第10話 魔力なし四男は感覚を模索する
屋敷へ戻る道は、行きと同じだった。
踏み固められた土の道も、荷車の跡も、少し離れた場所に見えるヴァンハルト邸の屋根も変わらない。
けれど、僕の中では、何かが少しだけ変わっていた。
――お前は、どうやって身体を動かしておる?
エルヴィンの問いが、頭の中で何度も繰り返される。
足を出そうと思えば、足が出る。
手を伸ばそうと思えば、手が伸びる。
指を曲げようと思えば、指が曲がる。
僕にとっては、ただの当たり前だ。
でも、その当たり前が、この世界では当たり前ではないのかもしれない。
屋敷に戻ると、玄関近くでエミリアが待っていた。
僕の姿を見るなり、ほっとしたように表情を和らげる。
「ユキア様、お帰りなさいませ」
「ただいま、エミリア」
「お疲れではございませんか。エルヴィン様のお宅で、怖い思いなどはなさいませんでしたか」
怖い思い。
怖かったか、と聞かれると返答に困る。
目は鋭かった。
言い方はぶっきらぼうだった。
子どもへの扱いは、正直、かなり雑だった。
怖いというほどではない。
ただ、こちらの中を見透かそうとしているようで、落ち着かない感じがした。
「怖くはありませんでした。ただ、話が少し難しかったです」
「そうでございましたか」
エミリアは、それ以上深く聞かなかった。
僕の顔色を確かめるように、わずかに視線をやわらげる。
「それでは、お部屋で少しお休みくださいませ。外へ出られたのですから、今日は早めにお休みになった方がよろしゅうございます」
「はい。ありがとうございます」
エミリアの声は、いつもと同じように柔らかかった。
外へ出ただけで心配されるのは、少しむずがゆい。
けれど、そうやって気にかけてくれる人がいることは、ありがたかった。
僕のことを、ただ魔力の扱えない子としてではなく、疲れていないか、怖い思いをしていないかと見てくれる。
だからこそ、困る。
僕は、自分がどうして心配されるのかを知っている。
でも、自分ではそこまで弱いとは思っていない。
そのずれを、うまく説明できないのが、はがゆかった。
部屋へ戻る途中、子ども用の読書室の前でシリウスに見つかった。
「にいさま!」
声が大きい。
廊下ではもう少し静かに、と言いたいところだが、シリウスはそういう調整があまり得意ではない。
「お帰りなさい!」
「ただいま、シリウス」
シリウスはぱたぱたと近づいてきて、僕の前で足を止めた。
目が妙にきらきらしている。
「にいさま、どこに行ってたの?」
「エルヴィンという人のところだよ」
「エルヴィン?」
「屋敷の外に住んでいる人だよ。魔物や魔法に詳しいらしい」
シリウスの顔が、ぱっと明るくなった。
「ぼくも行きたいです!」
早い。
予想はしていたけれど、食いつくのが早い。
「まだ、楽しい場所かどうかも分からないよ」
「でも、にいさまは行ったんですよね」
「うん」
「じゃあ、ぼくも行きたいです」
理屈が通っているようで、通っていない。けれど、シリウスの中ではそれで十分らしい。
「今日は話を聞いただけだよ」
「何の話ですか?」
「魔力の話を少ししたんだ」
そう言うと、シリウスの顔から、ぱっと明るさが消えた。
「……魔力の話、ですか」
「うん」
「にいさま、嫌なことを言われませんでしたか?」
思ったより真剣な声だった。
僕は目を瞬かせた。
「言われてないよ」
「本当ですか?」
「本当。少し難しいことを聞かれただけ」
「難しいこと?」
「うん。だから、まだよく分からない」
正直に答えると、シリウスは不満そうに眉を寄せた。
「にいさまにも分からないんですか」
「分からないこともあるよ」
「でも、にいさまはすごいのに」
「すごい人でも分からないことはあるんだよ。僕はすごい人ではないけれど」
「にいさまはすごいです」
即答だった。
その信頼はありがたい。
ありがたいけれど、少し重い。
六歳児の兄に、そこまで全力で期待しないでほしい。
「また行くんですか?」
「たぶんね」
「ぼくも行きたいです」
「父様の許しがないと難しいと思うよ」
父の名前を出すと、シリウスはそこで口をつぐんだ。
勢いだけで突っ込む弟でも、父の許しを得ずに勝手に飛び出すほど無謀ではない。
「……じゃあ、いつかです」
「うん。いつかね」
そう答えながら、僕は心配になった。
シリウスは、納得したように見える時ほど、あまり納得していないことがある。
今はまだ大丈夫だろう。
