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聖女候補の面接で「志望動機は?」と聞かれました【連載版】  作者: あゆと
第二章 黒い聖水

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トマの水瓶

 パン屋は、坂を少し下りたところにあった。

 焼いたパンの匂いが外まで出ているのに、店の前に並ぶ人はいない。木の扉は半分だけ開き、棚には布をかけられたパンが残っていた。


 リィナが扉の前で声をかける。

「マーロさん、リィナです。聖女様と、清水院の方をお連れしました」


 店の奥から、男が出てきた。

 小麦粉のついた前掛けをしている。リィナを見て、次にミナを見た瞬間、男の動きが止まった。


「せ、聖女様……?」


 男は前掛けで手を拭こうとして、白い粉を余計に広げた。

 それから、慌てて膝をつこうとする。


「いけません。こんなところへ。床も粉だらけで、何も、お出しできるものが……!」


「頭を下げなくて大丈夫です」


 ミナは、男が膝をつく前に言った。


「今はそれより、トマさんに会わせてください」


 男の動きが止まった。


「……トマを、ですか?」

「はい。具合が悪いと聞きました。熱があるんですよね?」


 マーロの顔から、さらに血の気が引いた。


「どうして、それを……」


「井戸のそばで、黒い点のついた手を見ました。水のことで、ほかにも苦しんでいる人がいると聞きました」


 マーロは奥を振り返った。店の奥には、作業台と小さな寝台が見える。


「昨日の夜からです。最初は腹が痛いって言っていました。水を飲ませたあと、急に熱が上がって……今朝はもう、パンも食べられません。起こしても、すぐ目を閉じるんです」


 マーロは、寝台から目を離せなかった。


「こんな小さい子が、こんな熱を出すなんて……!」


 ミナは店の中へ入った。コーデリアとリィナが続き、清水院の神官は入口近くで箱を抱え直した。

 伝令役の若い神官も、扉の外で足を止める。


 寝台には、小さな男の子が横になっていた。

 頬は赤い。唇は乾いている。布団から出た手は力なく開いていて、指先だけがときどき動いた。


 マーロが寝台のそばへ行った。


「トマ。聖女様が来てくださったぞ」


 返事はなかった。


「トマ? 聞こえるか?」


 もう一度呼ばれて、男の子はうっすら目を開けた。

 けれど、すぐに焦点が外れる。


 ミナは寝台の横に膝をついた。


「トマさん」


 男の子の目が、ミナの方へ動いた。

 返事はない。


 ミナは、トマの額に手を近づけた。

 触れる前から熱が分かった。


「……熱い」


 マーロが寝台の横で拳を握った。


「水を飲ませると、少しだけ落ち着くと思ったんです。でも、そのあと、もっと熱が上がって……! 俺が、飲ませたんです。俺が」


「マーロさん」


 ミナはすぐに言った。


「飲ませた人を責めに来たんじゃありません」


「でも!」


「トマさんを見に来ました。今は、この子です」


 マーロの口が閉じた。

 それでも、肩は震えていた。


 リィナが小さく言った。


「水……」


 その声に、マーロが顔を上げる。


「坂上の井戸の水を、使っていますか?」

 コーデリアが聞いた。


「はい。坂下の井戸が濁ったので、坂上に替えました。あっちなら大丈夫だと思って……!」


「その水は、まだありますか?」

「あります。店の水瓶に」


 マーロは作業台の横へ案内した。

 大きな水瓶が置かれている。蓋はされていたが、縁には使いかけの柄杓がかかっていた。


 清水院の神官が前に出る。


「開けてもよろしいですか?」

「はい。見てください。お願いします……!」


 蓋を取ると、水面は静かだった。見た目は透明に近い。

 清水院の神官は柄杓ではなく、自分の小さな器を使って水をすくい、白い皿へ移した。


