初出勤、朝六時
その夜、ミナは候補者用の宿舎に泊められた。
聖女に選ばれたからといって、いきなり神殿の奥へ連れていかれるわけではないらしい。白い壁の小さな部屋には、寝台と水差しと洗面器があり、窓の外には王都神殿の鐘楼が黒く見えた。
大神官様は、明日の手続きについていくつか説明してくれた。
祈祷本殿。
聖印の確認。
担当神官への挨拶。
候補者宿舎の朝食。
たぶん、ほかにも何か。
けれど、ミナの頭に残ったのは一つだけだった。
明朝六時。
神様がそうおっしゃった。
あの場にいた者は、みな聞いていた。大神官様も、神官たちも、落選したばかりの公爵令嬢様も。
それからもう一つ、公爵令嬢様の声も残っていた。
「あなた一人では初日に迷子になりますわ」
その時は、そんなに迷うだろうかと思った。
けれど、部屋に戻ってから、ミナは宿舎の廊下で一度迷った。
たぶん、公爵令嬢様は正しかった。
◇
明朝六時。
ミナは、王都神殿の正門前で足を止めた。
正門は開いていた。
門の前には大神官様がいて、眼鏡の神官と、昨日の年配の女性神官も控えていた。門番神官も左右に立ち、朝の冷気の中で背筋を伸ばしている。
きちんと、迎えがあった。
だからミナが足を止めた理由は、そこではない。
門の脇に、すでに公爵令嬢様が立っていたからだ。
朝の石畳は夜の冷たさを残している。吐く息は白い。村なら鶏が鳴き終えて、台所の火が入り始める時間だ。
そんな時間に、公爵令嬢様は昨日と同じように背筋を伸ばし、白手袋の指をそろえ、朝焼けの前で一筋も乱れていない髪をしていた。
「おはようございます、聖女様」
「……本当に、いらっしゃったんですね」
「昨日、そう申し上げましたので」
「まだ補佐官に採用されていませんよね」
「存じております。本日は見学です」
見学。
その言葉のわりに、公爵令嬢様は誰よりも準備が整っているように見えた。
「大神官様には、門前で待つ許可だけいただいております」
「許可だけで、朝六時前から待っていたんですか」
「採用されたわけではありませんので、それ以上の場所には入れません」
そこは、はっきりしているらしい。
ミナは改めて、公爵令嬢様を見た。
昨日、大神官様が名前を呼んでいた気がする。けれど、神様に聖女として認められたあたりから、ミナの頭はほとんど真っ白だった。
「あの、公爵令嬢様」
「その呼び方ですと、王都では該当者が多すぎますわ」
「す、すみません」
「コーデリア・ヴァルムントです」
名乗り方まで、まっすぐだった。
ミナは少し背筋を伸ばした。
「では、コーデリア様、とお呼びしてもいいですか」
「聖女様が、落選した候補者に様を付ける必要はございません」
「でも、急に呼び捨てにはできません」
コーデリアは、一瞬だけ黙った。
白手袋の指が、ほんの少しだけ動く。
「……では、それで結構ですわ」
「ありがとうございます、コーデリア様」
「それから、失礼いたします」
コーデリアが、ミナの肩元へ手を伸ばした。
ミナは思わず固まる。
「前合わせが浮いています」
「どこか変ですか」
「外套です。このまま歩くと、階段で裾を踏みますわ」
コーデリアの白手袋が、ミナの外套を直した。
布を押さえ、留め具をひとつ下げ、浮いていた襟元を整える。動きが静かで、手早い。
「分かるんですか」
「礼装を崩さず歩く訓練だけは、多すぎるほど受けました」
「礼装にも訓練があるんですね」
「あります。転ばないための訓練です」
ミナは、直された外套を見下ろした。
さっきより軽い。布が肩にきちんとのって、歩いてもずれない気がする。
「ありがとうございます」
「見学ですので。手を出したことには、しないでくださいませ」
コーデリアはそう言って、半歩下がった。
見学という言葉の使い方が、ミナの知っている見学と少し違う。
大神官様が、小さく咳払いをした。
「では、聖女様。参りましょう」
「はい」
「まずは祈祷本殿へ向かいます。その途中で、朝の神殿もご覧ください」
「昨日とは違うんですか」
「ええ。かなり」
大神官様は正門の内側へ歩き出した。
ミナはその後に続く。コーデリアは、ミナの半歩後ろについた。
昨日の王都神殿は、白くて静かな場所だった。
