Vol.01 Ch.006① 自分の物語り
*このエピソードには20歳未満の者による飲酒描写が含まれますが、法律・法令に反する行為を容認、推奨するものではありません*
20
「他人は騙せても、自分までは騙せないよ。」
紫木姉は、監視カメラみたいな目で僕を見つめていた。笑っているのに、その奥がひどく空虚だ。
「なーんてね。冗談冗談。若い子のことなんて、私には関係ないし。」
さっきまであんな空気を出していたくせに、急に何事もなかったように引く。この人は本当に読めない。
氷をシンクに流し、紫木姉はグラスを洗い始めた。
「一応、今の話を本当だってことにしてあげる。じゃあ、もっと簡単なことを聞こうかな。」
洗い終えたグラスを棚に戻すと、また僕の前に戻ってくる。カウンターに両手をつき、少し身を乗り出して見下ろした。
「女の子が、好きなんだよね?」
……は?
「どういうこと?」
「ブレスレットがさ、普通の男の子っぽくないでしょ。」
……そこなんだ。
「それに、あれだけからかわれても反応が薄すぎて、つまらなすぎて、逆に面白いんだもん。こんなに綺麗な私なのに。」
自分がからかうことを自覚あるのか。
「今の会話、もう姉さんとの計画から外れてません?」
「最初はちょっと脅かすだけのつもりだったんだけどね。でも今の私、急に興味が出てきた。」
そう言って、紫木姉はさらに距離を詰めて、短いキャミソールの胸元が少し落ちた。僕は思わず引きそうになった体を、ギリギリで止まった。
「どんな人なんだろうね。その『存在』って。」
そう言って、僕の左手の水色の宝石のブレスレットに触れようとする。気づいた僕は、反射的に手を引いた。
「そんな人、いませ――」
「羽冬夜良ってさ……」
言葉を遮り、紫木姉は続けた。
「どうしたら、警戒を解いてくれるんだろうね?」
―「もし今、キスしたら……好きな相手、私に変わる?」
―「じゃあ……ヨルには、今の私がその先へ進みたそうに見えるか?」
頭の奥で、聞きたくもない声がよみがえった。思い出すだけで吐き気がするような声だったが、そのせいで逆に冷静になれた。
「試しますか?」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
「冷たい目するね~」
紫木姉は少し身を引き、また問う。
「じゃあ、どうして『そんな存在』がいるのに、今ここにいるんだろうね?」
どういう問いが来るかは分かっていたはずなのに、一瞬だけ黙ってしまう。
「そんな人いません。」
「あー、うん。そうだろうね。だって、その人は――」
紫木姉はわずかに目を細めて、言い切った。
「あんたのものじゃないから。」
「否定したら、信じるんですか?」
視線を逸らさず、淡々と聞く。
「信じないよ。」
だろうな、馬鹿みたいな問いだった。
「じゃあ、好きに思えばいい。」
そこで会話は途切れた。
紫木姉は僕のグラスをちらりと見た。残ったウイスキーは、少し空気に触れただけで、どこかとろりとしていた。
「ほんの一瞬だったけど、ちゃんと見たよ。さっきの、『視・線』。」
あの意地の悪い笑顔。すでに紫木姉のお決まりなんだろう。
「自分であんな格好して近づいておいて、今さらそれ言うんですか。」
呆れて返したものの、さっきの視線を正面から突かれ、今さら紫木姉の顔を見ること自体が少し気まずい。
すると紫木姉はふっと表情を消し、視線だけを私用通路の奥へ向ける。
「あの子、たぶん勘違いしてるんだよね。」
「勘違い?」
「あんたのことを。」
再びこっちを見る目は、さっきまでと違って真面目だった。
「傷ついて成長する、っていうのは現実だと思う。だけど、あの子にはまだ早い。」
そう言って下を向く表情は、昔のことでも思い出しているみたいだった。
「そんなに過保護なんて、本当にいいのか?」
「その言い方、まるで自分には関係ないみたいだね。」
ほんの少しでもチャンスがあるなら、この人は絶対に逃さず刺してくる。
「そう。過保護なんだよ。私も、悠月も。」
「あ?姉さんが関係ないんだろ。」
「だからさ、子供はしょせん子供だ。あんたたちが思ってるより、大人はずっといろんなこと考えてるの。」
頭に浮かぶ「大人」は、ソファでだらだらスマホをいじる姉さんなんだけど。
「理香が誰かに傷つけられるとしても、その相手があんたじゃだめ。」
紫木姉は顔を上げ、もう一度まっすぐ僕を射抜いた。
「あんたは、致命的すぎる。」
その鋭さは長く続かなかった。すぐに目は柔らかくなり、どこか悲しそうに揺れた。無理に笑っているみたいな、少し痛々しい微笑みだった。
「だからこれは、頼みでもあり、願いでもある。」
「理香を、あんたのせいで傷つけないで。」
正直、その言葉にどう返せばいいのか分からなかった。
この数日、確かに色々あったし、僕なりに紫木の気持ちも考えてはいた。
でも、僕と紫木に、そこまで互いを傷つけられるほどの何かがもうできているのか。そんな関係が、たった一、二週間でできあがるとも思えない。
―「女の子を、本当の傷を残すようなことはしないでね。」
でも、同じことを言われたのは、これで二人目だ。
「一つ、聞いてもいいですか。」
「どうぞ。」
「なんで、直接紫木に言わないんですか。」
すると紫木姉は、少し困ったように笑った。
「だから、大人は考えることが多いの。言葉だけで済むなら、今夜みたいなことしないでしょ?」
そうか。
「問題をこっちに投げてるだけだ。」
「そうだよ。人生って、そういう理不尽な宿題が突然落ちてくるものだから。」
紫木姉はまだ残っているのも構わず僕のグラスにウイスキーを継ぎ足した。そして珍しく、からかいのない優しい声で続ける。
「でもね。私、何でも見抜いたような顔してるけど、見えてるものが全部本当とは限らないでしょ?」
「だから、できる限りすればいいよ。」
そして最後に、紫木姉は今日一番まっすぐな笑顔を浮かべた。
「だって、これはあんたたちの物語なんだから。」
……なんだ。
そんなふうにも笑えるんじゃないか。
「飲み終わったら、自分で片づけに来てね。グラス割らないように。言いたいことは全部言ったから。」
ウイスキーの瓶を棚へ戻し、紫木姉は私用通路の奥へ消えていった。
さっきまで重い話をしていた人とは思えないくらい、背中が軽い。
残されたグラスの中を見て、思わずつぶやく。
「……注ぎすぎだろ。」
柱時計の音だけが、店の静けさの中でゆっくり時を刻んでいく。
気持ちが落ち着いてから、ウイスキーの余韻をぼんやり味わった。気づけば、もう午前二時だった。
朝起きて、部屋にいなかったら、紫木はたぶん怒るだろう。
そう思って、グラスを洗って部屋に戻った。
紫木は相変わらず真ん中の布団で、紫木姉のほうは襖から遠い側の布団に寝ていた。
……こうして寝顔を見ている時点で、十分よくない気もする。だったら、さっき一度も振り返らなかったことの何が悪いんだ。
さっきの会話を思い出しながら、もう一度、真ん中で眠る紫木を見る。
できる限り、か。
勝手な話ばかりだ。
そもそも本気で紫木を傷つけたくないなら、その相手かもしれない男と二人で酒を飲む時点で、大丈夫かな?
押し入れの襖にもたれて座り込む。
そう時間も経たないうちに、僕の意識は少しずつ沈んでいった。
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