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Ch.013② 参考書の約束

9

 5月27日金曜。

 

 中間試験から一週間。

 生徒と先生の間で、採点や設問について長い議論が続いた末、各教科の成績が昨日ようやく確定した。

 神高《かなこう》附中の頃と比べると、パンドラ高校の議論は本当にレベルが高い。

 異議が出るのも、問題文が曖昧だったり、全員正解扱いになる余地があったりする設問ばかりだ。


 僕もそのおかげでかなり点を拾えた。

 修正後の成績は、文系科目が70点台から80点台。

 理系科目は、どうにか全部60点を超えた程度。


 ……ひどい。

 僕みたいにクラス順位がたぶん二十位以下の人には関係ないけど、結果発表後の昼休み、購買へ昼飯を買いに行くついでに、行政棟「荘厳楼《そうごんろう》」へ寄って、今日の昼に張り出された各学年上位五十人の順位表を見てみた。


 紫《ゆかり》木《き》は――

 全校3位。

 なぜか、あまり驚かなかった。


 20位にはクラス委員長の瀬戸。

 ……正直、名前忘れかけてた。


 49位には望月。

 

 高木と僕は、当然ながらどこにもいない。

 

 二年の1位は見るまでもない。

 どうやったら負けるのか分からない風先輩だ。

 満点まで、たった3点。

 2位の生徒会長、伊藤先輩をしっかり突き放している。


 よく見ると、秋本先輩と矢野先輩の名前まであった。

 あの二人、勉強もできるのか。


 三年生のランキングは――

 一人も知らない。頑張れ、野球部の先輩たち。


 牛肉チャーハンと無糖の緑茶を持って教室へ戻ると、紫木が席で焼きそばパンを食べていた。


「よ。戻るの早くない?」

「おあおえっえあああ、あんあっえううおおっえあええあ。」


 たぶん、「お腹減ってたから、パン買ってすぐ戻って食べてた」かな。

 別にそんな急いで返事しなくていいよ。


「そう。」

 

 机の上には、「紅茶/甘さ多め」と書かれたドリンク。

 二か月近く経った今でも、こんなの人間が飲める液体とは思えない。


 僕が座ろうとすると、紫木は慌てて口の中のパンを飲み込んだ。


「ランキング見た?羽冬《はねふゆ》の名前あった?」

「あるわけないだろ。僕のこと馬鹿にしてる?全校三位の紫木理香さん。」


 ちゃんと話せるように身体を横向きにして座り、開けたばかりの牛肉チャーハンを食べ始める。


「え、嘘でしょ!」

「本当だ。本当にすごいな。」


 ……なんだ。あまり嬉しそうじゃない。


「うん……」


 紫木は少し考え込んだ。


「羽冬と喋りすぎて馬鹿になったのかも。じゃなきゃ三位なんて取らないし。」

「喧嘩したいの?」


 口へ運びかけていたチャーハンを止め、紫木を見る。


「あはは、冗談だよ。」


 紫木にとっては、一位が本当の目標なんだろう。

 だから、分からなくもない。


 中学時代の僕だって、もし二位以下になったら、「最近ちょっと気を抜きすぎたか?」くらいは考えていただろうし。


 それが今では。

 入学式で校長が言っていた通り、光れない星になってしまった。


 悲しい話だ。


 少し間を置いて、紫木は顔を上げた。


「三位か~パンドラで三位取れたのは、私もちょっと意外だった。」

「でも、ここまで来たなら次は本当に一位狙えるね!」


 その自信に満ちた笑顔は、僕には眩しすぎるくらいだった。


「一位とも十点差ないんだろ?紫木ならいけるよ。」

「へえ。ずいぶん私のこと買ってるね。」

「当然。僕の放課後専属家庭教師だからな。実力はよく知ってる。」


紫木は何度か瞬きをして、それから自信ありげに笑った。


「逆じゃない?私のほうが羽冬の実力、全部分かってると思うけど。」

「う……」

「そういえば、もう何日も経ったし、そろそろ点数教えてよ。」

「あ……」

「もういいでしょ、隠すことでもないし。少なくとも、赤点は一つもなかったんでしょ?」

「それはまあ……」

「じゃあ予想してみるね。」


 嫌な予感しかしない。


「文系はだいたい70点台。理系は60点ちょっとくらい?」


 ……あまりにも丸裸だ。プライバシーがない。

 怖い!紫木怖い!


