正補佐官選考
正補佐官候補の控室には、朝の祈りが終わる前から人がそろっていた。
コーデリア・ヴァルムントは、白手袋の指を膝の上でそろえ、背筋を伸ばして座っていた。
一昨日の聖女選考とは、空気が違う。
あの場には、神の声を待つ静けさがあった。
けれど今、この部屋にあるのは、人が人を選ぶための緊張だった。
壁際に立つ神官が、封蝋を切った書面を広げる。
「当代聖女ミナ様の正補佐官候補は、各院からの推薦、神殿実務経験、貴族家または寄付者筋による身分保証、ならびに守秘確認を終えた者に限られます」
控室に、紙の擦れる音だけが残った。
誰でもよい椅子ではない。
聖女の隣に立つ椅子だ。
「選考は、知識確認、礼法確認、実務確認、神官面接、大神官による最終面接の順に行います。最終面接通過者は、当代聖女様との確認を経て、正補佐官として任じられます」
向かいの席には、王都神殿の儀礼に仕えてきたらしい女性がいた。
座る姿勢に崩れがない。膝の上に置いた手の角度まで整っている。
窓際には、清水院の司祭が立っていた。
三十代半ばほどだろうか。控室でも落ち着いていて、神官が動くたびに、道をふさがない位置へ自然に半歩ずれていた。
ほかの候補者たちも、皆、静かだった。
静かで、よく整っていて、ここに呼ばれる理由を持っている者たちだった。
弱い候補者はいない。
当然だった。
同情で座れる椅子ではない。
落選した公爵令嬢に、慰めとして与えられる椅子でもない。
コーデリアは、膝の上の指をわずかに重ねた。
聖女にはなれなかった。
一昨日まで積み上げてきたものに、神は頷かなかった。
けれど、礼法を学んだ時間は消えていない。
施療院の仕組みを覚えた夜も、寄付者名簿を読み込んだ朝も、各院の役割を暗記した年月も、消えてはいない。
そして、消すつもりもなかった。
「では、知識確認より始めます。名を呼ばれた方から、隣室へ」
神官がそう告げる。
控室の空気が、わずかに張った。
コーデリアは顔を上げる。
正補佐官の椅子を、取りに来たのだから。
◇
選考は、一日では終わらなかった。
朝の祈りの後に始まった知識確認だけで、午前はほとんど潰れた。
礼法確認と実務確認は午後まで続き、神官面接が終わる頃には、王都神殿の窓に夕方の光が差していた。
ミナは、そのすべてを見たわけではない。
大神官様から言われているのは、最後の確認だけだった。
知識や実務は、神殿が見る。
聖女は最後に、その人と一緒に動けるかを見る。
そう言われても、ミナにはまだよく分からなかった。
村で人を選ぶ時は、だいたい分かりやすかった。
足が速い人。
字が読める人。
荷車を押せる人。
おばあちゃんの話を最後まで聞ける人。
朝から夜まで一緒に動けるかどうかを、どうやって見るのか。
それは、まだ分からない。
翌朝。
最終面接の前に、ミナは小さな控えの間へ通された。
机の上には、三枚の書類が置かれている。
それぞれの上に、候補者の名が正式に記されていた。
リディア・オルフェン。
マルタ・グレイン。
コーデリア・ヴァルムント。
「知識確認、礼法確認、実務確認、神官面接は、すべて終わりました」
大神官様が、三枚の書類を前にして言った。
「ここに残った三名は、いずれも正補佐官として必要な基準を超えています」
ミナは、三枚の名前を見た。
基準を超えている。
それだけで、紙が急に重そうに見えた。
「リディア・オルフェン様、二十四歳。王都神殿の儀礼司祭補です。幼い頃から神殿で育ち、祝福式や大礼拝に多く仕えてこられました」
「マルタ・グレイン様、三十四歳。清水院の司祭です。施し湯、水場、布の支給、洗い場の人手まで、清水院の日々の務めをよく知っておられます」
「コーデリア・ヴァルムント様、十八歳。公爵家のご令嬢です。礼法、神殿制度、寄付者対応、貴族対応、各院の役割理解に優れ、総合成績では三名の中でも抜きん出ています」
ミナは、三枚の書類をもう一度見た。
神殿で育った人。
清水院の司祭様。
公爵家の令嬢。
たぶん、三人ともすごい人なのだと思う。
ミナよりずっと神殿に詳しくて、字も綺麗で、廊下で迷わず、外套の前合わせも間違えない人たちだ。
「じゃあ、コーデリア様で決まりなんですか」
「いいえ」
大神官様は、静かに首を横に振った。
「知識や実務は、神殿が確認しました。ですが、正補佐官は聖女様の隣に立つ者です。最後に、本人の言葉を聞く必要があります」
「本人の言葉、ですか」
「はい。どのように聖女様を補佐するつもりなのか。それを、一人ずつ尋ねます」
ミナは、膝の上で手を握った。
「私も、聞いていいんですか」
「もちろんです。聖女様が本当に知りたいことなら」
ミナは、三枚目の書類を見た。
コーデリア・ヴァルムント。
聖女選考で、聖女になれなかった人。
朝六時前に門の前で待っていた人。
桶と、湯気と、指のことを覚えていた人。
聞きたいことは、まだ言葉になっていなかった。
