第9話 魔力なし四男は自分の当たり前を疑う
その問いは、とても単純だった。
だからこそ、答えられなかった。
どうやって身体を動かしているのか。
そんなこと、考えたこともない。
立つ時は立つ。
歩く時は歩く。
手を動かす時は、動かしたいと思って動かす。
前世でもそうだった。
この世界でも、そうしている。
でも、それは僕にとって、魔力とは別の話だった。
「……普通に、動かしているだけです」
「その普通が分からんのじゃ」
エルヴィンは、面白がっているような、困っているような顔をした。
「お前にとっては当たり前でも、ほかの者にとっては当たり前ではないのかもしれん」
「当たり前ではない……」
「魔法は、突き詰めればイメージじゃ。火を起こす、水を動かす。形は違っても、まずは術者が力をどう働かせるかを思い描く」
エルヴィンは、そこで言葉を切った。
「身体を強く動かす時も、それに近い」
「イメージ……」
「そうじゃ。では、お前はどうじゃ。踏み込む時、力を入れる時、何を意識しておる」
僕は膝の上で、両手を軽く握った。
何を意識しているか。
足に力を込める。
腕に力を込める。
身体をぐっと支える。
そんな漠然とした感覚しかない。
前世で生きていた時、僕は魔力なんて知らなかった。
だから、力を入れることと魔力を結びつけたこともない。
この世界の人たちが、魔力と一緒に身体を動かすことを覚えるのなら。
僕は、違う覚え方をしたまま、この身体を動かしているのかもしれない。
でも、それを説明する言葉がない。
まして、前世の話を出さずに説明するのは、もっと難しい。
「今すぐ答えろとは言わん」
エルヴィンが言った。
「わしにも、すぐに答えは出せん。お前のような例は、見たことがない」
「エルヴィンにも、分からないんですか」
「分からんものは分からん」
あっさり言われた。
少し拍子抜けする。
魔力に詳しい老人なら、すぐに答えを出してくれるのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
けれど、エルヴィンは何でも知っている賢者ではなかった。
分からないことは分からないと言う人だった。
それは不安でもあり、妙に信用できる気もした。
「ただし、考える材料はやれる」
「材料、ですか」
「本を読め。話を聞け。自分の身体をよく見ろ。どう立っておるのか。どう歩いておるのか」
エルヴィンは、机の上の本の山を指した。
「本に書いてあることを全部信じるな。だが、知らんよりはましじゃ」
「……読ませていただけるんですか」
「勝手に読め。ただし、破るな。汚すな。勝手に持ち帰るな」
「はい」
「それと」
エルヴィンは、もう一度僕を見た。
「自分が本当に魔力なしだと、まだ決めつけるな」
僕は黙った。
「周りがそう呼ぶのは勝手じゃ。だが、お前までそれで納得する必要はない」
「……はい」
短く返す。
胸の奥が、かすかにざわついた。
今まで、僕は魔力なしという扱いを、半分は受け入れていた。
そう見られるなら仕方がない。
目立たなくて済むなら、それはそれで悪くない。
そう思っていた。
けれど、もしそれが単なる低評価ではなく、誰もよく分かっていない異常なのだとしたら。
僕は、自分の状態をもっと知らないといけないのかもしれない。
静かに暮らしたい。
それは本当だ。
でも、自分の身体のことが分からないまま静かに暮らすのは、少し怖い。
「今日はここまでじゃ」
エルヴィンはあっさり言った。
「え」
「何じゃ。不満か」
「いえ。ただ、もう少し何か教えていただくのかと」
「一度に詰め込んでも、六つの頭からこぼれるだけじゃ」
「……たしかに、六つですけど」
「不満そうじゃな」
「少しだけ」
そう答えると、エルヴィンはかすかに口元を歪めた。
笑った、のかもしれない。
「迎えが来るまで、そこにある本でも読んでおれ」
エルヴィンが顎で示した先には、低い本棚があった。
背表紙の擦れた本が、隙間もなく並んでいる。
「読んでもよろしいのですか」
「読まれて困るものなら、坊主の目につく場所には置かん」
それもそうか。
僕は本棚から手近な一冊を取り、椅子へ戻った。
古びた頁をめくっていると、扉の外で控えめなノックがした。
「エルヴィン様。ユキア様のお迎えに参りました」
思っていたより、時間が経っていたらしい。
「入れ」
扉が開き、案内役の使用人が一礼する。
僕は本を閉じ、そっと元の場所へ戻した。
「気が向いたらまた来い。話を聞くだけでもよい。本を読むだけでもよい」
「よろしいのですか」
「アルノルトには通わせろと言ってある。来るかどうかは、お前が決めろ」
お前が決めろ。
その言葉は、父の言葉とは少し違って聞こえた。
父は、行けと言った。
エルヴィンは、来るかどうかは決めろと言った。
選べる範囲は小さい。
でも、まったくないわけではない。
僕は椅子から立ち上がる。
「本日はありがとうございました」
「礼を言うのは、何か分かってからにしろ」
「では、また伺います」
「好きにせい」
エルヴィンはそう言って、机の上の本を一冊開いた。
もうこちらを見る様子はなかった。
僕はもう一度頭を下げ、使用人とともに部屋を出た。
帰り道は、来た時より少し短く感じた。
外の風は、来た時と変わらない。
見慣れた屋敷も庭も、昨日までと同じようにそこにある。
けれど、頭の中では、エルヴィンの問いが何度も繰り返されていた。
――お前は、どうやって身体を動かしておる?
どうやって身体を動かしているのか。
そんなことを聞かれても、僕には分からない。
僕はただ、普通に立って、普通に歩いているだけだ。
でも、その「普通」が、ほかの人の普通とは違うのかもしれない。
エルヴィンが味方なのかどうかは、まだ分からない。
親切な人なのか、ただ珍しいものを調べたいだけなのかも、判断できない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
あの老人は、僕を「魔力なしの四男」として片づけなかった。
僕自身にも分かっていない何かを、見つけようとしている。
そう思うと、胸の奥が小さくざわついた。




