封じられた水差し
コーデリアが扉を開けた。
控え廊下のざわめきが、すぐ近くに戻ってくる。
そこには、神官、地区代表、帰れずに残った参列者たちがいた。
「コーデリア様」
「聖女様のお言葉は」
「黒い聖水について、説明を」
「北坂区の代表は中にいるのでしょう」
コーデリアは、扉の前から動かなかった。
控えの間の中を、廊下から見せないように立っている。
ミナは、扉の内側にいた。
リィナは椅子に座ったまま、膝の上で両手を重ねている。
廊下から北坂区という言葉が聞こえた時、リィナが立ちかけた。
「私が……」
「大丈夫です」
ミナは、リィナを見た。
「リィナさんが謝りに行かなくていいんです」
リィナは、椅子の端をつかんだまま止まった。
廊下では、誰かが声を上げた。
「北坂区の代表を出してください」
「本人が説明すべきではありませんか」
「新聖女様の就任式で、黒い水が出たのですよ」
コーデリアは、その声が重なり終わるまで待った。
「リィナ様は、謝罪のためにお呼びした方ではありません」
控え廊下が、一瞬だけ静かになった。
「謝罪のためではない、と?」
「では、北坂区に責任はないとおっしゃるのですか」
「聖女様は、あの代表をかばわれるのですか」
「まだ、責任を決める段階ではありません」
コーデリアは言った。
「黒くなった理由は、まだ分かっておりません。分かっていないものを、北坂区の罪として扱うことはできません」
「ですが、北坂区の水が入ったあとでしょう」
「だからこそ、今ここで決めることはできません」
コーデリアは、控えの間の隅へ目を向けた。
「黒くなった器も、北坂区の水差しも、封をして残してあります。責める前に、そちらを確認するべきです」
その言葉に、神官たちの視線が動いた。
控えの間の隅には、白布に包まれた器と水差しが置かれている。
「聖女様は、リィナ様からお話を聞かれました」
コーデリアは続けた。
「北坂区の水についてです。濁っていた井戸とは別の井戸から、今日の水をくんだとうかがっています。ほかにも、井戸の水で困っている方がいらっしゃるとのことです」
ミナは、扉の内側で顔を上げた。
トマ。
リザ。
バルド。
リィナが言った名前が、ミナの中でもう一度並ぶ。
けれど、コーデリアはその名前を廊下へ出さなかった。
「井戸の水で困っている方?」
廊下の誰かが聞き返した。
「聖女様は、その方々のお話を聞かれます」
「聖女様が、直接お聞きになるのですか」
「水の異常なら、清水院では」
「それをなぜ、聖女様が」
その時、廊下の奥から、落ち着いた声がした。
「皆様、少しだけ道を空けてください」
大神官だった。
白い衣の裾を引き、控え廊下の奥から歩いてくる。
人々が左右へ下がった。
大神官は、扉の前のコーデリアを見た。
それから、控えの間の中にいるミナへ目を向ける。
「コーデリア補佐官。封じたものは、まだこちらにありますね」
「はい。封をしたまま、こちらにございます」
「その後、誰かが触れましたか」
「いいえ。封をして以降、触れさせておりません」
「よろしい」
大神官は、控えの間の隅へ目を向けた。
白布の包みが二つ、机の上に置かれている。
「黒い聖水を見れば、不吉だと騒ぐ者は出るでしょう」
大神官は、廊下の人々へ言った。
「ですが、不吉と呼んでも、水は戻りません。北坂区を責めても、黒くなった理由が分かるわけではありません」
廊下の声が止まった。
「新聖女様の晴れの場で、神殿の聖水が黒くなりました」
大神官の声は、変わらず穏やかだった。
けれど、その言葉に神官たちの顔色が変わった。
「ならば、まず神殿が確かめるべきことがありますな」
大神官は、コーデリアを見た。
「コーデリア補佐官。聖女様は、ほかに何をお聞きになりましたか」
「もう一点ございます。北坂区から、水を見てほしいという願い書が出ていたとのことです」
リィナが顔を上げた。
「願い書……」
「ですが、その願い書が清水院へ届いたかは、まだ確認できておりません」
大神官の目が、少しだけ細くなった。
「願い書が、清水院へ届いたか分からない」
「はい」
リィナは、また頭を下げようとした。
ミナは名前を呼ぶ。
「リィナさん」
リィナの動きが止まる。
「今は、謝らなくていいんです」
リィナは、両手を膝の上に置いたまま、小さくうなずいた。
大神官は、リィナを責めなかった。
白布に包まれた器と水差しをもう一度見る。
「それは、神殿の内で確かめることですな」
廊下の神官たちは、誰も口を挟まなかった。
ミナは、大神官を見た。
