Vol.01 Ch.003③ 望月奏音は、何かを経験してきたような傍観者だ。
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4月8日金曜朝。パンドラ高校1年D組。
太陽の熱は、核融合反応によって生まれる。
地球の熱は、太陽の熱放射に由来する。
教室の熱は、日射に加えて、地面から一年棟「良見楼」への伝導や空気の対流が混ざってできている。
では、今僕の頬にはっきり残っている、この手形つきの熱は何か。
――午前7時10分ごろ――
教室には僕と高木、それに数人しかいなかった。早く来るのはたいてい真面目な生徒で、すぐ勉強を始める。そんな中、僕と高木は少し異質だった。
高木は毎朝七時ごろに朝飯を持ってきて、食べながらスマホゲームをする。家が遠く、通学に一時間かかるから早く来ているらしい。ついでに、朝から頭もすっきりするんだとか。でなきゃ、スマホゲームのためだけにそんな早く来る意味が分からなかった。
僕?ただの意味もない習慣だ。小学校の頃から、夢ちゃんと早く登校して朝飯を食べながら話していたせいで、六時半登校が日常になっていた。
7時15分。今週ずっと、昨日だけは無事だった紫木が、今日は左右非対称の制服姿で華々しく登場した。
ん……ボタン全部掛け違えて、最後に一つ余っても気づかないの、逆にすごい。
紫木が席に着いたところで、僕はいつものように振り向いて声をかけた。
「紫木、服。」
「あ、おはよう、羽冬。」
どう聞き間違えたらそうなるんだよ。思い返してもやっぱりツッコまずにはいられない。
「おはよう。って、君、服のボタン。」
「ボタン?」
ここでようやく、紫木は自分の服を見下ろした。
「うわ、なんでまたこんなことに……」
文句を言いながら、その場でボタンを外して留め直し始める。やけに手慣れていて早い。まるでこういうことにすっかり慣れているみたいだ。だが――
僕、目の前にいるんだけど!?やめろって!
「お、おい、そこで……」
言い切る前に、僕は固まった。完全にはだけたわけじゃないけど、目をそらす前に見えてはいけないものが見えた。髪より少し薄い、淡い緑色。
ここで一つ言い訳をさせてほしい。
まず、なんで今でも覚えてるのかとかは聞かないでほしい。そこは重要じゃない。僕は欲望旺盛な十五歳男子だ。欲望旺盛な十五歳男子として、階段の上から女子が下りてくるみたいに予測できる状況なら、理性で逃げられる。でも、今みたいな完全な不意打ちで即座に目をそらし、記憶まで消すなんて、そんな宇宙の理に反することは無理だ。
……自分でもひどい言い訳だとは思う。
とにかく、紫木が気づいた次の瞬間、左頬に紫木の右手が綺麗に入った。
――――
ここまで人に呆れたのは初めてかもしれない。
怒ってないわけじゃない……まあいい、かなり腹は立っている。
せめて女子トイレで直せよ。異性が目の前にいて、周りにも人がいるのに何をやってるんだ。男とろくに接したことがないのかよ――
そこでふと、「女子校」、という単語が浮かんだ。まだ男女の距離感が明確じゃない小学校は無論、たぶん紫木は女子中出身なんだろう。
それでも呆れるけどな。僕が見てしまったのが悪いとしても。
