トマの水瓶
パン屋は、坂を少し下りたところにあった。
焼いたパンの匂いが外まで出ているのに、店の前に並ぶ人はいない。木の扉は半分だけ開き、棚には布をかけられたパンが残っていた。
リィナが扉の前で声をかける。
「マーロさん、リィナです。聖女様と、清水院の方をお連れしました」
店の奥から、男が出てきた。
小麦粉のついた前掛けをしている。リィナを見て、次にミナを見た瞬間、男の動きが止まった。
「せ、聖女様……?」
男は前掛けで手を拭こうとして、白い粉を余計に広げた。
それから、慌てて膝をつこうとする。
「いけません。こんなところへ。床も粉だらけで、何も、お出しできるものが……!」
「頭を下げなくて大丈夫です」
ミナは、男が膝をつく前に言った。
「今はそれより、トマさんに会わせてください」
男の動きが止まった。
「……トマを、ですか?」
「はい。具合が悪いと聞きました。熱があるんですよね?」
マーロの顔から、さらに血の気が引いた。
「どうして、それを……」
「井戸のそばで、黒い点のついた手を見ました。水のことで、ほかにも苦しんでいる人がいると聞きました」
マーロは奥を振り返った。店の奥には、作業台と小さな寝台が見える。
「昨日の夜からです。最初は腹が痛いって言っていました。水を飲ませたあと、急に熱が上がって……今朝はもう、パンも食べられません。起こしても、すぐ目を閉じるんです」
マーロは、寝台から目を離せなかった。
「こんな小さい子が、こんな熱を出すなんて……!」
ミナは店の中へ入った。コーデリアとリィナが続き、清水院の神官は入口近くで箱を抱え直した。
伝令役の若い神官も、扉の外で足を止める。
寝台には、小さな男の子が横になっていた。
頬は赤い。唇は乾いている。布団から出た手は力なく開いていて、指先だけがときどき動いた。
マーロが寝台のそばへ行った。
「トマ。聖女様が来てくださったぞ」
返事はなかった。
「トマ? 聞こえるか?」
もう一度呼ばれて、男の子はうっすら目を開けた。
けれど、すぐに焦点が外れる。
ミナは寝台の横に膝をついた。
「トマさん」
男の子の目が、ミナの方へ動いた。
返事はない。
ミナは、トマの額に手を近づけた。
触れる前から熱が分かった。
「……熱い」
マーロが寝台の横で拳を握った。
「水を飲ませると、少しだけ落ち着くと思ったんです。でも、そのあと、もっと熱が上がって……! 俺が、飲ませたんです。俺が」
「マーロさん」
ミナはすぐに言った。
「飲ませた人を責めに来たんじゃありません」
「でも!」
「トマさんを見に来ました。今は、この子です」
マーロの口が閉じた。
それでも、肩は震えていた。
リィナが小さく言った。
「水……」
その声に、マーロが顔を上げる。
「坂上の井戸の水を、使っていますか?」
コーデリアが聞いた。
「はい。坂下の井戸が濁ったので、坂上に替えました。あっちなら大丈夫だと思って……!」
「その水は、まだありますか?」
「あります。店の水瓶に」
マーロは作業台の横へ案内した。
大きな水瓶が置かれている。蓋はされていたが、縁には使いかけの柄杓がかかっていた。
清水院の神官が前に出る。
「開けてもよろしいですか?」
「はい。見てください。お願いします……!」
蓋を取ると、水面は静かだった。見た目は透明に近い。
清水院の神官は柄杓ではなく、自分の小さな器を使って水をすくい、白い皿へ移した。
「井戸と同じく、少し置きます」
ミナは水瓶を見た。
底の方まではよく見えない。けれど、瓶の内側に黒いものがついているように見えた。
「水瓶の底も、見られますか?」
清水院の神官はすぐにうなずいた。
「水を動かさずに見ます」
神官は細い灯りを水瓶の横へかざした。
水面の下、瓶の底に、黒い粒がいくつも沈んでいる。
リィナが水瓶の縁に手をかけかけて、すぐに引いた。
「トマの家にも……?」
マーロは水瓶を見たまま、動けなくなっていた。
「これを、飲ませていました」
「マーロさんが悪いのではありません」
ミナは言った。
マーロは答えなかった。
水瓶の底を見たまま、唇だけが動く。
「でも、飲ませたのは俺です」
リィナが一歩近づいた。
「違います。私も、この水なら大丈夫だと思って神殿へ持っていきました。私も……」
「リィナさん」
ミナは、リィナへ向いた。
「謝るのはあとです。近くの家へ行ってください」
リィナが顔を上げる。
「坂上の井戸の水を、もう飲ませないでください。トマさんみたいな子を、増やしたくありません」
リィナは水瓶を見た。
それから、唇を結んでうなずいた。
白い皿の底に、小さな黒い粒が沈み始めた。
「出ました」
清水院の神官の声が変わった。
コーデリアが皿を見た。
「坂上の井戸と同じものですか?」
