Vol.01 Ch.004① 初めてのパンドラ祭実行委員会
12
「羽冬くん。」
紫木と教室を出ようとしたところ、扉の前ですれ違った女子が、急に振僕を呼び止めた。たしかクラス委員長だが、名前が思い出せない。
「どうしたの?」
「羽冬くんって、絵が上手いって聞いたんだけど、本当かな?」
……ん?
「パンドラ祭で使うポスターとか、価格表みたいなのを描いてもらえないかな?」
「へえ、絵まで描けるんだ。さすがオタク。」
人の褒め方が本当に上手で、まったく嬉しくならないな、紫木さんは。
「いいよ。役に立てるなら。」
「よかった!でも、羽冬くんって、実行委員だよね?」
「一年はそこまで忙しくないらしいから、たぶん大丈夫。」
「じゃあ明日、詳しく相談するね!ありがとう、羽冬くん!」
「わかった。また明日。」
「またね、瀬戸さん!」
「また明日、紫木さん! 二人ともお疲れさま!」
ああ、瀬戸か。あとでまた忘れそうだな。
「絵が上手い」なんてクラスで話した覚えがない。いや、そもそも野球部と紫木以外、まともに会話すらしていないはずだ。
「意外だね。羽冬が断ると思ってた。」
「僕もこのクラスの一員だろう。」
「うわ、中二っぽいセリフ。」
自分でもなぜ引き受けたのか分からない。ただ、瀬戸との会話に残った違和感だけが頭に残っていた。
良見楼を出て、会議室のある管理棟――「荘厳楼」へ向かう。五階の会議室へ上がる足音が、変に真面目な空気を作る。
……が、その空気もすぐに誰かにぶち壊された。
「なんか緊張する。私、こういう行事って初めてなんだ。」
「大半そうだろ。」
荘厳楼の北側階段を上がると、会議室は廊下の左手にあった。黒板を正面に、長机は後方に開いたE字状に配置され、右から一年、二年、三年の委員席が並んでいた。その正面に幹部席がある。委員席の前と幹部席の左には、それぞれ「教師席」と書かれた三角札まで置かれていた。東側の窓からは、まだ校内を歩く生徒や先生の姿が見える。西側の窓は、さらに廊下を挟んでから日差しが入る造りになっているせいで、日が沈むまで室内に差し込む光はあまり多くなさそうだった。少なくとも一年の席には、今のところ陽は差していない。
もしこの会議室が午後の会議のために設計されたものなら、設計者に満点をやりたい。あの妙すぎる野球場とは大違いだ。
全員がそろうと、正面中央に座る実行委員長が会議を始めた。
「みなさん、こんにちは。まず一年生のみなさんに自己紹介をします。私は生徒会長、二年H組の伊藤優斗です。今回のパンドラ祭実行委員会では委員長を務めます。隣にいるのは副委員長で、前生徒会長、三年B組の柳田俊介先輩です。本日の会議は私が進行しますので、ご協力よろしくお願いします。」
……なかなか面白い組み合わせだ。パンドラ祭って、春休み前から準備していたはずだろ。なのに当時まだ一年だった伊藤が委員長で、三年の先輩が副委員長なのか。
「私たちが入学する前は、副委員長が会議を回してたらしいよ。今日から正式に委員長へ引き継ぐんだって。」
近くに座っていた一年生の小声が、疑問に答えてくれた。そう聞くと、これはたぶん生徒会の引き継ぎの一環なんだろう。委員会の発足当初は、これから会長に就任する新会長を委員長に据えつつ、前期は前会長が主導役を務めて見学させる。 そして後期――つまり今になって、ようやく主導権を新会長へ移し、前会長は補佐役に戻る、ということなのだろう。
肩書きがややこしい。ここでは素直に“委員長”と“副委員長”でいこう。
年齢だけ見れば委員長はまだ若い。三年生までまとめるのは簡単じゃないはずだ。でも会議は驚くほど手際よく進み、各部署の進捗報告も表面上は問題なさそうだった。
どうやら僕たち一年は、本当にただの追加人員らしい。
「次はデザイン。」
「はい。」
「メインビジュアルの進捗はどうですか?」
その質問で、さっきまでの流れが急に止まった。
「ラフは、もうすぐ完成します。」
リーダーの話を聞いて、委員長がわずかに眉をひそめる。
「まだラフ段階ですか?今日は線画提出予定でしたよね?」
「はい……」
「人手不足ですか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
芸術って本当に厄介だ。一人だと何も浮かばないこともあるし、逆に人数が多すぎても意見がまとまらない。今みたいに四、五人の班でも、リーダーが決断力に欠けると、簡単にこうなる。しかもラフは、ゼロから生み出す一番きつい段階だ。
「メインビジュアル以外は予定通りですし、確認も基本は形式的なものです。ですが、この進度だと心配です。」
「はい……」
委員長はリーダーが理由を出せないのを見て続けた。
「このままでは厳しいですね。人員を追加しましょう。一年で、絵やデザインが得意な人、いませんか?」