「水を調べに行きたいのではありません」
廊下の視線が、ミナへ向いた。
「北坂区の人たちの話を聞きたいんです」
大神官は、黙ってミナの続きを待った。
「リィナさん一人に謝らせて終わりにしたくありません」
大神官は、ゆっくりとうなずいた。
「ミナ様。北坂区を責めたいのではなく、困っている者に会いたい。そういうことですな」
「はい」
「では、聖女様の御心に従いましょう」
その声は大きくなかった。
けれど、控え廊下にいた者たちは口を閉じた。
「コーデリア補佐官」
「はい」
「清水院を呼んでください。器と水差しは、開けずに運ぶ準備を。リィナ様は、このまま控えの間に」
「承知いたしました」
大神官は、扉の方へ目を向けた。
「廊下には、私が話しましょう」
大神官が扉の外へ出ると、控え廊下のざわめきはすぐに小さくなった。
コーデリアは、その間に近くの神官へ声をかける。
「清水院から二名、来てもらってください。封じた器と水差しを、そのまま運べる方を」
「ただちに」
神官が廊下を走る。
コーデリアは、次にリィナを見た。
「リィナ様は、このままこちらにいてください」
「でも、私が外へ出て説明を」
「今は必要ありません」
コーデリアは、扉の方へ目を向けた。
「大神官様が話されています。リィナ様が一人で責められる場ではありません」
リィナは、膝の上に置いた手を見た。
それから、小さくうなずいた。
清水院は、王都神殿の四院のひとつだった。
井戸や水場、聖水の扱いを受け持ち、異常があれば確かめる。
しばらくして、清水院の神官が二人、控え廊下へ来た。
一人は白い小箱を抱えている。
もう一人は、封蝋と薄い布を持っていた。
大神官も控えの間へ戻ってきた。
廊下の声は、さきほどより低くなっている。
二人は大神官の前で頭を下げる。
「お呼びでしょうか」
「封をした器と水差しを確認してください。封は切らず、まず外から見てください」
「かしこまりました」
清水院の神官たちは、控えの間へ入った。
コーデリアが扉を少し広げる。
廊下から中が見えすぎないように、半身で視線を遮っていた。
ミナは、リィナの隣へ戻った。
清水院の神官が、まず黒く濁った聖水の器の前に立つ。
白布の上から、封の位置を確認した。
「封は切られておりません」
次に、水差しを見る。
ミナは、その様子を見てからリィナに声をかけた。
「リィナさん」
「……はい」
「この水差しには、どこの水を入れましたか」
リィナは、水差しを見たまま答えた。
「坂の上の井戸です。下の井戸は濁っていたので、今日は使いませんでした」
「くんだ時の水は、どう見えましたか」
「透明でした」
リィナは、そこで一度言葉を切った。
「くむ前に、桶も洗いました。水差しも、昨日の夜から乾かしておきました。誰にも触らせないように、口も布で縛って……」
ミナは、水差しではなくリィナを見た。
答えを急がせたくなかった。
「話してくれて、ありがとうございます」
リィナが顔を上げた。
「え……」
「今の話を、清水院の方にも聞いてもらえました」
リィナは、もう一度水差しを見た。
今度は、頭を下げなかった。
清水院の神官は、水差しの封を見てから、大神官へ向き直った。
「大神官様」
「はい」
「先に、この水差しを確認します」
控えの間が静かになった。
神官は、白布に包まれた水差しを見た。
「献水に使われた水が残っているなら、井戸へ向かう前に見るべきです」
ミナも、水差しを見る。
黒い聖水になったのは、聖水の器だった。
けれど、リィナが入れた水そのものは、水差しの中にまだ残っている。
清水院の神官は続けた。
「リィナ様が献水に使われたのは、坂の上の井戸の水とのことです。ならば、まずこの水です」
廊下にいた人々のざわめきが変わった。
「水差しに、まだ残っているのか」
「清水院が見るほどなのか」
「では、まだ何も決まっていないのか」
コーデリアは、すぐに扉の方へ向いた。
「封は、清水院の確認台で切ります」
コーデリアが言った。
「ここでは開けません。水差しは、このまま移します」
大神官はうなずいた。
「それでよろしいでしょう」
「かしこまりました」
清水院の神官が、水差しの白布を両手で持ち上げた。
封蝋は、そのまま残っている。
ミナは、水差しを見た。
リィナが、坂の上の井戸からくんだと言った水。
透明だったと言った水。
黒い聖水に入った水。
それは、まだ神殿の中に残っていた。
清水院の神官が、封じられた水差しを運び出す。
リィナが話した水は、まだ残っていた。
黒い聖水に入った水は、神殿の中にあった。