高い天井、磨かれた床、祈りの声。ミナが知っている礼拝堂より、ずっと遠くて、ずっと大きい場所。
けれど、朝六時の神殿は違った。
石の回廊の先で、桶を抱えた下働きが足早に通り過ぎる。木箱を運ぶ神官見習いが、壁際で道を譲る。奥の扉からは湯気が流れ、粥の匂いがした。灯りの油を替える年配の女性が、手早く古い芯を外している。
祈りより先に、人が動いていた。
神様が六時とおっしゃった理由は、たぶんこちらだった。
床に置かれた木札が、朝の人の流れの中で揺れている。
清水院。
灯火院。
薬草院。
鐘風院。
ミナには、まだどれが何をする場所なのか分からない。
けれど、桶の重さと、湯気の薄さは分かった。
廊下の端で、若い下働きの女性が桶を置いた。
湯を入れてあるらしい。けれど、表面の湯気はもう細くなっている。女性は赤くなった指先を袖でこすり、それから次の桶を取りに走ろうとしていた。
ミナは、思わず足を緩めた。
コーデリアも足を緩める。
「気になりますか」
「桶の湯気が、もう弱くなっています」
「どこを見てそう思われたのです」
「表面です。使う人を待っている間に、冷めてしまいます。冷たい湯で手を洗うと、指が動かなくなるので」
コーデリアは桶を見た。
それから、ミナの手を見た。
「……そこですのね」
「変なところを見ていますか」
「いいえ。私なら、桶の数と運ぶ人の配置を見ます」
「それも、大事だと思います」
「ええ。ですが、冷えた指までは見ませんでした」
さらりと言われて、ミナは返事に困った。
コーデリアはもう一度、湯気の細くなった桶を見た。
「覚えておきます」
「桶のことをですか」
「桶と、湯気と、指のことを」
その声は、昨日の控室で聞いたものより少し低かった。
何かをしまっておくような声だった。
ミナはもう一度、赤くなった指先を袖でこすっていた女性を見た。
聖女になった。でも、何をすればいいのかは、まだ分からない。
ただ、あの手は冷たいだろうと思った。
◇
祈祷本殿の扉が開いた。
昨日の選考で見た水盤が、奥に置かれている。朝の光を受けて、静かな水面が白く光っていた。
ミナは、大神官様に促されて水盤の前に立った。
「聖女様。聖印の確認を行います」
「はい」
水盤へ手をかざす。
指先が少し震えた。昨日、神様の声を聞いた時のことを思い出す。
水面に光が広がった。
淡い白が、ミナの手の下で揺れる。大神官様が深く頭を垂れ、眼鏡の神官が記録を取った。年配の女性神官は、ほっとしたように目元を和らげている。
「確認いたしました。当代聖女ミナ様です」
当代聖女。
また背中にうまく乗らない言葉が来た。
大神官様は水盤の前から一歩下がり、ミナへ向き直った。
「聖女様。続いて、補佐官についてご説明いたします」
「はい」
「当代聖女には、正補佐官を一名置きます。聖女様が迷わず、届くべき場所へ動けるよう支える役目です」
「そんな大事な人を、昨日決まったばかりの私が見てもいいんですか」
「最後の確認だけです。選考は神殿が行います」
「神様が選ぶんじゃないんですね」
大神官様は、穏やかにうなずいた。
「聖女様の隣に立つ者ですから、神殿が慎重に見ます」
「私に分かるんでしょうか」
「知識や実務は神殿が見ます。聖女様は、隣に立たせてもよい相手かを見てください」
ミナは、急に自分の隣を見たくなった。
でも、隣にはまだ誰もいない。
半歩後ろに、見学中のコーデリアが立っているだけだ。
「候補者は、もういるんですか」
「おります。昨日の選考後、補佐官候補として残る意思を確認しております」
大神官様の視線が、コーデリアへ向いた。
「ヴァルムント様」
「はい」
「あなたも、候補者として扱ってよろしいですね」
コーデリアは、一歩前に出た。
落選した候補者としてではなく、次の選考を受ける者として。
「もちろんです」
声は静かだった。
けれど、昨日の悔しさが消えたわけではないことを、ミナはなんとなく感じた。
消えたのではなく、形を変えて残っている。
「では、一次選考は明日、朝の祈りの後に行います」
「承知いたしました」
「聖女様には、最終確認の場で同席していただきます。それまでは、神殿の選考をご覧ください」
「はい」
ミナには、まだ難しかった。
けれど、たぶん大事なことだった。