でも、胸の奥に引っかかっているものはあった。
◇
最終面接は、一人ずつ行われた。
部屋には、大神官様、眼鏡の神官、年配の女性神官、それからミナがいた。
ミナの椅子は、長机の端に置かれている。中央ではない。それが少しだけありがたかった。
大神官様は、全員に同じ質問をすると言った。
質問は、一つだけだった。
「あなたは、当代聖女ミナ様を、どのように補佐しますか」
最初に入ってきたのは、リディア・オルフェンだった。
リディアは、胸元に手を当てて、深く礼をした。
動きに迷いがない。頭を下げる角度も、顔を上げるタイミングも、見ていてきれいだった。
「聖女様が神前に立たれる場を、滞りなく整えます。祝福式、大礼拝、貴族参列の祈祷、民へのお言葉。聖女様がどの場で、どの順に進み、どの言葉をお受けになるか、私がそばで確かめます」
綺麗な答えだった。
声も静かで、間違っているようには聞こえない。
けれどミナは、少しだけ膝の上で手を握った。
人前に立つ場。
大きな祈りの場。
たぶん、聖女には必要なことなのだろう。
でもミナは、あの朝の桶を思い出していた。
湯気が細くなっていた桶。
赤くなった指先。
袖でこすってから、また次の桶を取りに走ろうとしていた下働きの女性。
あれは、神前ではなかった。
大礼拝でもなかった。
ただの朝の廊下だった。
二人目に入ってきたのは、マルタ・グレインだった。
マルタは派手な動きをしなかった。
扉を閉める時も、椅子の前に立つ時も、必要なだけ動いて、必要なところで止まる。袖口はきちんと留められていて、指先には水仕事をしてきた人の固さがあった。
大神官様が、同じ質問をする。
「あなたは、当代聖女ミナ様を、どのように補佐しますか」
マルタは、落ち着いた声で答えた。
「聖女様のお言葉を、神殿の日々の務めに落とし込めるよう努めます。清水院で扱う湯、水、布、洗い場、人手については、私が不足と滞りを確認します。必要であれば記録を取り、担当者へ回し、次の朝に同じ不具合が残らぬよう改めます」
ミナは顔を上げた。
この人なら、あの朝の不具合を直せるのだと思った。
湯が足りないなら足す。
布が足りないなら数える。
人手が足りないなら、担当を変える。
きっと、とても大事なことだ。
けれどミナには、赤くなった指が、清水院の仕事の中へ静かに戻っていくようにも聞こえた。
あの人の手が冷たかったこと。
袖で指をこすっていたこと。
次の桶を取りに走ろうとしていたこと。
それは、どこに残るのだろう。
三人目の名が呼ばれた。
「コーデリア・ヴァルムント様」
扉が開く。
コーデリアは、白手袋の指をそろえ、背筋を伸ばして入ってきた。
聖女選考の日の控室と同じように美しい。けれど、あの日とは違う。
あの日のコーデリアは、聖女に選ばれるためにそこにいた。
今のコーデリアは、聖女の隣に立つためにここへ来ている。
大神官様が、同じ質問をした。
「あなたは、当代聖女ミナ様を、どのように補佐しますか」
コーデリアは、すぐには答えなかった。
白手袋の指が、ほんの少し動く。
「聖女選考の前なら、私は違う答えを申し上げたと思います」
部屋の空気が静かになった。
「聖女様が神殿の中心に立てるよう、儀礼を整え、寄付者への説明を整え、各院への連絡を整理する。おそらく、その答えは間違いではありません」
コーデリアは、少しだけ視線を落とした。
けれど、声は落ちなかった。
「けれど、あの朝、聖女様は桶の湯気をご覧になりました」
ミナは、思わず顔を上げた。
「私は桶の数と、人の配置を見ました。どこへ置くか、誰が運ぶか、何が足りないか。それは必要なことです。けれど聖女様は、冷えた指を見ていました」
コーデリアの視線が、一瞬だけミナの手に落ちる。
「ですから、私が補佐官になるなら、聖女様を高い椅子に座らせて終わりにはしません。聖女様が桶の湯気をご覧になるなら、私は湯が冷める前に人を動かします。聖女様が冷えた指をご覧になるなら、その指が明日も動くように手配します。聖女様が名前を尋ねるなら、その名が次の日の記録で消えないようにします」
綺麗な言葉なのに、綺麗なだけではなかった。
桶。
湯気。
指。
名前。
ミナがうまく言えなかったものが、そこに並んでいた。
大神官様が問う。
「では、聖女様が足を止めるたび、すべてに応じるのですか」
「いいえ」
コーデリアは、迷わず答えた。
「すべては無理です。だから優先順位を決めます。ですが、聖女様が足を止めた理由を、確認せずに流す補佐官にはなりません」
ミナの胸の奥が、少し熱くなった。
自分でも理由は分からない。
でも、朝の廊下で桶を見ていたことを、誰かが本当に覚えてくれていたのだと思った。
最終面接は、そこで終わるはずだった。
けれど、ミナは膝の上で手を握ったまま、口を開いていた。
「あの」
全員の視線がミナに向いた。
ミナは一瞬だけひるんだ。
