Vol.01 Ch.005② Purple Forest
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「よっ。」
「おかえり。」
紫木は本に目を落としたまま、足音にも挨拶にも顔を上げない。だから自然と、頭頂部に向かって話しかけることになる。
「ひと区切りつくまで待つよ。」
「うん、ちょっと待って。」
その間に、実行委員会の全体グループを確認した。
デザインはまた進捗を急かされている。伊藤委員長は、来週火曜の会議には完成稿を出してほしいらしい。そりゃそうだ。公式SNSにも、校内に掲げる大幕にも、このメインビジュアルを使う予定なのだから。
デザインのグループを開き、先輩たちの議論に加わった。最終的には、僕が各ブロックのメインカラーを指定し、先輩たちが色を入れ、仕上げの細かい調整を僕が担当することになった。
一人でやったほうが早いんだけど、これはいわゆるチームワークってものなんだろう。
続けて姉さんとのLINEを開き、今夜の予定だけ伝える。
「今日は外で晩飯食べる」
うっ……既読、早っ。
「誰と?夢ちゃん?」
「違う」
この「違う」を見た姉さん、今ごろ絶対「へぇ~?」とか笑ってる。案の定、次に来たのは、妙に含みのある猫のスタンプだった。まあ、報告は済んだし、返信は要らない。
「よし、終わった。行こう!」
紫木は僕に聞こえたのを確認すると、本を閉じ、筆記用具をしまい、鞄をまとめて立ち上がった。
校門を出て、パンドラ商店街へ入る。ちょうど店の灯りが一番きれいに映える時間帯だ。
「で、何を食べるの?」
「ふふん……」
その含みのある笑い方。どうやらもう決めたな。
「羽冬は?何食べたい?」
え、決めてるんじゃないのか?
「ラーメン?」
「やだ。服が汚れやすいし。」
「寿司?」
「やだ。小さい魚の切り身と白いご飯じゃん。」
「オムライス?」
「うーん……今日はそういう気分じゃない。」
「……」
「どうした?」
「選ばせる気がないだろ。」
そう指摘すると、紫木は「あら、バレちゃった」みたいな顔をした。
「ご飯おごるってなったら、やっぱ洋食でしょ!」
「マック?ハンバーガーもポテトも洋食の定番だし、マックだな?」
紫木は僕を一瞥し、「もう一言言ってみろ」とでも言いたげな顔をした。いや、僕、結構マック好きなんだけど。
次の瞬間、紫木は殺気を解き、自分でも可笑しくなったみたいに口元をゆるめた。
「秘密基地に連れてってあげる。」
紫木のあとについて歩くうちに、商店街を抜け、学校南側の森林復育区域へ入っていく。よく見れば、木々の間に、たしかに人が通っていそうな細い道がある。
ん?秘密基地……森の小道……趣味は解剖……
「紫木……どこに連れてかれるの?」
今日が命日なのか?
そんな警戒を察したのか、紫木は立ち止まり、ためらいなく僕の手を取った。
「いいから、ついてきて。」
いつの間に、こんな自然に触ってくるようになったんだ。
さらに進むと、一軒の平屋が見えてきた。廃倉庫じゃなくてよかった。けど、森の中にぽつんと普通の家があるのも、犯行に絶好の死角じゃない?