たぶん。
その日の夜、僕は寝台の横に立って、自分の手を開いたり閉じたりしていた。
指を曲げる。
開く。
握る。
何も起こらない。
いや、指は動いている。
だから何も起こっていないわけではない。
ただ、その中のどこに魔力があるのかが分からない。
立ち上がる。
足を出す。
止まる。
僕にとっては、筋肉に力を入れて、身体を支え、足を運んでいるだけだ。
エルヴィンの言うように、この世界の人が魔力を混ぜて身体を動かしているのなら、僕の動かし方はどこか違うのだろう。
でも、違うと言われても、自分ではその違いが分からない。
分からないままにしておくのは、少し気持ちが悪かった。
父に命じられたから行く。
そう考えれば、あの小宅へ通う理由はそれで足りる。
けれど、今は違う。
僕は、自分の状態を知りたかった。
魔力なしと呼ばれている自分が、本当にそうなのか。
どうして身体は動くのに、魔力は扱えないのか。
答えがすぐに出ないとしても、知らないまま何もしないよりはいい。
「……もう一度、行こう」
小さく口に出してみる。
大げさな決意表明ではない。
誰かに宣言するようなことでもない。
自分の中で、少しだけ向きを決めただけだった。
それから数か月、僕はいろいろ試した。
午前は家庭教師から読み書きや歴史、礼法、領地の基礎を学ぶ。
その合間に、魔力について書かれた本を読む。
子ども向けの教本も、少し難しい写本も、屋敷の読書室にある本も、許された範囲で読み返した。
午後には庭で身体を動かした。
立つ、歩く、止まる。
同じ動きを繰り返しながら、今度はただ動くだけではなく、自分がどう動くのかを頭の中で思い描いてみる。
身体づくりの内容は、以前と大きく変わったわけではない。
それでも、以前より、考えることが増えた。
僕は何を意識して動いているのか。
他の人は、どこで魔力を使っているのか。
同じように見える動きの中に、何が違っているのか。
兄たちの訓練も観察した。
踏み込み、剣の振り、止まる時の身体の沈み方。
家兵たちの号令に合わせて動く兄たちは、僕よりずっと力強い。
魔法訓練では、魔力が目に見える形で使われる。
属性魔石を介して小さな現象を起こす。
僕は離れた場所からそれを見て、同じように手を握ってみた。
けれど、何かが内側から流れるような感覚はなかった。
エルヴィンの小宅へも通った。
毎日ではない。
父に許された範囲で、なおかつエルヴィンの都合がついた時だけだ。
エルヴィンは正式な家臣ではないが、領内の魔物やダンジョンについて相談を受けることもあるらしい。
暇を持て余している老人、というわけではない。
だから、僕が行けるのは、先に使いを出して、エルヴィンから来てもよいと返事をもらえた日だけだった。
貴族子弟が一人で屋敷の外を歩くわけにはいかないので、ニコや手の空いた若い従者が送り迎えについた。
最初の頃、ニコはずいぶん緊張していた。
魔物やダンジョンに詳しい偏屈な老人の家へ、幼い子どもを送り届けるのだから、たしかに気楽な仕事ではないだろう。
けれど、数か月も続くと、それも日常の仕事の一つになった。
「ユキア様、夕刻前にお迎えに参ります」
「分かった。ありがとう、ニコ」
「いえ。ええと……中では、足元にお気をつけください。紙束や本が多いですから」
「それは僕より、エルヴィンに言った方がいいと思う」
僕がそう答えると、ニコは困った顔をした。
「それができれば、苦労はいたしません」
たしかに。
エルヴィン本人に部屋を片づけてくださいと言えるなら、たぶんただの従者見習いでは終わらない。
エルヴィンの家では、本を読んだ。
話を聞いた。
魔石を見せてもらった。
魔獣の骨らしいものや、古い地図や、用途の分からない道具も見た。
エルヴィンは丁寧な先生ではない。
「この本を読め」
「どこをですか」
「読めば分かる」
「全部ですか」
「分からんところは飛ばせ」
だいたい、こういう調子である。
説明を求めると、答えてくれることもある。
けれど、分からないことは分からないと言うし、僕が期待しているような答えを用意してくれるわけでもない。
エルヴィンは、僕を慰めない。
僕を急かしもしない。
ただ、問いと材料だけを置いていく。
それがありがたい時もあれば、少し恨めしい時もあった。
それでも、結局、何も分からなかった。
少なくとも、魔力を自分で動かしているという感覚は、少しもつかめなかった。




