第五章 廉貞星 弐 絶対帝王学(守)
じいちゃんの「教え」の中で、最も強く、そして心の一番深いところに残っているもの。
それが、「しゃんとする」「近すぎる」「声が小さい」だ。
じいちゃんからの「教え」を体系づけるとすると、今となって、それは「守破離」に帰結するように感じる。
守:「教え」を完全に守り、すべからく体現すること。それはすべてての教えの根源となるもの。
破:守の教えをベースとし、他の在りよう、そして他者の視界、景色を吸収していくこと。
離:これまでの教えと学びを土台とし、己で新しく作り上げていくこと。
これをじいちゃんは、ゆっくりと、わかりやすく、私の血肉に染み入るくらいまで教えてくれた。
それは、生きていくためのある意味、道標だったのかもしれない。
まずは『守』として伝えられた「教え」を考えていきたい。
『しゃんとする』
精神的な意味も含んでいたのであろうが、そうではない。背すじの話だ。気付けば、これを常に言われ続けた。
『近すぎる』
何が「近すぎる」のか。目との物理的な距離だ。本を読んでいても、勉強をしていても祖父から飛んでくる言葉だった。
『声が小さい』
会話をしている時の声ではない。挨拶だ。「おはようございます」「いただきます」「行ってきます」「ただいま」。すべての挨拶で声が小さいと、この声が飛んできた。
この三つの「教え」はじいちゃんの教えの根底になっていたものだ。
私だけではなく、妹弟、私の子どもたちに対してもこの「教え」は、徹底的にたたき込まれた。
外見的だけでなく、内面的な姿勢を幼き頃から徹底的に矯正をされた。
背筋を伸ばすや目線を広くとることは、外見的な姿勢の正しさにつながり、そして姿勢の正しさは、自ずと他者からは自信ありげに、そして堂々と、凛と映る。
姿勢を正しくすることで、自らの心も自然と伸び、正しくあろうとする作用が起こるのだ。
そして、声をしっかりと発すること。姿勢が正しく、話す声が大きいこと。
これによっても、他者からはより自信に溢れ、凛とした姿に映るのだ。
もちろん映るだけではない。
自分の声を最も近くで聴いているのは自分なのだ。
自分の声の大きさは、自らの気持ちの大きさと自己肯定感を上げることになる。
当時はその都度、これらの言葉で指摘をされていたので「うっさいなぁ」と心の中で思っていた。
しかし、今となっては自分の軸の中心に据えている「教え」だ。
まさに『守』となるものだ。
そういうじいちゃんは背すじを伸ばして「しゃん」としていたのか。
まったくその通りなのだ。
年齢、九十歳。私より背すじが伸び、目が近く無かった。
食事の時も、パソコンでの入力作業の際もだ。
全く隙が無かったのを覚えている。だから、叱られた方は完全に従うしかない。
その年齢で、「しゃんと」しているのだから。
歩いている時も「かくしゃく」と本当に鳴るように歩いていた姿がいまも目に浮かぶ。
(つづく)