無意味な疑いはさておき、建物は派手さのない木造家屋で、むしろ落ち着いている。まさか学校のこんな近くに、こんな不思議な店があるとは思わなかった。
「いらっしゃいませ。」
迎えた店員は、紫木と同じ緑色の髪。どこか見覚えがある。
「二名です。」
「お好きなお席へどうぞ!」
「どこ座る?」
「じゃあ、窓際で。」
木造の内装からは、ほのかに檜の香りが漂っている。商店街の喧騒から離れていただけでも十分静かだったのに、店内に入るとその隔絶感はいっそう強くなった。
右手には磨き込まれたカウンター、その奥には色も形もさまざまな酒瓶が並び、小さな酒の博物館みたいだ。隣には高級茶葉のコーナーまであって、緑茶、紅茶、烏龍茶、ハーブティーなどがきれいに陳列されている。
カウンター以外の客席も広々としていて、テーブル同士の距離も広く、騒がしさや人目を気にせず話せる。まるで、日常から少し切り離されたい人のための場所だった。
席へ案内した店員は、僕らが座るまで意味ありげに見ていた。観察しているような、面白がっているような、何とも言えない視線だ。メニューを置いた瞬間、胸元の名札が目に入り、ようやく既視感の正体に気づく。
「へへ、まさかって思ったでしょ。」
確かに驚く。学校の近くにこんな場所があったなんて。
「ここは?」
「“Purple Forest”。うちのお父さんのお店。Googleにも出てこない、隠れ家的な高級レストランだよ!」
「やっぱりか。」
反応が薄かったのが意外だったのか、紫木が首をかしげる。
「え、あんまり驚かないんだ?」
「あの店員、紫木の姉か?」
「えっ、なんで分かったの?」
「最初に見た時からちょっと似てると思ったし、名前も名札に書いてあった。」
そう。名札にはたしかに「紫木 琉香」とあった。紫木とのつながりとは別に、「琉香」という名前にも、どこか覚えがある気がする。
紫木はなぜか頬をふくらませた。
「なんか、秘密を先に見破られたみたい。」
ああ、分かった。次はちゃんと驚くようにする。
でも、今日の紫木は機嫌がいいみたいで、すぐに笑顔に戻った。
「今日は遠慮しないで頼んでいいよ~。どうせ私、お金払わないし。」
「じゃあ……遠慮なく。」
洋食レストランかと思いきや、メニューにはパスタやハンバーガーだけでなく、和食もある。これだけ種類があると、食材管理も大変そうだ。この客入りで使い切れるんだろうか。
「お姉ちゃん、注文いいよ~」
「ご注文は?」
「カツカレー丼。飲み物は緑茶、無糖で。」
「茶葉は何かご希望ありますか?」
前にまとめ買いした茶葉を思い返したが、ひとつも覚えていない。やっぱり、興味のないことに勢いだけで深入りするものじゃない。
「一番人気ので。」
「かしこまりました。」
「私はボンゴレ・ビアンコ。飲み物は同じく緑茶、甘さ半分で。」
「少々お待ちください。」
注文を終えた一瞬、紫木姉の口元が、何かを知っていて黙っている人みたいに、わずかに上がった気がした。
ん?今のは?
「甘さ半分?」
「温かいお茶なんだから、そんなに砂糖入れなくても平気だよ。うっ、なんでそんなこと聞くの?」
「この前、飲み物は甘くないとおいしくないって言ってただろ。」
あの発言はいまだに衝撃だった。世の中には、あんなに甘い飲み物を平然と飲める人がいるらしい。
でも紫木はすぐに返さず、一度だけ視線を窓の外へ逃がした。
「お……覚えてたんだ。」
「数日前の話だろ。」
「そ、そう……高い茶葉は、そんなに甘くしなくてもおいしいから。」
うつむいたまま、指先を落ち着きなく絡めたり離したりしている。その様子が、小さな呼吸の乱れみたいに見えた。
少し長めの沈黙のあと、紫木姉が料理を運んできた。
「ごゆっくりどうぞ~」
また同じ笑顔だった。
「おいしい!」
一口食べただけで、思わず声が出た。
「よかった。気に入ってくれて。」
反応を見て、紫木も自分のパスタに手をつける。
「羽冬って、人のこと観察するの好き?」
「ん?何で急に?」
口の中に飯が残っていたから、発音はかなり怪しかったと思う。
「すごく細かいところ見てるよね。いや、そういうのとも違うのかな。」
目の前で真面目に分析されるのは妙に居心地が悪い。けど、紫木に悪意はない。ただ本気で考えているだけだ。
「それとも、羽冬みたいなオタクって、みんなそんな感じなの?」
……
「そうだ。そんなに覚えるの得意なら教えてあげる。さっき候補に出してた食べ物、私、実はどれも結構好きだよ。」
さっきって……?
「ラーメン、寿司、オムライス?」
「そう!」
「マックは?」
「うっ、それは別にそこまで。」
何でもない話をしているうちに、少しずつ距離が近づいていくのを感じていた。全部がちょうどよくて、次の瞬間、小説みたいな何かが起きてもおかしくない空気。
そして、その「何か」は本当に起きた。
ゴロゴロゴロ――
何の前触れもなく雷が鳴り、大粒の雨が窓を打ち始めた。
「……雨だ。」
同時に外を見て、同時に視線を戻し、ほんの一秒だけ目が合う。
その一秒の静けさは、雷の音よりずっと強かった。
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