コーデリアが、ミナの方を向いた。
白手袋の指をそろえ、深く礼をする。
「選考では、よろしくお願いいたします」
「私、面接で桶の話をした人ですよ」
「承知しております」
「何を見ればいいのかも、分かっていません」
「それは、選考の中でお分かりになるかと」
コーデリアはそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。
「私も昨日、それを学びましたので」
ミナは言葉に詰まった。
慰めるべきなのか、謝るべきなのか、分からなかった。
たぶん、どちらも違う。
「……では、一緒に見てもいいですか」
「見学者と候補者が一緒に見てよろしいのでしたら」
「大神官様、いいですか」
大神官様は少しだけ困った顔をした。
眼鏡の神官が、手元の羊皮紙をめくる。
「規定上、選考前の候補者が聖女様の側につくことは推奨されません」
「過度とは、どのくらいですか」
「明確な距離の規定はありません」
「では、半歩後ろはどうでしょう」
コーデリアがすぐに言った。
眼鏡の神官のペンが止まる。
「半歩」
「聖女様の歩行を妨げず、必要時に衣装と進路を確認できる距離です。会話は、大神官様の許可がある場合に限ります。記録の妨害もしません」
眼鏡の神官が大神官様を見た。
大神官様は、なぜか少し笑いそうな顔をしていた。
「半歩後ろであれば、許可しましょう」
「ありがとうございます」
コーデリアは礼をした。
ミナは、半歩後ろという距離が急に心強くなった。
その時、祈祷本殿の奥から、小さな鈴の音がした。
年配の女性神官が顔を上げる。
「朝の施療受付が始まります」
「施療受付?」
「神殿へ助けを求めに来た方々を、清水院、薬草院、祈祷室へ振り分ける時間です」
大神官様がミナを見た。
「聖女様。本来なら今日はご挨拶だけの予定でした。ですが、神がお決めになった初出勤です。朝の受付をご覧になりますか」
「見ます」
返事は、自分でも驚くほど早く出た。
コーデリアの白手袋の指が、少しだけ動いた。
大神官様は静かに頷いた。
「では、参りましょう」
◇
施療受付の広間には、すでに人が並んでいた。
咳をする子ども。
肩を押さえた荷運びの男。
杖をついた老婆。
目元を腫らした若い母親。
神官見習いたちが順番に声をかけ、木札を渡し、奥の院へ案内している。
ミナは入口で足を止めた。
昨日まで、自分は村で助けを求められる側だった。
けれど王都神殿では、助けを求める人が列になっていた。
多すぎる。そして、誰も大声を出していない。
疲れている人は、怒る力も泣く力も残っていないのだと、ミナは知っていた。
受付台の向こうで、神官見習いが困った顔をしていた。
目の前には、五歳くらいの男の子を抱えた母親がいる。子どもは眠っているように見えるが、頬が赤い。母親の手は、男の子の背中を何度もさすっていた。
「熱はいつからですか」
「昨日の夜からです」
「咳は」
「少し」
「では、薬草院へ」
「でも、この子、昨日からおしっこが少なくて」
神官見習いの手が止まった。
木札は薬草院のものを取りかけている。
でも、母親の目は神官見習いではなく、子どもの口元を見ていた。
ミナは、一歩だけ前に出た。
「すみません」
神官見習いが振り向いた。
大神官様も、眼鏡の神官も止まる。
ミナは母親へ向き直った。
「お水は飲めていますか」
「少しだけです。飲ませても、すぐ嫌がって」
「唇、乾いています。薬草院の前に、清水院で口を湿らせてもらった方がいいかもしれません」
母親の顔が、少しだけ崩れた。
「やっぱり、そうですよね。私、そう思ったんです。でも、熱なら薬草だって」
「薬草も必要だと思います。でも、先に少し飲めるようにした方が、たぶん楽です」
ミナは神官見習いを見た。
「清水院へ行ってから、薬草院へ回せますか」
「え、あの、順路が」
「順路が変わると困りますか」
「記録が、二枚になります」
神官見習いは本当に困っていた。
悪い人ではない。たぶん、決められた通りにしないと怒られる側の人だ。
ミナは後ろを見た。
「コーデリア様」
「はい」
「記録が二枚になるのは、どのくらい困りますか」
「今の段階では、記録が二枚になること自体より、誰の判断で順路を変えたかが曖昧になる方が困ります」