「井戸と同じく、少し置きます」


 ミナは水瓶を見た。

 底の方まではよく見えない。けれど、瓶の内側に黒いものがついているように見えた。


「水瓶の底も、見られますか?」


 清水院の神官はすぐにうなずいた。


「水を動かさずに見ます」


 神官は細い灯りを水瓶の横へかざした。

 水面の下、瓶の底に、黒い粒がいくつも沈んでいる。


 リィナが水瓶の縁に手をかけかけて、すぐに引いた。


「トマの家にも……?」


 マーロは水瓶を見たまま、動けなくなっていた。


「これを、飲ませていました」


「マーロさんが悪いのではありません」


 ミナは言った。


 マーロは答えなかった。

 水瓶の底を見たまま、唇だけが動く。


「でも、飲ませたのは俺です」


 リィナが一歩近づいた。


「違います。私も、この水なら大丈夫だと思って神殿へ持っていきました。私も……」


「リィナさん」


 ミナは、リィナへ向いた。


「謝るのはあとです。近くの家へ行ってください」


 リィナが顔を上げる。


「坂上の井戸の水を、もう飲ませないでください。トマさんみたいな子を、増やしたくありません」


 リィナは水瓶を見た。

 それから、唇を結んでうなずいた。


 白い皿の底に、小さな黒い粒が沈み始めた。


「出ました」


 清水院の神官の声が変わった。


 コーデリアが皿を見た。


「坂上の井戸と同じものですか?」


「同じに見えます。水差しに残っていた水とも、同じ黒い粒です」


 ミナは寝台の方を振り返った。

 トマは目を閉じている。息が速い。額に汗が浮き、唇がかすかに震えている。


「この水を飲んだあと、熱が出たんですね?」


 ミナが聞くと、マーロはうなずいた。


「昨日の昼です。暑いから、たくさん飲ませました。夜には腹が痛いって言って……夜中に熱が上がりました」


「ほかに、この水を飲んだ人は?」


「俺も飲みました。でも、大人だからか、少し腹が重いくらいで……トマは、子どもだから」


 マーロはそこで言葉を詰まらせた。


「この子だけ、こんなに……!」


 清水院の神官が白い皿から顔を上げた。


「子どもと老人は、危険かもしれません」


「危険って、どういう意味ですか?」


 マーロが聞き返す。


 神官は、すぐに答えなかった。


「まだ断定はできません。ですが、黒い粒を含む水を飲んで、高熱と衰弱が出ています。ほかの家にも同じ症状の子どもや老人がいれば、急ぎます」


「急ぐって……この子は助かるんですか?」


 マーロの声が割れた。


「助かるんですか、聖女様!」


 ミナは、トマを見た。

 完全に治せるとは言えない。

 水の原因も、病の名前も、まだ分からない。


 でも、目の前で熱に焼かれている子どもを、そのままにはできなかった。


「祈ります」


 ミナは言った。


「全部すぐに治せるとは言えません。でも、今この熱が、これ以上トマさんを苦しめないように祈ります」


 マーロが何度も、短くうなずいた。


「お願いします、聖女様……!」


 ミナは寝台の横へ戻った。

 トマの手のそばに、自分の手を置く。触れない。けれど、離れすぎない距離で止める。


「トマさん」


 返事はない。


 ミナは、もう一度呼んだ。


「トマさん。苦しいですね」


 トマのまぶたが少し動いた。


「大丈夫です。ここにいます」


 ミナは、トマへ届くように祈った。

 大きな言葉はいらなかった。聖女らしい飾った文句も、今は必要ない。


「トマさんの熱が、少しでも下がりますように」

「トマさんの息が、楽になりますように」

「トマさんの体が、この熱に負けませんように」


 白い皿の底で、黒い粒がわずかに寄った。

 水瓶の底でも、散っていた粒が、ゆっくり同じ方へ集まっていく。


「……動いた?」


 リィナが白い皿を見る。


 清水院の神官も皿へ目を落とした。


「祈りに反応しています」