「同じに見えます。水差しに残っていた水とも、同じ黒い粒です」
ミナは寝台の方を振り返った。
トマは目を閉じている。息が速い。額に汗が浮き、唇がかすかに震えている。
「この水を飲んだあと、熱が出たんですね?」
ミナが聞くと、マーロはうなずいた。
「昨日の昼です。暑いから、たくさん飲ませました。夜には腹が痛いって言って……夜中に熱が上がりました」
「ほかに、この水を飲んだ人は?」
「俺も飲みました。でも、大人だからか、少し腹が重いくらいで……トマは、子どもだから」
マーロはそこで言葉を詰まらせた。
「この子だけ、こんなに……!」
清水院の神官が白い皿から顔を上げた。
「子どもと老人は、危険かもしれません」
「危険って、どういう意味ですか?」
マーロが聞き返す。
神官は、すぐに答えなかった。
「まだ断定はできません。ですが、黒い粒を含む水を飲んで、高熱と衰弱が出ています。ほかの家にも同じ症状の子どもや老人がいれば、急ぎます」
「急ぐって……この子は助かるんですか?」
マーロの声が割れた。
「助かるんですか、聖女様!」
ミナは、トマを見た。
完全に治せるとは言えない。
水の原因も、病の名前も、まだ分からない。
でも、目の前で熱に焼かれている子どもを、そのままにはできなかった。
「祈ります」
ミナは言った。
「全部すぐに治せるとは言えません。でも、今この熱が、これ以上トマさんを苦しめないように祈ります」
マーロが何度も、短くうなずいた。
「お願いします、聖女様……!」
ミナは寝台の横へ戻った。
トマの手のそばに、自分の手を置く。触れない。けれど、離れすぎない距離で止める。
「トマさん」
返事はない。
ミナは、もう一度呼んだ。
「トマさん。苦しいですね」
トマのまぶたが少し動いた。
「大丈夫です。ここにいます」
ミナは、トマへ届くように祈った。
大きな言葉はいらなかった。聖女らしい飾った文句も、今は必要ない。
「トマさんの熱が、少しでも下がりますように」
「トマさんの息が、楽になりますように」
「トマさんの体が、この熱に負けませんように」
白い皿の底で、黒い粒がわずかに寄った。
水瓶の底でも、散っていた粒が、ゆっくり同じ方へ集まっていく。
「……動いた?」
リィナが白い皿を見る。
清水院の神官も皿へ目を落とした。
「祈りに反応しています」
「水の汚れが、ですか?」
コーデリアが聞き返す。
「ただの泥なら、聖女様の祈りで動きません」
ミナは皿を見なかった。
トマだけを見ていた。
トマの速かった息が、少しだけ落ち着く。
眉間に寄っていたしわが、ゆるむ。
マーロが、泣きそうな顔で口を押さえた。
「息が……さっきより、楽そうだ」
それでも、トマの熱は消えていない。
額はまだ熱いままだった。
マーロが寝台に身を乗り出した。
「トマ? トマ!」
「急に起こさないでください!」
ミナが止めると、マーロは両手を引いた。
「す、すみません……」
トマの目が、少し開いた。
ぼんやりと天井を見て、それから父の方へ動く。
「……とう、さん」
マーロの顔が崩れた。
「トマ!」
トマの声は弱かった。
熱も消えていない。
けれど、さっきまで返事もできなかった子どもが、父を見て声を出した。
マーロは抱きしめようとして、またミナを見る。
「触れても……大丈夫ですか?」
「ゆっくりなら」
マーロは、トマの肩にそっと手を置いた。
トマは目を閉じたまま、父の指を少しだけ握った。
「水は、もう飲ませないでください」
ミナはマーロへ言った。
「この水瓶の水も、坂上の井戸の水もです」
「では、何を飲ませればいいんですか? この子に、何を……!」
その問いを、コーデリアが受けた。
「神殿から水を運ばせます。まずこの家と、井戸の近くの家からです」
清水院の神官が顔を上げる。
「北坂区全体へ知らせが必要です。坂上の井戸も坂下の井戸も、飲み水として使わせてはいけません。特に、子どもと老人には絶対に飲ませないように」
「伝令院へ回します」
コーデリアは即座に答えた。
「ただし、今この場で待てません。リィナ様、近くの家へ、坂上の井戸の水を飲まないよう伝えられますか?」
リィナは一瞬だけ水瓶を見た。
それから、うなずいた。
「伝えます。謝りに行くのではなく、止めに行きます」
その言葉を聞いて、ミナはリィナを見た。
リィナはもう、自分のせいだと言いに行く顔ではなかった。
コーデリアは白い皿を見ていた。
「黒い粒を含む水。高熱。衰弱。子どもと老人に重い症状」
清水院の神官が、コーデリアを見る。
「コーデリア様?」
コーデリアの指先が、手袋の上から自分の手首を押さえた。
迷っている時間は、ほんの短かった。
「黒水熱」
リィナが聞き返した。
「こくすい、ねつ……?」
「私も、実物を見たことはありません。公爵家の古い災害年表で読んだだけです」