コーデリアは一歩も出なかった。
半歩後ろから、まっすぐ受付台を見ている。
「聖女様が判断し、大神官様が確認し、受付が清水院から薬草院への連携札を切る。これなら記録は残せます」
「連携札というのがあるんですか」
「あるはずです。緊急時、複数院で対応するための札です」
「どこにありますか」
「受付台の右下です」
神官見習いが、はっとして棚を開けた。
赤い線の入った木札が出てくる。
「あ、ありました」
「使ったことは?」
「ありません」
「では、今日覚えましょう」
コーデリアの声は厳しくなかった。
けれど、神官見習いの背中が自然に伸びた。
ミナは母親に言った。
「清水院へ行きましょう。私も途中まで一緒に行きます」
「聖女様がですか」
「はい。私も、場所を覚えたいので」
母親は泣きそうな顔で笑った。
コーデリアが半歩後ろにつく。
今度はミナが先に歩いた。
清水院へ向かう途中、さっきの湯気の弱い桶がまだ廊下の端に置かれていた。
下働きの女性が、次の桶を運んで戻ってくる。指先はさらに赤い。
ミナは立ち止まった。
「大神官様」
「はい」
「あの桶、置く場所を変えてもいいですか」
「理由を聞いても?」
「廊下の風が当たります。あそこだと冷めます。扉の内側に置けば、少しは温かいままです」
「通行の妨げには?」
「端に寄せれば、大きな箱は通れません。でも人は通れます」
大神官様が考えるより早く、コーデリアが廊下を見た。
「箱を運ぶ経路は左側です。桶を右のくぼみに置けば、下働きの動線も短くなります。ただし、くぼみの前に古い燭台があります」
「どかせますか」
「許可があれば」
「大神官様、どかしてもいいですか」
「一時的に許可します」
ミナはほっとして、下働きの女性に声をかけた。
「すみません。その桶、少しだけ場所を変えてもいいですか」
「え、でも、決まった場所が」
「今だけです。冷めにくいところに置きたいんです」
「……冷めにくいところ」
女性は、桶を持ったままミナを見た。
その目が、ミナの胸に少し刺さった。
今まで誰にも聞かれなかった、という顔だった。
コーデリアが静かに言った。
「聖女様の確認により、仮置き場を右側くぼみへ変更します。後ほど正式に通行記録を確認します」
「は、はい」
女性は桶を運び直した。
右側のくぼみに置くと、たしかに風は当たりにくい。湯気が少しだけ上に伸びた。
下働きの女性が自分の指先に息を吹きかけて、小さく笑った。
「こっちの方が、手が楽です」
ミナは胸の奥が熱くなった。
「よかったです」
コーデリアが、半歩後ろで小さく息を吐いた。
その音は、笑いではなかった。
「コーデリア様?」
「いえ」
「祈りの前に変えられることが、こんなにあるのですね」
ミナは返事をしようとして、できなかった。
それはたぶん、自分も今、初めて知ったことだった。
◇
清水院で子どもの口を湿らせ、薬草院へ送るころには、朝の祈りの鐘が鳴り始めていた。
大神官様は、何も叱らなかった。
眼鏡の神官は、ずっと何かを書いていた。
年配の女性神官は、清水院へ向かう母親の背中を見送ってから、ミナへ静かに頭を下げた。
「聖女様。朝の祈りへ」
「はい」
ミナは歩き出そうとして、ふと横を見た。
コーデリアはまだ半歩後ろにいる。
朝焼けの中で整っていた髪は、少しだけ風で乱れていた。白手袋の指先には、さっき動かした燭台の煤が薄くついている。
「コーデリア様」
「はい」
「手袋が汚れています」
「見学ですので」
「見学って、汚れるんですね」
「本日の学びですわ」
コーデリアは、ミナへ顔を上げる。
「聖女様」
「はい」
「明日の補佐官選考ですが」
コーデリアの声は、まっすぐだった。
昨日の悔しさとも、今朝の礼儀正しさとも違う。
「私は、勝ちに参ります」
「はい」
「ただし、昨日までの勝ち方ではありません」
ミナは、うまく返事ができなかった。
けれど、その意味は少しだけ分かった気がした。
「私、面接で桶の話をした人ですよ」
「承知しております」
「何を見ればいいのかも、分かっていません」
「それは、選考の中でお分かりになるかと」
コーデリアは、半歩後ろで静かに礼をした。




