Vol.01 Ch.005④ 気味の悪い囁き
*このエピソードには20歳未満の者による飲酒描写が含まれますが、法律・法令に反する行為を容認、推奨するものではありません*
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「お姉ちゃん、お風呂あがったよ。……って、なんでお酒飲んでるの!?」
しまった。紫木がいつ出てくるか完全に忘れていた。グラスの最後の一口を見て、もっと早く飲んでおけばよかったと今さら思う。
「大人の深夜タイムってものだよ~」
どうやら紫木姉のこの軽い調子は、誰に対しても同じらしい。
「お姉ちゃん、ほんとそういうの適当なんだから!」
「ごめんごめん。父さんと母さんに内緒にして?」
「言いつけたってどうせ気にしないでしょ。それに羽冬も! 未成年はお酒飲んじゃだめって知らないの!?」
「ごめんなさい……」
「謝りながらまだ飲んでるし! お姉ちゃんももうやめて!」
……何だこの状況。
「はいはい。じゃあ姉ちゃんもお風呂入ってくるから、理香、ヨルがのぞきに来ないように見張っといてね~」
そう言い残し、紫木姉は勝手にカウンターを出て、奥の私用通路へ消えた。
「……のぞくの?」
「するわけないだろ。」
いや、そこ本気で確認するのか?
紫木はTシャツに短パン、タオルを肩にかけ、髪も下ろして眼鏡も外していた。学校とはかなり印象が違う。さっきまでの説教モードを変えたくて、僕は話題を振った。
「眼鏡ないと、雰囲気変わるな。」
「そ、そう?どこが?」
紫木は肩のタオルで髪を拭きながら近づいてくる。湯上がりのせいか、顔がほんのり赤い。
よし、空気の切り替えには成功したっぽい。
「少しお姉さんに似るな。」
「えっ。それって、いい?悪い?」
僕の隣のカウンター席を引いて座り、首をかしげる。
「外見の話なら、いいほうだろ。」
「そっか。姉ちゃん、きれいだし、何でもできるし。私、昔から勉強以外はだいたい全部、姉ちゃんに負けてるんだよね。」
そう言って、目の前に置かれていたオレンジジュースをストローで吸う。
ん?それ、いつの間に用意されたんだ。
てっきりこっちに話しに来たのかと思ったら、本当の目的はそれか。
「そうか? 勉強できるだけでも十分すごいだろ。」
そうだよ。勉強さえできれば、それでいい。
「そうかな。でも私、それしかできないから、家の社交の場とかも基本姉ちゃんが出るの。守られてるって意味では楽だけど、たまに、もう少し頑張るべきかなって思う。」
「あの人みたいになるのも大変そうだけどな。」
「そうね。」
窓の外では、相変わらず雨が激しく降っていた。
やがて紫木はジュースを飲み干し、立ち上がる。
「私、髪乾かしてくる! 羽冬、姉ちゃんのお風呂のぞいちゃだめだからね!」
……僕って、そんなに信用ない顔してるのか?
頭の中で想像するのと、実際にやるのは別だろ。
「……今夜、長いな。」
髪を下ろした紫木、なかなかいいな。
そう思いながらスマホを取り出し、姉さんにもう一度連絡するか迷ってやめた。あの人がこんな面白そうな状況を終わらせるはずがない。
どうせ雨が止んだら入口で待ち伏せして、無理やり連れて帰るしか……
いや、待て。
雨が止んだなら、僕、自力で帰れるじゃないか。
そこでようやく全部がおかしいと気づき、急いで入口へ向かう。
……あの女、わざわざ雨の中で服だけ持ってきてまで僕を残す気だったのか。しかも「雨が止んだら制服は置いとく」と言って、こっちにそう思い込ませた上で。
「服、見つけた?」
入口で少し濡れた制服と着替えを拾って戻ると、ちょうど紫木姉も私用通路から出てきた。あの「全部分かってるけどね」という顔で僕を見る。
この女たち、いったい何を企んでるんだ?
「こんな格好だけど、気にしないでね?」
白い細い肩紐の短めのキャミソール。姉さんが家で着てるのと、ほぼ同じタイプだ。
「気にしたほうがいいですか?」
「気にしても変わらないけどね。ほら、ヨルの番だ。案内する。」
……はあ。
「お邪魔します。」
紫木姉に連れられて私用通路へ入り、浴室でさっさと身を洗う。
……ん?同じタイプってことは、もしかして――
ノー……ブラ?
