Vol.01 Ch.004③ 皆との距離を縮める茂木友子は、気長に待ち続ける。
14
良見楼1階、学年職員室。
「つまり、それが遅刻の理由か?」
友子先生はそう言った。昨日わざと「茂木先生」と呼んで距離を取ろうとしたけど、正直あの呼び方にはずっと違和感があったし、冷静になった今では、少し悪かったとも思う。
「はい。」
友子先生は、特に表情を変えず、ただ静かに紅茶を一口飲んだ。
「私もグループにいたから、君がどういう状況だったかは分かった。だから紫木に電話させた。」
ああ、なるほど。
「ただ、まさか紫木に嘘をつかせるとは思わなかったけど。」
「申し訳ございません。」
先生は淡々と続ける。
「二時間目の先生は、君の件を全部私に任せた。遅刻した時間は長くなかったから、二時間目は出席扱いにしておく。一時間目は無理だから、あとで欠席届を出しなさい。」
「分かりました。ありがとうございます。」
ここまで、友子先生はずっと真面目で、どこか冷たかった。
「紫木さん。いい子なんだから、自分でどこがいけなかったか分かるわよね?」
「はい。ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。」
紫木は深く頭を下げた。
「えっ、ちょっと、そんなにしなくていいのよ~。そんなふうにされたら、先生までつらくなっちゃうじゃない。ほら、笑って~」
さっきまでの冷たさはどこへやら。母性全開かよ。
「それに、ここだけの話、私あの先生あんまり好きじゃないから、そんなに気にしなくていいの。」
「え?」
「しーっ。」
小声とはいえ、他の先生の悪口を生徒の前で言っていいのか?
「そうだ、小山さんみたいに“理香ちゃん”って呼んでもいい?」
「え?先生もそう呼びたいんですか?」
「うん。だって可愛いし。」
「い、いいですけど……人が多いところではちょっと……恥ずかしいです。」
あの、お二人で女子会始めるなら、僕は先に戻ってもいいですか?
「では、理香ちゃんは先に戻ってて。羽冬とはもう少し話すから。」
その言葉を聞いた紫木が、ちらっと僕を見る。小さくうなずくと、紫木は友子先生に挨拶をして、職員室を出ていった。
「羽冬。」
「はい。」
「何か、私に言うことはある?」
「昨日は、すみませんでした。少し取り乱しました。」
それを聞いて、あの僕に向けられていた冷たさが少し和らぐ。
「いいのよ。昨日のことで私のほうにも誤解があったって分かったから。」
「でも、世の中ってそういうものよね。同じ出来事でも、立場が違えばまったく違う話になるんだから。」
「……」
「たぶん、まだ話せる段階じゃないのよね。」
「……」
「もしこれから先、何か――」
「彼ら……」
友子先生が話を締めようとしたところで、ずっと迷っていた問いが、とうとう口から出た。
「うん?」
言いづらそうにしている俺を見ても、先生は急かさず、ただ続きを待ってくれた。
「彼らは……一緒に来たんですか?」
「そうよ。一緒に。」
どうして二人で友子先生のところに来たのかは分からない。だが、もし「あの件」の話だったなら、父があの場にいるなんて、どうしても考えられなかった。
「先生は……どう思ったんですか?」
自分でもなぜそんなことを聞くのか分からなかった。もうどうでもいいはずなのに。
「うーん……下手に何か言って、また怒らせちゃったら怖いもの。先生って大変だね。」
先生、そういうこと本人の前で言うんですか。
「一つだけ言えるのは、私はあなたの味方よ。」
少し間を置いて、先生は続けた。
「だって私は、君のファンだから。」
きっと気を遣って選んだ言葉なんだろう。けれど、それでも胸は少し痛んだ。