午前中、僕と紫木は一言も話さなかった。そして昼、食堂で昼食を買って戻ってくると、スマホに通知が来ていた。
「理香ちゃん♥ がメッセージを送信しました」
この表示名、絶対小山が勝手につけたやつだ。どう見ても本人のセンスじゃない。そもそも、ハートの出し方すら知らなさそうだし。
入学直後に友子先生がクラス委員長に頼んでD組のLINEグループを作らせていたけど、僕は参加したあとずっと放置したままで、誰一人個別追加していない。実にぼっちだ。紫木はたぶんあのグループから僕を見つけたんだろう。
この頃はちょうど、スマホがガラケーに取って代わりつつあって、連絡手段も有料SMSからメッセージアプリへ移り変わる時期だった。とはいえ、モバイル通信を無制限で使えるやつばかりじゃない。そういう点で、パンドラ高校は各教室に生徒用Wi-Fiまである。妙に親切な学校だ。
さて、何て来た。
「ごはんおごる」
アイコンは紫木の自撮りだった。少しうつむき、歯を見せて笑っている。
意外と可愛い。
とりあえず承認して、そのままスマホを閉じて机に伏せた。
「ちょっと、既読つけたのに返事しないの!?」
予想通り、新しい通知が飛んできた。
ずいぶん偉そうな言い方だな。そんな簡単にこの件を終わらせてやるものかと思い、文を打って送った。
「なるほど 紫木さんは自分のひどい行動を『ごはんおごる』でごまかすタイプなんだね」
「うっ……」
背後から息をのむ音がした。数秒後、紫木が小さく口にした。
「ごめん……」
よし羽冬夜良、このへんでやめておけ。
紫木の行動パターンなんて、初心者向けの雑魚敵くらい分かりやすい。
「何食べる?」
そう言って振り返ると、紫木は眉を寄せ、目を潤ませ、鼻も頬も真っ赤にしていた。
え、ちょ、待て待て。反応大きすぎだろ。泣くなよ、そういうの僕ほんと無理なんだけど。
「いや、僕も悪かった。お、落ち着けって。ごめんよごめん。」
慌てて謝ると、紫木は徐々に落ち着いた。
「もう!おごりたくなくなった。」
少し拗ねたような、それでいて茶目っ気のある口調で笑う。
「え~頼むよ~」
「考えとく~」
そうして、朝から漂っていた重たい空気もようやく消えた。
「ずっとむすっとしてるから、午後の会議はどうしようかって心配してた。」
あ、そんなのもあったな。
「別にいいだろ。最悪、会議室で無言のまま仕事して、卒業まで一言も話さずに済む。」
「もう!」
「冗談だって。」
どうせ紫木が何も言ってこなくても、そのうち僕から普通に話しかけていた気はする。
「理香ちゃ~ん、緑茶持ち帰ってきたよ~!」
教室の後ろから聞こえたのは小山の声だった。両手に飲み物を提げてぴょんぴょん来る。
緑茶が紫木の机に置かれた時、僕はカップの表示を見た。
「甘さ多め?」
思わず眉が寄る。
「何よ!こんな安っぽい緑茶、砂糖入れないと飲めないでしょ!」
「あら、仲直りしたの?」
僕らが言い合いをしているのを見て、小山は獲物を見定める肉食獣みたいな目で、僕と紫木を交互に眺めた。その一言に、僕らはなぜか見つめ合ってしまった。
すると小山は、目を閉じて「ふふん」と意味深に笑い、両手を机について勢いよく顔を寄せてきた。
ちょ、ちちちちち近すぎ!