「水の汚れが、ですか?」


 コーデリアが聞き返す。


「ただの泥なら、聖女様の祈りで動きません」


 ミナは皿を見なかった。

 トマだけを見ていた。


 トマの速かった息が、少しだけ落ち着く。

 眉間に寄っていたしわが、ゆるむ。


 マーロが、泣きそうな顔で口を押さえた。


「息が……さっきより、楽そうだ」


 それでも、トマの熱は消えていない。

 額はまだ熱いままだった。


 マーロが寝台に身を乗り出した。


「トマ? トマ!」


「急に起こさないでください!」


 ミナが止めると、マーロは両手を引いた。


「す、すみません……」


 トマの目が、少し開いた。

 ぼんやりと天井を見て、それから父の方へ動く。


「……とう、さん」


 マーロの顔が崩れた。


「トマ!」


 トマの声は弱かった。

 熱も消えていない。

 けれど、さっきまで返事もできなかった子どもが、父を見て声を出した。


 マーロは抱きしめようとして、またミナを見る。


「触れても……大丈夫ですか?」


「ゆっくりなら」


 マーロは、トマの肩にそっと手を置いた。

 トマは目を閉じたまま、父の指を少しだけ握った。


「水は、もう飲ませないでください」

 ミナはマーロへ言った。

「この水瓶の水も、坂上の井戸の水もです」


「では、何を飲ませればいいんですか? この子に、何を……!」


 その問いを、コーデリアが受けた。


「神殿から水を運ばせます。まずこの家と、井戸の近くの家からです」


 清水院の神官が顔を上げる。


「北坂区全体へ知らせが必要です。坂上の井戸も坂下の井戸も、飲み水として使わせてはいけません。特に、子どもと老人には絶対に飲ませないように」


「伝令院へ回します」

 コーデリアは即座に答えた。

「ただし、今この場で待てません。リィナ様、近くの家へ、坂上の井戸の水を飲まないよう伝えられますか?」


 リィナは一瞬だけ水瓶を見た。

 それから、うなずいた。


「伝えます。謝りに行くのではなく、止めに行きます」


 その言葉を聞いて、ミナはリィナを見た。

 リィナはもう、自分のせいだと言いに行く顔ではなかった。


 コーデリアは白い皿を見ていた。


「黒い粒を含む水。高熱。衰弱。子どもと老人に重い症状」


 清水院の神官が、コーデリアを見る。


「コーデリア様?」


 コーデリアの指先が、手袋の上から自分の手首を押さえた。

 迷っている時間は、ほんの短かった。


「黒水熱」


 リィナが聞き返した。


「こくすい、ねつ……?」


「私も、実物を見たことはありません。公爵家の古い災害年表で読んだだけです」


 コーデリアは、皿の底の黒い粒から目を離さない。


「北坂区。封じ井戸。黒い沈殿。高熱。衰弱。幼い者と老いた者に死者あり」


 マーロがトマの肩に置いた手に力を込めた。


「死者……?」


「病の詳しい記録ではありません。私が読んだのは、神殿へ出された古い災害報告の写しです。死者数も、原因も、空欄のままでした」


 清水院の神官が箱を握り直す。


「清水院にも、黒い沈殿と聖水の黒筋についての記録はあります」


 清水院の神官は、白い皿を見た。


「ですが、熱病の記録とは別に保管されていました。水の記録としてしか読んでいません」


「だから、今まで黒水熱と結びつかなかった」


 コーデリアが言った。


「ですが、今は違います。トマ様の高熱、水瓶の黒い粒、北坂区の井戸、そして黒い聖水。条件がそろいました」


 清水院の神官は否定しなかった。


「……黒水熱の疑いがあります」


 マーロの声が震えた。


「そんなものが、うちの水に……」


「この水は、ここで止めます」

 コーデリアが言った。


 清水院の神官は、そこで急に顔を上げた。


「待ってください」


 その声で、店の中の視線が集まった。


「今日の献水の聖水は……各区へ分ける予定でしたか?」


