第1話 地下水道の少女
王国領土に張り巡らされた地下水道。昼夜を問わず光の差さないこの場所は、常に湿って冷たく、肺を侵す瘴気すら流れ込んでくる。
また酷く咳き込んだ小さな背中を、少女の手が撫でる。骨と皮ばかりの衰弱し切った身体。他の孤児たちと同様に、命の灯火が消えるのもそう遠くはない。
「アリーシャ、ねえちゃ……あり、がとう……ゲホッ……!」
「喋らなくていいわ。また空気が澱んできている」
「でも……姉ちゃんに、くっ付いてると……少しだけ、息が、楽になる気がする……」
「そう。ならもう少しこっちに寄るといいわ」
そう言って、アリーシャと呼ばれた少女が幼子の身体を抱き寄せた。
ここに住む孤児たちの間に、血の繋がりなどは存在しない。しかし、必死に身を寄せ合って生きているうちに、家族の絆とでも呼べるものが確かに生まれていた。
アリーシャの腕の中で、子供の呼吸が次第に弱々しくなっていく。病に侵された身体を、医者に見せるような金はない。たとえ幾らかをかき集めたところで、地上に住む医者の中に、地下水道暮らしで汚れ切った子供を診てくれるような者はいるはずもなかった。
「ご、めんね……ねえ、ちゃ……おれ、が……死んだら……ねえちゃ、ん……ひとり、に……」
深い咳の合間で少年が最後にそれだけを絞り出す。アリーシャは彼を抱き締める腕の力を増すと、泥のついた額に口付けを落とした。
「私は大丈夫よ。……優しい子ね、ありがとう。愛しているわ」
夜通し苦しんでいた子供は、朝になる前に事切れた。アリーシャは、冷たくなり始めた軽い身体を抱き上げると、ひたひたと水道の方へと歩く。
早朝のこの時間は、水の流れは比較的穏やかだ。決して美しいとは言えない流水に、亡骸をそっと横たえる。
この水道の先は、海へと繋がっているという。痩せこけた身体であれば、きっと出口まで辿り着くことだろう。
子供が流されていき、一人きりになった地下水道で、アリーシャは静かに目を閉じる。身体の前で両手を合わせて、あの子供が他の兄弟たちと同じく、明るい日の下へ出られることを祈った。
◇
流れる水の音に、アリーシャはハッと意識を今に戻す。狭い浴室はいつもの通り、湿った嫌な空気が篭っている。
頭上から降り注ぐ冷たい流水で、自らの身を清める。指先が真新しい傷跡をなぞると、微かな痛みに顔を顰めた。
汚れで曇り切った鏡に、白銀の髪と、そこから生える二本の黒い角が映っている。質の悪い石鹸のついた指で片方の角に触れた。ゴツゴツとした手触りの中に、少し欠けているのが感じられる。
はあ、とアリーシャがため息を吐く。今日の客は随分と乱暴だと思ったが、机に叩きつけられた時に聞こえた何かが割れるような音は、やはり幻聴ではなかったらしい。
水を止めて、浴室を出る。どうせ入念に清めたところで、またすぐに汚れるのだ。そもそもこの館を訪れるような客は、まともな女など求めてはいない。つまり、適当に洗っておけば十分だと、アリーシャは硬い布で濡れた身体を拭いた。
ふと、女の悲鳴のような声が耳に届く。鼻をつく血の匂いが一層強くなったので、きっと階上の姉さんが手酷くやられているのだろう。人間より発達した五感は、不快なものまでよく拾う。
アリーシャはもう一つため息を吐いて、狭い部屋の壁を睨むように見た。この館には窓がない。空でも見えれば少しはマシなのにと、埃っぽい床に布を放り投げた時、部屋の外から次の客の来館が告げられた。
(外に出るのは、随分と久しぶりだわ)
裸足で土を踏みながら、アリーシャはぼんやりとそんなことを思った。
時刻は夕暮れ時。傾いた太陽はそれでも、暗闇で育ち続けた青白い肌を焼くようだった。
空を見上げようと上を向きかけて、グッと首の詰まる感覚に咳き込む。首輪に繋がる鎖を持った男は、余計なことをするなと舌打ち混じりに告げた。
この客が来館するのは、一月に一度か二度。物好きばかりが集まるあの館の中でも、そこそこの得意客だ。そのこともあってか、男が提示した裏森への外出は、袋に詰められた金と引き換えに二つ返事で聞き入れられた。
アリーシャは、男に言われるがままに無言で足を進める。屋敷から遠ざかるほどに、木々は鬱蒼と生い茂り、足に絡みつく雑草が鬱陶しい。
ぐい、と首輪を引かれて立ち止まる。振り返ると、男は何やら下卑た笑みを浮かべていた。
「なあ、アリーシャ。お前の相手をしてやってから、随分と長いよな。初めは、魔族との混血なんてどんなもんかと思ったが、なんてことはねぇ。ちょっと醜い角が生えただけの、ただの女だ。だがお前は頭が良い。どこまでやられりゃ死んじまうか、はっきり分かった上で、客に好きにやらせてる気にさせてるんだ。あの館で十年も生き残ってんのは、お前ぐらいなもんだぜ」
したたかな女は嫌いじゃない、と男が笑う。
アリーシャは無言で頭を下げて、次の言葉を待った。男が饒舌な時に口を挟むと、大体の場合は意味もなく殴られる。長年の経験から培ったその行動に、そういうところだ、とまた男が笑い声を上げた。
やがて、ひとしきり笑い終わった男が、ふうと息を吐く。ごそりと鞄を漁る音がしてから、首の鎖が軽く引かれた。
