落ちない黒い点
北坂区の道は、神殿の白い床とは違っていた。
石段が多い。家と家の間にも坂があり、水桶を抱えた人が、途中で足を止めている。
リィナは、その道を迷わず進んだ。
「こちらです。坂の上の共同井戸は、この先にあります」
ミナはリィナの背中を見ながら歩いた。コーデリアはミナの斜め後ろにいる。清水院の神官が一人、箱を抱えてついてきていた。
坂の上には、小さな広場があった。
中央に共同井戸があり、その横には石で囲まれた洗い場がある。
井戸のそばにいた人たちが、リィナを見た。
その次に、ミナを見た。
「リィナさん」
「神殿は、何て」
「聖女様まで来たのか」
「黒い聖水って、本当なの」
人の声が少しずつ増えた。リィナは足を止め、口を開きかける。
けれど、先にミナが前へ出た。
「誰かを叱りに来たんじゃありません」
井戸のそばにいた人たちが、ミナを見る。
「水で困った人を探しています。井戸の水を、少し見せてください」
年配の女が、桶を抱えたまま聞いた。
「私たちが、悪いことをしたんですか」
「違います」
ミナはすぐに答えた。
「誰が悪いかを決めに来たんじゃありません。何が起きているのかを見に来ました」
女はまだ不安そうだった。それでも、抱えていた桶を少し下ろした。
コーデリアが一歩前に出る。
「清水院の神官が、井戸水を確認します。皆様は、少しだけ井戸から離れてください」
人々は顔を見合わせた。
リィナが井戸の方へ向き直る。
「お願いします。いつも使っている井戸です。見てもらった方がいいです」
その言葉で、数人が井戸から下がった。
清水院の神官は箱を開けた。中には白い皿と小さな瓶が並んでいる。
「井戸水を取ります」
神官は、井戸のそばに置かれていた水桶を見た。
「これは、今朝くんだものですか」
「さっきです。まだ使っていません」
「では、少量をいただきます」
神官は白い皿を石台の上に置き、桶から水をすくって皿へ移した。
水は透明に見えた。
リィナが小さく言う。
「神殿で見た時と、同じです」
ミナにも、透明に見えた。
清水院の神官は白い皿を見たまま言った。
「少し置きます」
その時、リィナが洗い場の方を見た。
「リザさん」
洗い場にいた女が顔を上げた。濡れた布を持っている。まだ若い女だった。濃い色の前掛けが、水で濡れている。
「リィナ……」
リザはそう言ったあと、ミナたちを見た。
そして、濡れた布を左手に持ち替え、右手を袖の中へ入れた。
ミナは、それを見た。
「リザさん」
リザは答えない。
リィナが洗い場へ近づいた。
「リザさん、手、まだ……?」
「違うの。ただの汚れだから」
リィナはそこで止まった。無理に近づかなかった。
ミナは、リザの前に立つ。
「その手、見せてもらえますか」
リザは袖の中の手を動かさない。
「怒られますか」
「怒りません」
「水仕事をしただけです」
「はい。だから、見せてください」
リザは、少しだけ袖から右手を出した。
指の腹に、黒い点が二つあった。爪の横にも、一つある。
泥ではなかった。墨のようでもなかった。
皮膚の上に、小さな黒い粒が残っているように見えた。
リザは、すぐに手を引っ込めようとした。
「洗っても落ちないんです」
周りにいた人たちの声が止まった。
リザは手を見たまま続ける。
「最初は、桶の底の汚れだと思いました。井戸の桶を洗ったら、指についていて」
「いつからですか」
「昨日です。いえ、その前から少しありました。でも、昨日はっきり見えて」
リザは指先をこすった。
「石けんで洗っても、砂でこすっても、残るんです」
リィナがリザの手を見ていた。
「言ってくれればよかったのに」
「言ったら、井戸を使うなって言われると思った」
リザは井戸の方を見た。
「でも、ここを使わないと、洗う水がないの」
ミナは、リザの手を見た。
トマ。リザ。バルド。
リィナが話してくれた名前の一つが、目の前にいる。
「リザさんのせいにするためじゃありません」
リザが、ミナを見る。
「同じ水を使った人を探すためです。名前を聞いてもいいですか」
「リザです」
「リザさんですね」
「洗い場で、布を洗っています」
コーデリアが、すぐに手帳を開いた。
「リザ様。洗い場。右手の指に黒い点」
リザが、コーデリアを見る。
「書くんですか」
「はい」
コーデリアは筆を止めなかった。
「あとで、聞いていないと言わせないためです」
リザは、右手を見た。
今度は、袖の中に隠さなかった。
清水院の神官が、白い皿のそばで声を上げた。
「出ました」
ミナは振り向いた。
白い皿の底に、小さな黒い粒が沈んでいた。
神殿の確認室で見たものと同じだった。
清水院の神官は、皿を動かさずに言った。
「同じ黒い粒です」
リィナは井戸を見た。
「やっぱり、この井戸にも……」
広場にいた人たちが、井戸から一歩離れた。
「今朝も使ったぞ」
「うちの水瓶にも入っているかもしれない」
「じゃあ、飲んだ水は」
声が重なりかける。
ミナは、井戸のそばへ戻った。
「この井戸の水を使った人の話を聞きます」
住民たちは、まだ不安そうにしていた。
けれど、さっきより逃げようとはしていなかった。
リザが、黒い点のある右手を胸の前で握った。
「パン屋のマーロさんの家も、この井戸を使っています」
ミナはリザを見る。
「トマさんの家ですか」
「はい。トマは、昨日からお腹が痛いって。今日は店の奥で寝ているって聞きました」
リィナがすぐに言った。
「マーロさんの家は、坂の上の井戸の方が近いです」
ミナは、白い皿の底を見た。
黒い粒は、そこに残っている。
そしてリザの手にも、落ちない黒い点が残っている。
「トマさんのところへ行きます」
ミナが言うと、コーデリアはすぐに手帳を閉じた。
「先に、子どもです」
清水院の神官は白い皿を布で囲った。
「井戸水は、このまま残します。持ち帰る分も取ります」
「お願いします」
コーデリアはリザへ向き直った。
「リザ様。右手は、できればこれ以上こすらないでください。あとで薬の院にも見てもらいます」
「薬の院……」
「怖がらせるためではありません。手を傷つけないためです」
リザは、黒い点の残った手を見た。
「分かりました」
ミナはリザに言った。
「また来ます」
「トマを、見てあげてください」
「はい」
リィナが道を示す。
「パン屋は、この坂を下りてすぐです」
ミナたちは井戸を離れた。
背中の後ろで、誰かが白い皿を見ている。誰かが、自分の桶の底をのぞいている。誰かが、手のひらを見ている。
リィナは坂を下りながら、何度も後ろを振り返った。
ミナは、その横に並ぶ。
「リィナさん」
「はい」
「案内してくれて、ありがとうございます」
リィナは、前を見た。
「まだ、案内します」
坂の下から、焼いたパンの匂いがした。
次に向かうのは、トマのいるパン屋だった。