 コーデリアの返事は速かった。


「就任式のあと、代表者へ小瓶を渡す予定でした」


「もう、渡しましたか?」


「いいえ」


 清水院の神官は、そこで初めて息を吐いた。


「なら、まだ止められます」


 コーデリアはすぐに言った。


「黒水熱の疑いがあるなら、献水の聖水は一滴も外へ出せません」


 清水院の神官が口を開く。


「まだ断定は……」


「断定を待って配るものではありません」


 コーデリアの声が鋭くなった。


「黒い筋が出た聖水は、すでに北坂区の水と接触しています。小瓶に分ければ、各区へ疑いのある水を配ることになります」


 清水院の神官は、言い返さなかった。


「止めます。今すぐに」


 聖水。

 小瓶。

 各区。


 ミナは、神殿で封じられた聖水の器を思い出した。

 黒い筋が広がった器。

 リィナを責める声。

 不吉だと言った人たち。


 あの聖水が、もし配られていたら。

 王都のあちこちで、子どもが熱を出す。

 老人が倒れる。

 誰かの父親が、マーロと同じ声で助けを呼ぶ。


「配らないでください」


 ミナは、思ったより強い声を出していた。


 トマの熱。

 リザの手。

 水瓶の底に集まった黒い粒。


 あれが、王都のあちこちへ渡るところだった。


「黒い筋が出た聖水を、どこにも出さないでください。お願いです……!」


「お願いではありません」


 コーデリアが言った。

 ミナの隣に立ち、店の入口へ向く。


「止めます。今すぐに!」


 清水院の神官が答える。


「封じた器は、まだ神殿にあります。小瓶へは分けられていません」


「なら、止められます」

 コーデリアは店の入口へ向かった。

「今ここで、止めます」


 ミナはトマを見る。

 トマは、父の手を弱く握っていた。

 熱はまだ残っている。助かったと決まったわけではない。


 それでも、さっきより息が楽そうだった。


 その子を、これ以上増やしてはいけない。


 ミナは立ち上がった。


「次に、バルドさんに会います」


 リィナがすぐに反応した。


「バルドさんは、坂下の井戸の近くです。最初に、においが変だと言っていました」


 清水院の神官が箱を閉じる。


「坂下の井戸を知る方なら、古い封じ井戸のことも知っているかもしれません」


 コーデリアは店の入口で、扉の外に控えていた若い神官を呼び止めた。


「神殿へ戻ってください。大神官様へ、黒い聖水の小瓶配布を止めるよう伝えなさい。清水院には封じた器をそのまま保管するように。施薬院には北坂区へ人を出す準備を。伝令院には北坂区への水止めの知らせを準備させてください」


 若い神官は目を見開いた。


「聖水の配布を、ですか!?」


「止めます」

 コーデリアは言い切った。

「ミナ様のご判断です」


 若い神官はミナを見た。

 ミナはうなずいた。


「お願いします。今、止めてください」


 その言葉で、若い神官は走り出した。


 ミナはマーロに言った。


「神殿から水と施薬院の方を届けます。それまで、この水は使わないでください」


「分かりました」


 マーロはうなずき、トマを見た。


「トマ」


 トマは、少し遅れた。

 けれど、今度は小さく返した。


「……うん」


 ミナは、その返事を聞いてから店を出た。


 坂の上の井戸の水は、透明に見えた。

 けれど、リザの手には黒い点が残り、トマは高熱で寝台から起き上がれなかった。

 水瓶の底には、黒い粒が沈んでいた。


 神殿では、黒い筋が広がった聖水の器が封じられている。

 本来なら、その聖水は小瓶に分けられ、王都の各区へ渡されるはずだった。


 黒い聖水は、不吉のしるしではない。

 広がる前に、見つけるためのしるしだった。


 次に聞くべき相手は、坂下の井戸を知る老人だった。

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