人を増やせば解決するとは限らない。だが、今の膠着を破るには、外から一人入れるしかないのかもしれない。
「ねえ、手挙げたら? 絵上手いんでしょ?」
紫木が楽しそうに囁く。
「やだよ。」
紫木に言われても、目立つ気はない。僕はただ小山に流されてここにいるだけだ。
けれど、紫木の一言で、さっきの違和感がまた浮かんだ。そして次の瞬間、ある人の行動がその正体をはっきりさせた。
「あの、こちらから一人推薦があります。」
そう言って手を挙げたのは、一年委員席の前、教師席に座っていた友子先生だった。会議室が一気に静まる。
「1年D組に、協力できる生徒がいます。」
その一言で、部屋中の視線が僕と紫木に集中した。
「え?私たち?」
不安と戸惑いに包まれ、加速し続ける鼓動が少しずつ僕の感覚を奪っていく。見えるものも、聞こえるものも、感じられるものも、ただ周囲にまとわりついて離れない闇だけで、紫木の困惑にもまったく構っていられなかった。そんな中、友子先生の次の一言が、ようやく僕を現実へと引き戻した。
「そうでしょう?『羽冬先生』。」
…なるほど。茂木友子、お前だったのか。
あの笑顔の中に、善意なんて一つも感じられない。
「先生って……?」
紫木だけじゃない。会議室中の人が、その意味不明な呼び方にざわつき始める。聞き間違いかと、隣同士で確認し合う声が広がった。
「みなさん、静かに。」
ざわめきを止めたのは、余計なことには興味がなさそうな、ただ会議を進めたいだけの委員長だった。
「羽冬くんですよね。中核作業を一年に任せるつもりは本来ありませんでしたが、状況がよくありません。協力してもらえますか?」
ここで露骨に断るほど空気が読めない人なら、この十五年は何だったんだって話になる。
「はい。よろしくお願いします。」
立ち上がって無難にそう答え、席に戻った。
「ありがとう、羽冬くん。では次に――」
その後の会議は、ほとんど耳に入らなかった。紫木が時々何か話しかけてきても、ろくに返事をする気になれない。会議が終わるなり僕は外へ出て、友子先生を呼び止める。
「あら羽冬。どうしたの?」
「何かを知ってる?」
僕の語気に驚いたのか、友子先生は少し間を置いた。
「生徒が親しくしてくれるのは嬉しいけど、こんなに早く敬語がなくなるのは、あまりよくないでしょう?」
まだはぐらかすつもりか。
そうだ。瀬戸が知っていた噂も、昨日の妙な気遣いも、今日のあの言動も、全部あいつらの仕業に決まっている。
「あいつらから聞いたのか?」
「誰のこと? 何の話?」
「羽冬夫婦。」
友子先生は驚き、それから厳しい声になった。
「羽冬。自分のご両親をそんなふうに呼ぶものじゃないでしょう。そう、ご両親からは入学前に連絡をいただいていたの。びっくりしたわ。まさか君が――」
「もういい!」
先生が続けようとしたが、もう無理だった。あいつらの話なんて一欠片だって聞きたくない。
「羽冬……」
何かを察したのか、友子先生の声が少し沈む。
正直、自分でも驚いた。「あいつら」とあんなによそよそしい呼び方をするとは、自分でも思っていなかった。先生に名前を呼ばれて、少しだけ頭は冷えた。けど――
「『茂木先生』に任された仕事は、ちゃんとやります。」
「でも、もう僕のことは放っておいてください。」
そう言い残して、後ろの扉から会議室へ戻った。去り際の友子先生がどんな顔をしていたかは見ていない。わざと呼び方を変えた意味くらいは察してくれればいい。
「羽冬……」
ああ、この人がいたんだった。
「大丈夫?」
紫木は、まるで危険生物にでも声をかけるみたいに、ひどく慎重だった。
「何でもないよ。」
「さっき、結構大きい声だったよ。」
「そっか?」
「友子先生、少しつらそうに見えた。」
「見てたのか?」
「うん。後ろの扉から。私の前を通った時、ちゃんと呼んだのに、全然気づかないで無視して行っちゃったし。」
少しふてくされたような紫木の顔に、思わず小さく笑ってしまった。
「何よ。」
「いや、別に。」
気づけば、僕と紫木はしばらく見つめ合っていた。紫木にじっと見つめられると、なぜかこちらは目をそらせなくなる。
「羽冬くん、ちょっと来てもらっていい?」
「はい。」
デザインの先輩たちに呼ばれた時点で、羽冬夜良の残業は確定した。
「紫木。」
「何?」紫木が僕の目を直視する。
「ありがとう。」
「あ?わ、私、何かした?」
「別に。何となく。じゃ、お互い頑張ろう。また明日。」
「……う、うん。また明日。」
そう言って、紫木は荷物をまとめ始めた。
本当に、彼女は何もしていない。ただ、なぜだか礼を言いたくなっただけだ。でもその一言で露骨に戸惑う様子は、笑えるというより――
ちょっと、可愛かった。
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