コーデリアは、皿の底の黒い粒から目を離さない。
「北坂区。封じ井戸。黒い沈殿。高熱。衰弱。幼い者と老いた者に死者あり」
マーロがトマの肩に置いた手に力を込めた。
「死者……?」
「病の詳しい記録ではありません。私が読んだのは、神殿へ出された古い災害報告の写しです。死者数も、原因も、空欄のままでした」
清水院の神官が箱を握り直す。
「清水院にも、黒い沈殿と聖水の黒筋についての記録はあります」
清水院の神官は、白い皿を見た。
「ですが、熱病の記録とは別に保管されていました。水の記録としてしか読んでいません」
「だから、今まで黒水熱と結びつかなかった」
コーデリアが言った。
「ですが、今は違います。トマ様の高熱、水瓶の黒い粒、北坂区の井戸、そして黒い聖水。条件がそろいました」
清水院の神官は否定しなかった。
「……黒水熱の疑いがあります」
マーロの声が震えた。
「そんなものが、うちの水に……」
「この水は、ここで止めます」
コーデリアが言った。
清水院の神官は、そこで急に顔を上げた。
「待ってください」
その声で、店の中の視線が集まった。
「今日の献水の聖水は……各区へ分ける予定でしたか?」
コーデリアの返事は速かった。
「就任式のあと、代表者へ小瓶を渡す予定でした」
「もう、渡しましたか?」
「いいえ」
清水院の神官は、そこで初めて息を吐いた。
「なら、まだ止められます」
コーデリアはすぐに言った。
「黒水熱の疑いがあるなら、献水の聖水は一滴も外へ出せません」
清水院の神官が口を開く。
「まだ断定は……」
「断定を待って配るものではありません」
コーデリアの声が鋭くなった。
「黒い筋が出た聖水は、すでに北坂区の水と接触しています。小瓶に分ければ、各区へ疑いのある水を配ることになります」
清水院の神官は、言い返さなかった。
「止めます。今すぐに」
聖水。
小瓶。
各区。
ミナは、神殿で封じられた聖水の器を思い出した。
黒い筋が広がった器。
リィナを責める声。
不吉だと言った人たち。
あの聖水が、もし配られていたら。
王都のあちこちで、子どもが熱を出す。
老人が倒れる。
誰かの父親が、マーロと同じ声で助けを呼ぶ。
「配らないでください」
ミナは、思ったより強い声を出していた。
トマの熱。
リザの手。
水瓶の底に集まった黒い粒。
あれが、王都のあちこちへ渡るところだった。
「黒い筋が出た聖水を、どこにも出さないでください。お願いです……!」
「お願いではありません」
コーデリアが言った。
ミナの隣に立ち、店の入口へ向く。
「止めます。今すぐに!」
清水院の神官が答える。
「封じた器は、まだ神殿にあります。小瓶へは分けられていません」
「なら、止められます」
コーデリアは店の入口へ向かった。
「今ここで、止めます」
ミナはトマを見る。
トマは、父の手を弱く握っていた。
熱はまだ残っている。助かったと決まったわけではない。
それでも、さっきより息が楽そうだった。
その子を、これ以上増やしてはいけない。
ミナは立ち上がった。
「次に、バルドさんに会います」
リィナがすぐに反応した。
「バルドさんは、坂下の井戸の近くです。最初に、においが変だと言っていました」
清水院の神官が箱を閉じる。
「坂下の井戸を知る方なら、古い封じ井戸のことも知っているかもしれません」
コーデリアは店の入口で、扉の外に控えていた若い神官を呼び止めた。
「神殿へ戻ってください。大神官様へ、黒い聖水の小瓶配布を止めるよう伝えなさい。清水院には封じた器をそのまま保管するように。施薬院には北坂区へ人を出す準備を。伝令院には北坂区への水止めの知らせを準備させてください」
若い神官は目を見開いた。
「聖水の配布を、ですか!?」
「止めます」
コーデリアは言い切った。
「ミナ様のご判断です」
若い神官はミナを見た。
ミナはうなずいた。
「お願いします。今、止めてください」
その言葉で、若い神官は走り出した。
ミナはマーロに言った。
「神殿から水と施薬院の方を届けます。それまで、この水は使わないでください」
「分かりました」
マーロはうなずき、トマを見た。
「トマ」
トマは、少し遅れた。
けれど、今度は小さく返した。
「……うん」
ミナは、その返事を聞いてから店を出た。
坂の上の井戸の水は、透明に見えた。
けれど、リザの手には黒い点が残り、トマは高熱で寝台から起き上がれなかった。
水瓶の底には、黒い粒が沈んでいた。
神殿では、黒い筋が広がった聖水の器が封じられている。
本来なら、その聖水は小瓶に分けられ、王都の各区へ渡されるはずだった。
黒い聖水は、不吉のしるしではない。
広がる前に、見つけるためのしるしだった。
次に聞くべき相手は、坂下の井戸を知る老人だった。