「あ、当たってる。」


 顔で分かったらしい。


「やっぱり。私が見てた感じだと、羽冬って文系のほうが得意なんだよね。」

 紫木はそのまま続けた。

「さっき馬鹿って言ったのは冗談だよ?この学校に入れる時点で、勉強できないわけないじゃん。」

「ただ、羽冬みたいに高校に入っても中学とそこまで変わらないと思って、最初に油断する人は結構いるの。」


 そして少し得意げに笑う。


「ゴールデンウィークに私が無理やり勉強させたから、どうにか中間試験乗り切れたんじゃない~? ちゃんと感謝してよね。」

「紫木先生の熱心なご指導には感謝しています。」


 一度区切る。


「でも、本気で僕を馬鹿だと思ってても別に気にしないよ。今朝、襟すらちゃんと直さず学校に来た人に何言われてもね。」

「え!」


 僕らは顔を見合わせ、そのまま同時に笑った。


「そういえば、小山って最近ずいぶん静かじゃない?」


 パンドラ祭以来、僕のところへ来て紫木の行動を逐一暴露することが減っていた。

 気になって聞いてみる。

 そして次の瞬間、後悔した。


「真衣?たぶん――」

「おほほほほほ!誰か私の話してた?」


どこから出てきたんだよ!


「羽冬くん、羽冬くん。最近私は方針を変えたんですよ。」


 小山真衣が、妙に得意げな顔で語り始める。


「羽冬くんも理香ちゃんも繊細すぎるんです。特に羽冬くん、男としての覚悟が全然足りない。」

「だから理香ちゃんの幸せのために、私はいったん一歩下がって、ゆっくり二人を観察することにしました。」

「しかもクラスには、ほかにもくっつけがいのありそうな潜在カップルがいるので、今はそっちにも手を回してるんです。」


 い、忙しいな、君。


「でも、羽冬くんがそこまで誠実に私の近況を気にしてくれたなら、仕方ありません。驚きの事実を一つだけ教えてあげましょう。」


「なに?」


「理香ちゃん~今日は~淡い水色の――」

「真衣、黙って!席戻って!」

「わ~、羽冬くん残念でしたね。でもいつかきっと――」

「もういいから真衣!」

「はいはい~」


 ……おい。淡い水色の何だよ。最後まで言えよ。

 それと、男としての覚悟がないって何なんだ。


「まったくもう……」


 小山が大人しく席へ戻ったあと、紫木がため息をついた。

 ちょっとからかってみるか。


「で、淡い水色の――」

「黙って。」

「はい。」


 結局、平均80点には届かなかったんだよな。

 そう思いながら、僕は財布を取り出した。


「ん?何してるの?」

「紫木先生の課題を達成できなかったんだから、大人しく金払うしかないだろ?」


 札を一枚ずつ数えていると、紫木もようやく意味に気づいた。


「あ、参考書?いいよいいよ!あれ冗談だから!羽冬にちゃんと勉強してほしかっただけだし、そこまで高くないから。別に払わなくていいよ!」


「そう?でもこの本、普通に結構するだろ。」

「いいの。全然大丈夫。」


 紫木の視線が左右へ泳いだ。


「あ!」


「お金払って終わりにしたら駄目じゃん。次から羽冬、また真面目にやらなくなるでしょ。」


 試験の点数と引き換えに参考書を無料でもらうなんて、最初から僕には現実的じゃなかった。

 それでも確かに、勉強する理由の一つにはなっていた。


「じゃあどうするの?」

「参考書って、中間試験の範囲だけじゃないでしょ?」


 紫木の目が、柔らかくなる。

 少し甘やかすような、優しい視線。

 ほんの一瞬。

 以前、彼女の姉――紫《ゆかり》木《き》琉《る》香《か》が妹のことを僕に話していた時と、よく似た目だった。


「期末も、一緒に頑張ろ。」


 紫木はそう笑った。


「その時また、お金取るか決めるから。」


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