「話せるようになったら、また来なさい。こう見えても一応大人だから、役に立つかは分からないけど、相談には乗れるわよ。」
その言い方に、僕はつい苦笑してしまった。そんな言い方で心を開ける生徒がどれだけいるんだ。
「それより先に、先生の子どもの面倒でも見たらどうなんですか。」
「ちょっと。職場で、私の許可なく、あの生き物の話をしないで。」
職員室を出たとき、気持ちは妙に静かだった。
けれどそれは、誰かに理解されたから落ち着いた、という種類の静けさではない。たとえ口にしたとしても――
何も変わらないからだ。
15
4月13日水曜日、放課後。パンドラ高校1年D組。
昨日の実行委員会議も進捗確認が中心だった。線画を提出したデザインのほうは、ひとまず少し息をつけた。一年生にもまだ本格的な仕事は来ていない。たぶん金曜あたりからだろう。
「バスケ」
放課前、ヒロから届いた一通の短いメッセージで今夜の予定は決まった。簡潔すぎて、場所なんて言わなくても伝わるだろ、とでも言いたげだ。
「何だ。」久しぶりに聞く、相変わらず遠慮のない声。
「どこで?」
「神高に決まってんだろ。まさか小学校?」
「またこっちに来るのかと思ってさ。」
「ふっ。いいから早く来い。終わったら飯な。」
「分かった。」
すでに風には、会議があるから毎日は野球部に行けないと伝えてある。わざわざ欠席連絡までは要らないだろう。
「羽冬くん~」
この声……
「どうしたの?」
「さっき友達と話してるの聞こえたんだけど、今日もグラウンドに来ないの?」
「あ……」
やっぱり聞かれてたか。よく見てるな、望月。
「休むって伝えようか?」
「いいよ。ありがとうな~」
望月は前世で天使だったに違いない。
だが、望月は去らず、人差し指を立てて言葉を選ぶように右手を揺らした。
「でも、風先輩が高木くんに、私から羽冬くんに伝えてほしいって、言ってたんです。毎日来なくてもいいとは言ったけど、マネージャーだけだと重いものが大変な時もあるし、羽冬くんがそこまで忙しくないなら、男の子なんだから少しは手伝うべきだって。じゃないと私と加藤さんが大変だから、って。」
「待って、長すぎ。つまり、会議のない日は来られるなら来いってこと?」
「そんな感じです!」
望月が胸の前で手を合わせ、ぱちっと小さく鳴らした。
どう考えても、僕を便利に使いたいだけだ。風が加藤や望月に重い物を運ばせるとは思えない。
「なんで先輩が直接言わないんだよ?」
「風先輩が高木くんに、私が言えば羽冬くんなら断れないって。高木くんも納得してたんですけど、どうしてですか?」
その無垢そうな顔、本当に演技じゃないのか?
まあいい。こういうのには甘い。
「分かった。先輩に、明日は行くって伝えといて。これからは火曜と金曜以外でも行かない日は、自分で先に言う。」
「はい!」
そのあと、望月は耳元で小さく言い、すぐ離れた。
「羽冬くんが来ないグラウンドって、実はちょっと寂しいんですよね。」
「じゃあ、また明日!」
甘いなんてもんじゃない。死ぬほど甘い。
「望月さんと、ずいぶん仲がいいんだね。」
案の定、その一言は出ると思っていた。
「まあな、同じ部活だし。話す機会が多いだけだ。」
「そう。」
妙に淡々としている。最近、自分が僕を気にしすぎているように見えていたことを自覚して、意識的に落ち着こうとしているのかもしれない。あるいは、昔と同じで本当に勉強に集中しているだけか。
ちなみに今週の紫木は、昨日ポニーテールが少し崩れていた以外、特におかしなところはない。
「じゃ、先帰る。また明日。」
返事はないと思った。だが席を立ち、教室を出ようとした時、後ろから呼び止められた。
「羽冬。」
「ん?」
「この前、ごはんおごるって言ったでしょ。」
