白い皿の底
清水院の確認室は、控え廊下の奥にあった。
広くはない。
中央の白い石台に、封じられた水差しが置かれている。
リィナが、北坂区から持ってきた水差しだった。
少し離れた台には、聖水の器がある。
献水の儀で、黒い筋が広がった器だ。
どちらも白布に包まれ、封蝋はまだ切られていない。
ミナは、二つを見比べた。
黒い筋が広がったのは、聖水の器。
けれど、リィナが持ってきた水は、水差しの中にまだ残っている。
清水院の神官たちは、その水差しを見るために呼ばれていた。
ミナは、確認台から少し離れて立っていた。
隣にはリィナがいる。
リィナは、水差しを見ていた。
その口を縛っていた布から、目を離せずにいる。
コーデリアは、ミナの斜め前に立った。
大神官は、確認台の横にいる。
清水院の神官が二人、白い手袋をつけて封を見ていた。
「器の封、切られておりません」
一人が言った。
「水差しの封も、切られておりません。口を縛った布も残っています」
リィナが、ほんの少し顔を上げた。
ミナは、その顔を見た。
リィナが言っていた布は、ちゃんと残っていた。
清水院の神官は、大神官を見た。
「封を切ります」
「お願いします」
神官は小さな刃を取り出した。
赤い封蝋を傷つけ、布をほどく。
その音は小さかった。
けれど、部屋の中にいる者は、誰も話さなかった。
水差しの口が開いた。
清水院の神官は、白い皿を確認台に置いた。
皿は浅く、底までよく見える。
「まず、少量を出します」
神官が水差しを傾けた。
細い水が、白い皿の上に落ちる。
水は、澄んで見えた。
「透明……」
ミナは、リィナを見た。
「リィナさんが言った通りです」
リィナは、ミナを見た。
返事の代わりに、もう一度白い皿を見る。
清水院の神官は、皿の水から目を離さなかった。
「まだ終わりではありません」
リィナは、また白い皿を見た。
「少し置きます。混じっているものがあれば、底に沈むことがあります」
大神官は、白い皿を見たまま言った。
「続けてください」
誰も、白い皿から目を離さなかった。
ミナにも、透明に見えた。
コーデリアは、清水院の神官に聞いた。
「同じ水を、もう一枚にも取れますか」
「取れます」
「お願いします」
神官は、もう一枚の白い皿を出した。
同じように、水差しから水を移す。
やはり、透明に見えた。
リィナは、その水を見つめていた。
「私……本当に、透明だと思ったんです」
「下の井戸は濁っていました。でも、坂の上の井戸は、いつも通りに見えました。だから、これなら大丈夫だって……」
「はい。今、見ても透明です」
リィナは、口を閉じた。
今度は、頭を下げなかった。
確認室の扉が、小さく叩かれた。
若い神官が一人、入ってくる。
清水院の神官に何かを渡し、すぐに下がろうとした。
大神官が目を向ける。
「何かありましたか」
若い神官は、足を止めた。
「北坂区からの願い書ですが、清水院に来たものの中には、まだ見当たりません」
リィナは、何か言いかけて口を閉じた。
大神官は、すぐには声を荒げなかった。
「分かりました。それはあとで見ます」
そして、白い皿へ目を戻した。
「今は水差しを」
「はい」
若い神官は頭を下げ、確認室を出ていった。
ミナは白い皿へ目を戻した。
皿の底に、小さな黒い点があった。
最初は、影かと思った。
けれど、違った。
白い皿の底に、ごく小さな黒い粒が一つ、沈んでいる。
「……あ」
ミナの声に、リィナが皿を見た。
清水院の神官が身をかがめる。
もう一人の神官も、皿の横へ来た。
「このままにしてください」
清水院の神官が言った。
「皿は動かさず、上から記録します」
一つだった黒い点の近くに、もう一つ、小さな粒が見えた。
水は、まだ透明に見える。
けれど、白い皿の底には、黒い粒が沈んでいた。
リィナは、白い皿から目を離せなかった。
「黒い……」
「水は澄んでいます」
清水院の神官が言った。
「ですが、底に黒い粒があります」
リィナは、水差しを見た。
「私が、くんだ水です」
「はい」
神官は答えた。
「坂の上の井戸からくんだ水ですね」
「……はい」
神官は、もう一枚の皿を見る。
そちらにも、時間を置くにつれて、黒い粒が沈み始めていた。
「こちらにも出ています」
確認室にいた者たちの視線が、二枚の皿に集まった。
大神官は、目を細めた。
怒っている顔ではなかった。
けれど、もう穏やかに見守るだけの顔でもなかった。
「リィナ様が透明だと言ったことは、間違いではありませんな」
大神官は言った。
「くんだ時に、この粒が見えなかったとしても不思議ではありません」
リィナは、大神官を見た。
「では、私は……」
「今、責める話ではありません」
大神官は、はっきりと言った。
「水差しに残っていた水から、黒い粒が出ました。神殿が見るべきものは、まだあります」
ミナは、皿の底を見た。
トマ。
リザ。
バルド。
リィナが言った名前が、また浮かぶ。
「この水を、使った人がいるんですよね」
ミナが言うと、リィナはうなずいた。
「坂の上の井戸は、下の井戸より近い家もあります。パン屋のマーロさんの家も……たぶん、そちらを使っています」
「トマさんの家ですね」
「はい」
「トマは、まだ小さいです。お腹が痛いって……」
ミナは、皿の底から目を上げた。
「会いに行きたいです」
コーデリアが、すぐに受けた。
「確認する場所は、坂の上の井戸です」
リィナが顔を上げる。
「下の井戸ではなく、ですか」
「下の井戸もあとで見ます」
コーデリアは答えた。
「今日の水は、坂の上の井戸からくまれています。先に見るのは坂の上です」
清水院の神官がうなずいた。
「坂の上の井戸でも、同じように見ます。水と、井戸の中を確認します」
大神官は、コーデリアを見た。
「コーデリア補佐官」
「はい」
「清水院から一人、同行させなさい。もう一人はここに残り、水差しと皿を記録してください」
「承知いたしました」
大神官は、ミナへ目を向けた。
「ミナ様」
「はい」
「まずは、坂の上の井戸ですな」
ミナはうなずいた。
リィナは、まだ皿を見ていた。
ミナは、リィナの隣に立った。
「リィナさん」
「……はい」
「案内してもらえますか」
リィナは、ミナを見た。
「私で、いいんですか」
「リィナさんが、井戸を知っています」
リィナは、白い皿を見た。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「案内します」
コーデリアが扉へ向かう。
「北坂区へ向かう準備をします」
清水院の神官が、黒い粒の沈んだ皿を布で囲った。
水差しは、まだ確認台の上にある。
ミナは、もう一度だけ白い皿を見た。
白い皿の底には、黒い粒が残っていた。
次に見るべき場所は、坂の上の井戸だった。