ならば、気にしないに決まってる――本当ならそう言いたいが、そんな冗談を言う気力すら削がれるくらい、紫木姉の空気は妙に強い。
風呂を出ると、正面の部屋から紫木が襖を開けて出てきた。
「あ、お風呂終わっ……え、何その格好。」
「じゃあ、制服で寝ろって言うのか?」
今は姉さんが制服と一緒に持ってきたインナーのタンクトップしかない。下はちゃんと履いてる。そこは安心してほしい。
「う……まあ、それは……」
そんなに視線の置き場に困らせているなら悪かったな。
「布団、敷いておいたから。私、もう寝る準備してるし、疲れてるなら入ってきて。」
どんな状況でもおかしい一言を、なんでそんな平然と言えるんだ。
紫木について部屋に入ると、畳の上に布団が三組並んでいた。今さら不安になる。二組や三組の問題じゃない。なんで今まで思い至らなかったんだ。
「僕、やっぱ外で机に突っ伏して寝ていい。」
「え?なんで?」
真ん中の布団に入ろうとしていた紫木が、きょとんと振り返る。
「なんでって、姉妹と一緒に寝るとか、変だろ。」
「うっ……」
男より危機感が薄いあたり、さすが紫木だ。
「たぶん……大丈夫だよ。外で寝られると、こっちがすごく悪い気がするし。」
どうやら、すぐには逃がしてもらえそうにない。
僕は諦めて、押し入れの襖にもたれるように座った。
紫木は困ったように、僕と布団と入口を何度も見比べる。そして名案を思いついたように、急に目を輝かせた。
「な、何?」
紫木は自分の布団を持って、こっちへ来た。
「真ん中のを空けて、羽冬と姉ちゃんが両端なら大丈夫でしょ?」
「いや、戻れよ。座ったままでも寝れるし。」
「だめ。ちゃんと布団で寝て。」
そのまま二人とも動かず、妙な膠着状態が続いた。
沈黙を破ったのは、少しずつ寝息に変わっていく紫木の呼吸だった。
「……紫木?」
「ん……?」
意識の底から無理やり返事をひねり出したみたいな声。
「ほんとに寝ないのか?」
「だい……じょうぶ……」
全然大丈夫じゃないだろ。
しばらくして、右肩に重みがかかった。
「紫木?」
「……」
無理してたくせに、限界だったんだな。
――いや待て。寝てる顔をこんな近くで見てるの、なんか違う気がする。
近すぎるせいで、シャンプーとボディソープの匂いがふわっと届く。まあ、とにかくいい匂いだ。
そういえば、今日の僕も同じ銘柄のやつ使ったんだったな。
ここまで寝落ちしてるなら仕方ない。紫木をそっと抱き上げ、真ん中の布団にそっと寝かせた。
そのまま外へ出ようとした瞬間、部屋の前に立っていた紫木姉と目が合う。
「紳士だね。」
「見てたんですか?」
答えない。ただ、静かな目の奥にやけに鋭いものがある。
「まだ飲める?」
その一言は、誘いというより命令に近かった。
正直、嫌な予感しかしない。
でも、このまま眠れる気もしなかった。
「カクテルはもうやめよう。理香を起こしたくないし。これならいい?」
そう言って彼女が棚から取り出したのは、いかにも高そうなウイスキーだった。ラベルを向けたまま、じっと僕を見る。
いや、さっきのウォッカ・マティーニだってシェイカーは使わなかっただろ。単に強い酒が飲みたいだけじゃないのか。
「一杯だけ。氷なしで。」
「やっぱりこだわるね。」
グラスを二つ出し、自分のほうにだけ氷を入れた。
「紫木さんって、よく飲むんですか?」
琥珀色の液体が注がれていくのを見ながら聞いた。
「『紫木さん』って距離あるなあ。一緒にお酒飲んだ仲なのに。」
……誰の教育だ、その言い回し。
「紫木って呼ぶと、変だろう。」
「どこ?私と理香と区別できない?今理香いないし、問題ないでしょ。じゃなきゃ琉香でいいよ。私だって『ヨル』って呼んでるんだから。」
わざと「ヨル」を強調しながら、氷なしのグラスを僕の前に置く。
「別に許可した覚えないですけど。」
「そういうものだよ。人生には、どうにもならないことがたくさんあるんだから。さあ。」
そう言って、彼女は自分のグラスを軽く差し出す。
グラスを合わせ、それぞれひと口含む。
「……うん、やっぱり好きじゃない。」
「自分で選んだんじゃないですか。」
「ここまで種類あるなら、一個くらい当たりがあるかと思って。まだ出会えてないの。」
「僕はわりと好きですけど。」
「あんた、年齢のわりにもう酒飲みだね。」
少し悪い笑い方だ。もう酔ってるのか?
「十八歳の人に言われたくないです。」
「来年の五月には二十歳だもん。その頃には、未成年で隠れて飲んでるのはヨルだけになるよ?」
……それ、これからも一緒に飲む前提で話してないか?
「じゃ、そろそろ本題に戻ろうか。」
さっきまでの軽さを消し、彼女はグラスの残りを一気に空けた。そして、グラスを持った左手をテーブルにつき、僕へ向き直る。
「理香と付き合うのは許さない。」
「……!?」
驚いたのは一瞬だけだ。僕はできるだけすぐ表情を戻した。
「どういう意味ですか。」
「最初からちょっと違和感はあった。でも、さっき見て確信した。」
「何を?」
「あんた、理香にまったく興味がない。」
「……根拠は?」
我ながら、完全に犯人みたいな返しだと思った。
「さっき部屋で、理香を布団に寝かせたあと、もし少しでも気があったなら、あんなふうに一度も振り返らずに出ていけるわけない。」
この女……
「あんたの中には、別の誰かがいるんでしょう?誰なの?周りの女の子には親しげで、でもちゃんと距離も取って、気まぐれで、紳士的で、過剰なくらい理性的で、男の本能に逆らってまで失いたくないくらい、大事な存在か。」
心底、気持ち悪い。
「ずいぶんはっきり言いますね。」
たった数時間、僕と紫木を見ただけで何が分かるんだ。そういう言葉は、偶然当たっただけの推測にすぎない。
「そう?妹のことだもの。手遅れになる前に、こっちが止めないと。」
一度深く息を吸ってから、紫木姉に向き直る。
「僕の中に、紫木さんの言うような『大事な存在』はいません。」
ところが、紫木姉はその返答を聞いた瞬間、吹き出した。
「っ、ふはっ……あははははは……!」
……声でかいな。紫木が起きるだろ。
一しきり笑ったあと、彼女は初めて僕のフルネームを口にした。
「ねえ、羽冬夜良。」
「人があんなに慎重に質問に答える時って、だいたい二通りしかないの。」
「一つは、正式な場合。」
「もう一つは――」
「自分は嘘をついてないって、装いたい時。」
「他人は騙せても、自分までは騙せないよ。」
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