「そうだな。」
「明日、どう?」
「明日? でも明日、野球場行くんだけど。」
「教室で勉強して待ってる。」
意外と強引だな。
「分かった。練習終わったら戻る。」
「うん。」
「じゃあ行くよ。」
「また明日。」
一食分得したな、いい感じ。
紫木の性格なら、コンビニで済ませたりはしないだろう。少し雑に扱われそうな不安も抱えたまま、家に戻った。
家に戻ると姉さんはまだいなかった。朝の笑顔が妙に怖かったので、いないうちに着替えて出る。
「今日は神高でバスケ」
「そのあとヒロたちと飯食べて帰る」
「何かあったら連絡して」
そう送って日吉駅へ向かった。
前回は向こうがこっちまで来てくれたんだ。今回は僕の番だ。ヒロの誘いは、都合がよすぎる。
大口駅に着く少し前になって思い出した。今ならあの二人はまだ仕事中のはずだ。この機会にあの「家」へ寄り、パンドラ祭で使う茶葉を持ち帰ろう。
まあ、会ったとしても別に構わないけど。
家の前で一度だけ息を整え、鍵を開ける。
……よし、いない。
余計なものは見ず、棚から茶葉の缶だけを袋に詰め、そのまますぐ出た。気持ちが揺れる前に済ませたかった。
完璧だ。
神高に着くと、ツネとヒロはすでに1on1を始めていた。
「ヨル!」
後ろから夢ちゃんがスポーツドリンクを何本も胸元に抱えるようにして現れた。たぶんヒロたちに頼まれて買ってきたんだろうけど、多すぎだろ。
ここの高等部に通う夢ちゃんがいるのは、まあ当然か。
「夢ちゃんも来たんだ。」
「“も”って何よ。私の学校なんだから来るに決まってるでしょ~」
「感動した~」
「もう、言い方やだ~」
目が合って、自然と二人だけの笑い方を交わす。
「持つよ。」
「やった。ヨルって最高。」
コートに行くと、ヒロの声が飛んできた。
「ようやく来たな。」
「いちばん遠くから来てる人に配慮しろよ。」
「ヨル……はぁ……もう無理……交代……疲れた……」
ツネ、まだ始めてそんな経ってないだろ。
「はぁ……ツネ……交代……無理だ……」
見た目にはたった一言ぶんの間に見えたかもしれないが、こっちは一応、ヒロ相手に三回やってからへばってる。
「お前ら、マジで弱いな。」
「ほんと、超受ける。」
夢ちゃん、追い打ちをかけるな。
「弱いけど、うちの学校で『バスケ部です』って顔してる連中よりはマシだな。」
「もう目つけられてるんだ?」
前にも言ったが、ヒロの実力はどこに行ってもエース級だ。校内で何度かバスケをすれば、すぐに噂になる。
「そう。でも全員弱かった。次々かかってきたけど、まともなのはいなかった。」
「で、誘いは断ったのか?」
「型どおりの練習しかない場所にいたら、プレーの感覚まで鈍る。行く意味ない。」
「だよな。」
数日後にはパンドラ祭のクラス対抗バスケ予選も始まる。そのことを思い出して、僕はもう一度立ち上がる。
「ヒロ、もう少し教えてくれ。」
「いいぞ。どこまで覚えられるか見てやる。」
昔は、夢ちゃんがどうしてずっと横で僕らのバスケを見ていられるのか分からなかった。ただ見ているだけで、そんなに楽しいのかと思っていた。
でも最近、野球部でマネージャーみたいな立場になって、少し分かった。同じ人たちだから見続けられる。そこには自然な帰属感がある。風たちの練習も、毎日同じ繰り返しに見えて、出来事ひとつで案外違って見える。僕とツネがヒロにやられてばかりのバスケだって、毎回ちゃんと新しい火花がある。
要するに、気にかけているから面白いんだ。馬鹿みたいで、でもちゃんと繋がっている僕たちだからこそ、バスケをしている時間は少しも退屈じゃなかった。
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