でも、ここで黙ると、たぶんあとで後悔する。
「私も、ひとつ聞いていいですか」
大神官様がうなずいた。
「もちろんです」
ミナは、コーデリアを見た。
白手袋。
まっすぐな背筋。
聖女選考で落選した時の、ほんの少しだけ震えていた横顔。
「……コーデリア様は、聖女になりたかったんですよね。それなのに、私の補佐官でいいんですか」
部屋の空気が変わった。
眼鏡の神官の羽根ペンが止まる。
年配の女性神官が、少しだけ目を伏せる。
大神官様は何も言わなかった。
ミナは、自分の膝の上で手を握った。
聞き方が悪いのは分かっていた。
でも、上手な言い方が見つからなかった。
「私だったら、たぶん嫌です。自分がなりたかったものになった人の隣に、一日中いるなんて」
言ってから、胸がきゅっとした。
自分が、ひどいことを聞いている気がした。
でも、聞かなかったことにして隣に立ってもらう方が、もっとひどい気がした。
コーデリアは、ミナを見たまま沈黙した。
長い沈黙ではなかった。
けれど、聖女選考から今日までのすべてが、その短い間に入っているように見えた。
「わたくしが聖女になりたかったのは……」
コーデリアの声は、静かだった。
「自分が積んできたものが、間違いではなかったと、証明されたかったからです」
誰も口を挟まなかった。
「神に選ばれたかった。公爵家の娘として学んだ礼法も、施療院の仕組みも、寄付者との交渉も、民を救うために使えるのだと、一番高い場所から示したかった」
白手袋の指が、ゆっくり握られる。
「……そこに名誉がなかったと言えば、嘘になります」
「ですが、私は選ばれませんでした。聖女様は、私が座れなかった椅子に座りました」
責める声ではなかった。
それでも、ミナは胸がきゅっとした。
「悔しくないと言えば、それも嘘です」
コーデリアは、そこで少しだけ息を吸った。
「けれど、聖女様は私が見なかったものを見ました。私は制度を語り、あなたは名を覚えた。私は施療院を語り、あなたは足元を見た。あの朝も、私は桶の数を見て、あなたは冷えた指を見た」
コーデリアの目が、まっすぐミナに向く。
「私は、その景色の先が見たいのです」
静かな声だった。
けれど、部屋のどの言葉より強かった。
「私が座れなかった椅子からでは見えなかったものを、あなたの隣で見たい。あなたが何を見て、何に足を止め、何を名前で呼ぶのかを知りたい」
コーデリアは、白手袋の指をそろえ直した。
「そして、見ているだけで終わるつもりはありません」
その言葉に、ミナは息を忘れた。
「湯が冷めるなら、温め直す方法を探します。人が足りないなら、集めます。誰かの名が消えそうなら、記録を開きます。私は聖女にはなれませんでした。けれど、私が学んだものを捨てるつもりはありません」
コーデリアは深く頭を下げた。
「補佐官で妥協するために来たのではありません。聖女様の隣という席を、取りに来ました」
ミナは、何も言えなかった。
綺麗な人だと思っていた。
強い人だと思っていた。
でも、それだけではなかった。
欲しいものを欲しかったと言える人だった。
悔しいものを悔しいまま持っていられる人だった。
そのうえで、次の席を取りに来る人だった。
大神官様が、静かに口を開いた。
「聖女様」
「はい」
「ヴァルムント様と、朝から夜まで共に動けると思われますか」
ミナは、コーデリアを見た。
分かるかどうかで言えば、まだ分からない。
神殿のことも、正補佐官の仕事も、朝から夜までどう動くのかも、何も知らない。
でも、ひとつだけ言えることがあった。
「隣にいてほしいです」
自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。
コーデリアの白手袋の指が、少しだけ動いた。
「私がうまく言えなかった桶のことを、覚えていてくれました。名誉が欲しかったことも、悔しかったことも、隠さず言ってくれました。だから」
ミナは、少しだけ息を吸った。
「隣にいてほしいです」
大神官様はうなずいた。
眼鏡の神官が羽根ペンを取り直す。
年配の女性神官が、小さく微笑んだ。
「コーデリア・ヴァルムント様」
大神官様の声が、面接室に静かに響いた。
「あなたを、当代聖女ミナ様の正補佐官に任じます」
コーデリアは、すぐには顔を上げなかった。
深く、深く礼をしたまま、ほんの少しだけ息を止めているように見えた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「謹んで、お受けいたします」
声は揺れていなかった。
でも、あの日の悔しさは消えていない。
きっと、消えなくていいのだと思った。
「よろしくお願いします、コーデリア様」
ミナが言うと、コーデリアは白手袋の指をそろえた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。聖女様」




