の印は、各地方を束ねる支部神殿。黒い点は、小神殿、礼拝堂、施療所、孤児院、巡礼宿です」
「こんなにあるんですね」
「王都神殿が、すべてを直接見るわけではありません。支部神殿を通して、各地の祈りと報告を受けます」
「私の村の礼拝堂も、黒い点ですか」
「そうです。このあたりになります」
大神官様の指が、地図の端へ移った。
そこには、針の先でつけたような小さな点があった。
「……小さいですね」
「小さいです。ですが、神の声が届かなくてよい場所ではありません」
ミナは、すぐに返事ができなかった。
村にいた頃、王都神殿は遠い場所だった。
礼拝堂の奥にある白い布。古い祈祷書。月に一度来る神官。祭りの日だけ増える椅子。
その小さな場所が、目の前の大きな地図に本当に載っている。
それだけで、胸のあたりが少し落ち着かなくなった。
「各地からは、祈り、報告、救済申請が上がってきます。必要があれば、王都から支部神殿へ指示が出ます」
大神官様は、地図の横にある四つの札へ視線を移した。
「王都神殿には、その指示を形にする院があります」
四つの札の前には、それぞれ小さな台が置かれていた。
水差しと畳まれた布。
干した薬草と包み紙。
灯皿と黒ずんだ火口箱。
小さな鐘と伝令札。
「清水院、薬草院、灯火院、鐘風院。水、薬、火、知らせを担う院です」
ミナは、水差し、薬草、灯皿、小さな鐘を順に見た。
水。
薬。
火。
知らせ。
村にもあるものばかりだった。
けれど、王都神殿では、それぞれに院の名がある。
「聖女様が神の声を受けた時、王都神殿はその記録と伝達を担います」
記録と伝達。
ミナは、壁の地図をもう一度見た。
針の先みたいな村。
銀の印。
黒い点。
その全部が、細い線で王都へつながっているように見えた。
「次に、当代聖女についてお話しします」
大神官様は、地図の前から少し離れた。
「この世界には、神は一柱。そして正式な当代聖女は、一人です。民が親しみを込めて、優れた女性神官を水の聖女様、薬草の聖女様と呼ぶことはあります。ですが、神の声を直接聞き、神殿全体に示す当代聖女は一人です」
一人。
ミナの肩に力が入った。
地図の上には、知らない場所が多すぎる。
知らない町。知らない村。知らない人たち。
その全部が、急にこちらを向いた気がした。
「聖女様」
それまで黙っていたコーデリアが、初めて口を開いた。
すぐには続けず、大神官様を見る。
大神官様がうなずいた。
「今の説明は、聖女様お一人で、この地図のすべてを背負えという意味ではないかと存じます」
「違うんですか」
「はい。各院があり、地方神殿があり、記録官がいます。正補佐官も、そのために置かれます」
「では、私は……」
「まず、見てくださいませ」
コーデリアは、地図の端にある小さな点を見た。
「どれほど多くの場所が、王都神殿につながっているのかを」
まず、見る。
ミナは、地図の端にある小さな点を見た。
全部は分からない。すぐには覚えられない。
でも、足が痛い子の名前なら知っている。
ロザおばあちゃんの背中なら覚えている。
初出勤の日に見た赤い指なら、まだ目に残っている。
「その通りです」
大神官様が言った。
「そして、神の力が聖女様を通って世へ触れた時、その形を神殿では御業と記録します」
「御業……」
ミナは、その言葉を小さく繰り返した。
村でしていた祈りとは、少し違う響きがした。
少し楽になりますように。
赤みが引きますように。
痛みが弱くなりますように。
ミナが知っている祈りは、そのくらいだった。
「御業は、最初から名前が付いている力ではありません」
大神官様は、記録廊の奥へ歩き出した。
「神の力が、どのように人の世へ触れたのか。それを後から神殿が記録します」
「名前が先じゃないんですね」
「はい」
「では、何を見るんですか」
大神官様は、足を止めてミナを見た。
「何が起きたかです」
何が起きたか。
ミナは、大神官様の後ろを見た。
記録廊の奥には、歴代聖女の肖像が並んでいた。
けれど、ミナが想像していたような金の額縁と宝石ばかりの部屋ではなかった。
古い大鍋。
布の巻かれた薬箱。
血の跡が薄く残った外套。
折れた矢じり。
刃の欠けた短剣。
ひび割れた小さな鐘。
子ども用の毛布。
神聖な場所のはずなのに、そこには生活の匂いがあった。
ミナは、思わず足を止めた。
飾られているのに、どれも使われたものに見える。
誰かが持ち、誰かが運び、誰かが触ったものに見える。
「こちらが、歴代聖女様の御業の跡でございます」
大神官様の声が、静かに響いた。
ミナは、胸の前で指を握った。
自分の知らない聖女の話が、今から始まるのだと思った。