「羽冬くん、聞いてよ~理香ちゃん、朝からずっとどうしようって相談してきてさ、」「真衣……」「授業中もメッセージ送ってくるし、休み時間には私をトイレに連れてくし、」「真衣、もういいって……」「さっき食堂でもずっと上の空で、飲み物まで忘れてたし、やっぱ羽冬くんのこと――」
「真衣、もうやめて!」
小山の機関銃みたいな暴露は、紫木の絶叫でようやく止まった。
「はいはい、分かった分かった。二人のラブタイムを邪魔するのはこのへんにしとくね~。せっかく理香ちゃんを一人で飲み物取りに戻らせた甲斐があったってもんだよ。いや~、青春っていいねぇ~」
「真衣!」
紫木の抗議なんてまるで気にせず、小山は赤ちゃんを見守る母親みたいな慈愛に満ちた笑みを浮かべ、自分の席へ戻っていった。
「なんであんたまで否定しないの!?」
「小山って、こっちが何言っても考え変えるタイプに見えるか?」
「うっ……」
とにかく、紫木は最初にやらかした側ではあったけど、自分なりに埋め合わせをしようとしていた。それは嫌いじゃない。
放課後、僕は高木のところへ行った。
「高木。」
「Yo~、待って待ってよ、そろそろだよ~」
どこかのラッパーだよ。
「今日は行かない。一昨日、風先輩に言いそびれたけど、今日から火曜と金曜は会議だから、伝えといて。」
「Oh~no~デートを成功させたいカップルのために、俺がしぶしぶ手伝おうか~」
殴りたい。
「そういえば朝のビンタ、すごかったな。」
「見てたのか。」
「Oh~お前だけの特典シーン、俺ももう少しで拝めたのにな。同じ最後列なのに残念だ~」
「明日その特典味わってみるか?」
「Oh~、痛そうだし遠慮しとく~」
教室の後ろから望月が出ていこうとして、僕たちのところを通り過ぎたあとにまた戻ってきた。
「高木くん、羽冬くん。奈奈ちゃん、もう外で待ってますよ!」
窓の外を見ると加藤がいる。もうそんな呼び方するくらい仲いいのかよ。くそ、もっと頑張らないと。
「Oh~no~すまんすまん、今行くよ~でも羽冬は今日はデートだからグラウンドには来ないぞ~」
「会議だ。」
望月が「デート」という言葉に少し首をかしげたのを見て、僕はすぐに訂正した。
「あ、パンドラ祭!」
「そうだ。」
まだ席で勉強している紫木の様子をちらっと気にした望月が少し屈み、左手を頬の前に添えて、小声で言った。
「……二人、もう大丈夫ですか?」
なんで知ってるんだよ、と思って高木を見るが、彼はいつもの皺眉の顔を返してそのまま出ていった。
「まあ、たぶんな。」
「そうですか? 高木くんの話だと、かなり大変そうでしたけど……」
「ははは……」
苦笑いしか出ない。
「羽冬くん。」
不意に、望月が静かに僕を呼ぶ。
「ん?」
「女の子を、『本当の傷』を残すようなことはしないでね。」
そう言う望月は、笑っていたのに、その目にはどこか薄い悲しみが宿っていた。ゆっくり後ずさるように離れ、そのまま教室から出ていく。
紫木を傷つけるか。大丈夫。あの意外と大胆な下着の色はちゃんと秘密にするから。
そんな自分でも笑うような結論を出したあと、僕は席へ戻った。
あの一言は、まるでリモコンの巻き戻しボタンを押されたみたいに、この数日少し調子に乗っていた僕を入学したばかりのころまで引き戻し、半ば強引に、入学してからの自分の振る舞いをもう一度見つめ直させた。
僕と紫木のやり取りは、紫木を傷つけているのか。けれど、望月と僕の距離感だって別の意味では危うい。
そもそも、紫木が僕を好きだとは思っていない。もし「好かれること」自体が傷つけることなら、世の中は罪人だらけだ。
―「夢ちゃん……僕、たぶん……君のことが好きなんだと思う。」
それに、たしかにギリギリのところは歩いているけれど、「友達」の範囲を大きく逸脱しているとも思わない。少なくとも、「口説く」とか「曖昧な関係」とか、そこまでは踏み込んでいないはずだ。
……結論は出ないな。とりあえず、やるべきことを先に片づけるか。
「そろそろ行くか。」
振り返って、紫木に声をかける。
「うん、ちょっと待って。」
緑のかたまりみたいな髪に向かって話すのも、だいぶ慣れてきた。
その静かな時間の中で、望月が野球部の男子たちに向ける、近づきそうで近づかない曖昧な空気を思い出していた。
あれは、僕とよく似た話し方だった。ただ違うのは、望月はあの見た目のせいで、それが危うい魅力になってしまうことだ。
そして、あの悲しげな目を思い返した時、僕は気づいた。望月とは、「つかみどころがない」こと以外にも、似ているのかもしれない。だから互いに、無意識に観察してしまうのかもしれない。
たぶんそのせいで、普通に聞けば余計なお世話でしかないあの一言に、僕は不思議と反発を覚えなかった。
それとも、単に望月が可愛いからか?ハハ。
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