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幾千の夜と暁を越えて  作者: 白明


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第七章 死兆星 弐 忘我にして励む

「君たちとの同棲は、本当に清さんの心を癒してくれるものだったようだ。一時期は、亡霊のように過ごしていた清さんが、仕事でも少し笑うようになっていたからね。でも、本当の意味では笑ってはいなかった……」

 カヲルさんは、また煙草に火をつけた。

 ジジジ……と煙草の先端が音を立て、光を発すると同時に焦げる香りが鼻に届く。

 私はグラスに口をつけ、軽く煽ろうとするも唇に氷が触れるだけだ。


「君も知っているだろう。清さんはその頃からさまざまなことに挑戦していてな。

 『恥ずかしいから、君も一緒にきたまえ』

 なんていわれて色々なカルチャースクールや講座を受けたんだ。もともと決めたら行動が早い人だから、毎週私も引っ張り回されたよ」

 そういえば毎週日曜日の午後になるとじいちゃんは出かけていたっけ。

 午前中は、私と一緒に近くの市民農園で土いじり。

 昼食のお好み焼きをたらふく食べた後、私はお昼寝。

 じいちゃんは出かけてたっけな。

 じいちゃんが夕方に帰ってくるとお煎餅を食べながら、じいちゃんと一緒に「笑点」を見るのが習慣だった。


 煙草を指に挟み、グラスを口元に運ぶカヲルさんの姿は、艶っぽい。


「料理、社交ダンス、尺八、書道、ヨガ、落語、そして宅地建物取引責任者。なんともまあ、よくもあそこまで一貫性もなく手を広げられたものだよ。それだけ何か没頭できるものを強く求めていたって事なんだろうがね……。

 その姿がかえって私とレイにとっては、痛々しくてね。清さんに『何を生き急いでいるんだ』って諭したんだが、聞く耳も持ってもらえなかった……」

 そう話すと、長く、細く紫煙を吐き出す。

 まるで、思い出を吐き出すかのように。


「私も祖父と一緒によく落語を聞きに行っていました。新宿の……、えっと、なんだっけか?」

 急いで記憶を手繰り寄せる。こんな小さなことなのに思い出せないことが腹立たしい。


「末廣亭。あそこはね、清さんと照さんのデートコースだったんだよ。私たち夫婦もよく一緒に連れていかれてね。今では、ダブルデートっていうんだろ? でもね。あの二人は決して手なんかつながないだよ。

『男性が外で女性と手を繋ぐなんて、恥を知りなさい』

 って、私とレイはよく怒られたもんだよ。照さんは、いつも清さんの左後ろ一歩下がったところについてきていてね。本当に嬉しそうに笑顔を絶やさなかったんだ。あの二人にしかわからない世界なんだと、私たちはよく話していたもんだよ」

 当時のじいちゃんとばあちゃんのその姿が目に浮かぶ。

 温かく、そしてお互いに通じ合う想い。絆とでもいうのであろうか。


 いや。

 ことばで表現すること自体がおこがましい程に二人の関係は深く、強い。

 そんな自分の身体の一部でもある伴侶を失うということが、どれだけ心を失うものなのだろうか。

 今の私では、想像することすらできない。


「すまんね。ちょっと話が逸れてしまった。清さんがさまざまなことに挑戦をしていた話だったね。なかでも性格的にヨガと書道は合っていたみたいで随分、チカラを入れていたよ。さすがの私もついていけなくなってね。

 『それだから、お前はだらしないのだ』なんて憎まれ口を叩かれたたもんだよ。私も『いつか飽きるだろう』と思っていたんだが、これが相当にのめり込んだみたいだ。

 書道では、名のある展示会でも展示されたくらいだよ。『ニホン展』って知っているかい? あのときは、私も無理矢理に会場へ連れていかれてね。清さんの書の前で散々に写真を撮らされたよ。相当に嬉しかったんだろうねぇ。

 あの晩はうちでお祝いをしたんだが、最後にゃ『照にも見せてやりたかった……』なんて、泣いていたよ。清さんが涙を流している姿なんて、後にも前にもそれが最後だったな……」

 私は老人がラベルに描かれるウイスキーをカヲルさんのグラスに注ぎ、氷を入れる。

 氷がビッキっとその身体を縮こませる。

 じいちゃんの書道の腕がすごいことは、薄々と気付いてはいた。

 だが、あの「ニホン展」に出展するほどのものとは……。

 というか、迷走していたとはいえ、何をやっているだ。じいちゃん。



 思い返してみれば、ヨガにも相当の熱を入れていた。

 朝からばあちゃんの位牌に向かって読経を行い、その後、ヨガを行っているすがたを何年も見てきた。

 子どもながらにその呼吸法はとても奇異なもので、ふざけて真似をしては良く叱られた。

 じいちゃんのヨガ熱はその後も加速し、当時13歳の私を連れインド、ネパールに一週間の修行に行くほどだった。


 1990年代のインド、ネパールは今ほど都市計画がしっかりとなされておらず、私からすればスラムのように感じた。

 不衛生で、皆が裸足で街中を歩き回る。

 さらに周囲からは常に獣のような匂いが立ち込める。

 そんな街に私は、底知れない恐怖を感じた。


 同じくらいの年齢、又は幼い子どもたちが私たちを見るや駆け寄り、「バクシーシ、バクシーシ」と、服や荷物を引っ張ってくる。

 気を抜けば、何もかもを奪われてしまいそうで、必死にじいちゃんの後を追っかけた思い出がある。


 その時もじいちゃんは、

「白、しゃんとしなさい。そしてきちんと見ておきなさい。これが『生きる』ということだ」

 と、静かに諭した。


 じいちゃんがヨガに、そして書道にのめり込んでいったのは、その道に「生きる」ことの真髄を探していたのかもしれない。


(つづく)

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