顔を上げたアリーシャの目の前に、尖った矢尻が突きつけられる。矢をこちらに向けている男は、反対の手に握っていた鎖を無造作に地面に放り、空いた手に弓を取った。
「……何のおつもりですか」
「馬鹿な女のふりはやめろ、アリーシャ。聞いたぜ、ここへ来る前は泥水啜って生きてきたんだろ? その野生根性を見せてみろよ」
言い終わるより早く、矢がつがえられる。弦が完全に引き絞られる前に、アリーシャはその場を飛び退いた。首輪から繋がる鎖を素早く引き寄せると、周囲の木々に引っ掛からぬよう片腕に抱いて、そのまま森へと姿をくらませる。
薄暗くなり始めた森に、男の笑い声が響いた。
「いいぜ、アリーシャ。やっぱりお前は最高だ。そうやって最期まで楽しませてくれよ」
男の大声に、アリーシャはうんざりと顔を顰める。碌な外出ではないだろうと思ったが、その中でも最悪の部類だった。
人生の暇を持て余した男に、狩りの相手にされることは初めてではない。前回は無傷で館に帰ったが、客を落胆させるなと酷い折檻を受けた。
「行くも地獄、帰るも地獄。相変わらずこの世はどうしようもない」
声を潜めて毒づくと、居場所を知らせるために鎖の端で木の幹を叩いてやった。枝を折る音がこちらに近づいてくる。
すぐそばを矢が一本かすめ去ってから、アリーシャはわざとらしい悲鳴をあげて森の奥へと逃げ込んだ。
アリーシャの足が湿った小枝を踏む。周囲の木々や草に血の痕をのこしながら、森の中を駆けた。
そろそろ息が苦しい。日はすっかり沈んで、頭上には月が昇り始めている。新月であれば、暗くて何もわからないふりをして館に戻ってやる手もあったが、この月明かりの中では下策だろう。
いい加減飽きてくれればいいものを、あの男の興が乗ると長いということは、身をもってよく知っていた。
「っ、はあっ……ぐっ……」
片足を引き摺って走るアリーシャの肩を矢が貫いた。逃げるために不便な矢を折り、地面に叩きつけるように捨てる。手のひらがぬるりと濡れて、痛みに生理的な涙が浮かんだ。
男を満足させるために、たまに手足を掠めさせてやっていたが、そろそろ躱すことも難しくなってきた。これ以上の遊戯は、本当に命に関わる。ぐっと奥歯を噛み締めて、アリーシャは目一杯駆けて男から距離を取った。
「はあっ……はっ……」
夜の静寂の中で、濡れた地面を蹴る足音と、荒くなった自分の呼吸の音、それから鎖同士が擦れる音だけが聞こえる。肩から流れ出す血の匂いと、何度も頬に当たる葉っぱの感触。以前にも同じようなことがあったような気がした。
真っ暗な森を逃げた記憶。追ってくる男。冷たい瞳。あれは今宵と同じ客だっただろうか、それとも館に売り飛ばされるより前の記憶だろうか。
アリーシャがハッと意識を引き戻す。痛みと疲労に、走りながら意識が遠ざかりかけていた。軽く首を振ってから方角を確認し、館に背を向けて走った。
「いった……本当に、悪趣味で嫌な男……」
十分に離れたところで、少し休憩だと木にもたれかかる。酷く痛む肩を押さえてそう悪態をついた。
ふと、水の跳ねる音が耳に届く。目を凝らすと、遠く木々の隙間に煌めく水面が見えた。
どうやら王都近くの泉の方まで駆けてきてしまったらしい。長く逃げ過ぎた。あの男の足では、血の痕があるとはいえ、ここまで追ってくることは難しいだろう。
これは折檻だなとため息を漏らす。どうせ危害を加えられるのであれば同じことだと、アリーシャは蹌踉めきながら泉へと向かった。
水辺に近づくにつれて、空気が澄んでくるような気配がある。この辺りには瘴気が少ないらしい。深く息を吸うと、矢がどこかを傷付けていたのか、胸に鋭い痛みが走った。
「う……ぐ……ゲホッ……!」
胸と口を押さえてアリーシャが咳き込む。片腕に抱いていた鎖が地面に落ちて脚を打った。鈍い痛みを感じながら、何とか泉の方へと歩を進める。
今夜は本当に失敗した。折檻の前に灯火が燃え尽きそうだ。しかし、どうせ死ぬのであれば、あの子たちと同じ水場がいいと思った。
(なんて……そもそも泉は、海には繋がっていない……)
頭に浮かんだ馬鹿な考えに、思わず笑いが漏れた。笑うと余計に胸と喉が痛む。
酷く疲れた。水面までもう少しだったが、これ以上は進めそうにない。地面に膝をつくと、視線の先に足先が現れた。
「お前は、何者だ」
聞き覚えのない声だった。伏せていた顔を何とか持ち上げると、月を背負って青年が立っている。
齢は十八か二十か、自分と同じぐらいに見えた。艶やかな黒い短髪、通った鼻筋、少し神経質そうな表情。長めの前髪の間から覗く赤い瞳は、こちらを値踏みしているのか、とにかく威圧的で冷たい。館に訪れる貴族のものより一層質の良さそうな衣服と、腰に携えた立派な剣からして、王城に勤める者だろうか。
どうやらこちらに警戒して剣を抜こうとしていた男は、首輪と鎖に気がつくと顔色を変えて駆け寄って来た。
「……お前、その首輪に刻まれた紋……この先の娼館の者か? その傷はどうした? 追われているのか?」
男が矢継ぎ早に問う。何やら強い怒りを滲ませたような声だった。
話せる状況でないことは見れば分かるだろうと、そう思ったが黙っておく。男が饒舌な時に口を挟むと碌なことはない。
口を噤んでいるうちにやがて視界が霞み始め、そうしてアリーシャは意識を失った。




