第62話 四男は白い傷を見る
東の森へ向かう道は、以前より広くなっていた。
もちろん、街道と呼べるほど立派なものではない。
馬車一台がどうにか通れるくらいに木が払われ、根や石の多い地面を避けるように、車輪の跡が続いているだけだ。
今日は、東の森の監視任務の日だ。
馬車には、ドリスタ側から頼まれた細かな荷物も載せていた。
「道は粗いです。揺れますので、気をつけてください」
馬車の前方で手綱を取るニコが、前を見たまま言う。
「うん、わかった」
僕は短く返事をした。
しばらく進むと、木々の間に作業の音が混じり始めた。
斧ではなく、木槌が杭を打つ音。
誰かが短く声をかけ、別の誰かが板材を運ぶ音。
建設中の中継拠点が見えてきた。
太い杭を打った防柵が、途中まで組まれている。
まだ隙間も多く、すべてを囲めているわけではない。
資材置き場には、枝を払った丸太や板材、束ねた縄、工具が仮置きされていた。
小屋になるのだろう骨組みも見える。
ただ、屋根は途中で、壁のない部分から森の光が抜けていた。
町の大工や作業員たちが動き、その外側に警備の人たちが立っている。
この拠点を作る話が決まったのは、一週間ほど前のことだった。
◇
管理棟の一室には、東の森に関わる者たちが集まっていた。
いくつかの報告を確認したあと、話題は、ダンジョンへ本格的に踏み込むための体制に移っていた。
「継続してダンジョンへ入るなら、町から毎回往復していたんじゃ続かねえ。何度も出入りすることになるなら、森の中に足場になる場所がいる」
ガレスは、腕を組みながら言った。
「そうですね。ダンジョンに長く留まれない以上、継続して入るための中継拠点は必要です。作りましょう」
エーベルトはそう答えると、少し困ったようにディートの方を見た。
「問題は、作っている間と、作った後の警備です。回せますか」
ディートは少し考え込んだ。
警備の配置を頭の中で組み替えているようだった。
「町の巡回と森の監視所に出している警備から、一部を回す形になるかと」
「それでお願いします」
ディートはうなずき、続ける。
「また、ただの休憩場所では危険です。防柵と見張り台、簡易でも滞在できる場所は必要になります。資材、食料、水、それに負傷者を運ぶことを考えるなら、中継拠点までは馬車が一台通れる程度に切り開いた方がいいでしょう」
エーベルトは、わずかに眉を寄せた。
人員も、資材も、日数もかかる。
それでも、必要だと判断したのだろう。
「イルマ、大工と作業員の手配を。それから、どの程度の日数がかかるか、後で確認をお願いできますか」
イルマは手元の書きつけに素早く印をつけた。
「かしこまりました」
◇
一週間前、会議の席で交わされていた話が、今は森の中で形になり始めている。
「ユキア様」
ニコに呼ばれ、僕は顔を上げた。
「荷物の受け渡しは終わりました」
「ありがとう。じゃあ、出発しようか」
背後では、まだ木槌の音が続いている。
けれど、一歩ずつ森の奥へ進むにつれて、その音は木々の向こうへ薄れていった。
ここから先は、いつもの監視任務だ。
ダンジョン周辺の状況を確認するため、僕たちはさらに奥へ向かう。
しばらく歩くと、バウルの耳が、ぴくりと動いた。
「血の匂いがします」
バウルの声は短かった。
グレンが片手を上げる。
全員の足が止まった。
「どっちだ」
「あちらです。少し先です」
バウルが、森の奥を指した。
グレンが先頭に立ち、僕たちは足音を抑えて進む。
前方の空気が、じわりと重くなっていった。
枝が折れ、草が倒れている。
土はえぐられ、爪で引っかいたような跡がいくつも走っていた。
その先に、魔獣の死骸があった。
一体ではない。
倒れた草の間に、いくつかの影が転がっている。
そばには、魔石も見えた。
その奥で、僕の視線が止まった。
大きな熊のような獣が、倒れていた。
毛並みは土と血で汚れ、脇腹のあたりが大きく裂けている。
前脚にも傷があり、立ち上がろうとしても力が入らないようだった。
それでも、こちらに気づくと、熊は低く唸った。
地面に伏せたまま、首だけをこちらへ向ける。
まともに動けないはずなのに、その目にはまだ力があった。
グレンが僕の前へ出る。
ミロスも、横へずれた。
イリスはリズたちの前に立ち、すぐに守れる位置を取る。
僕は息を飲んだ。
熊の左目の上から頬へかけて、白い古傷が斜めに走っている。
あの傷。
見覚えがあった。
雨の森。
泥の匂い。
魔獣の唸り声。
あの時、逃げ切れないと思った。
僕が息を詰めていると、ミロスが低く言った。
「かわいそうっすけど、放っておきましょう」
その判断は、冷たいものではない。
怪我をしているとはいえ、大型の獣に近づくのは危険だ。
まして、周囲には魔獣の死骸がある。
何が起きたのかも分からない。
分かっている。
頭では、分かっている。
それなのに、口から出たのは別の言葉だった。
「助けられませんか」
「危ないっす」
ミロスの返事は早かった。
熊が、また低く唸る。
近づくな、と言っているように聞こえた。
僕は一度だけ唾を飲み込み、視線を白い傷から外せないまま言った。
「前に土砂崩れでこの森に落ちた時、結果的にではありますけど、助けられたことがあるんです」
グレンが、わずかにこちらを見た。
「……あの時、ですか」
「たぶん、同じ熊です。断定はできません。でも、あの白い傷は覚えています」
グレンはしばらく黙った。
その間にも、熊の呼吸は荒く、脇腹から血がにじんでいる。
「ユキア様は近づかないでください」
やがて、グレンが言った。
「私とミロスで動きを押さえます」
「本気っすか」
ミロスは意外そうに、グレンを見た。
僕は、グレンへ小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
それから、リズの方を見る。
「リズ、治癒魔法をかけられますか」
リズの顔は強張っていた。
それでも、彼女は熊から目を逸らさずにうなずいた。
「やってみます」
ミロスが息を吐く。
「ほんと、坊ちゃんは放っておけない相手を見つけるのがうまいっすね」
「ごめん」
「謝るところじゃないっす。下がっててください」
グレンとミロスが左右からゆっくり近づく。
熊の唸り声が低くなった。
傷ついているのに、前脚が地面を掻く。
次の瞬間、熊が首を振った。
グレンが前へ出る。
熊の肩口に両手を当て、起き上がろうとする力を上から押さえ込んだ。
ミロスは横へ回り込み、熊の前脚と首の動きが大きくならないように体を入れる。
熊が暴れようとする。
地面が抉れ、土が跳ねた。
二人がかりでも、簡単ではない。
けれど、二人は体勢を崩さず、熊の身体を押さえ込んでいた。
「リズ、今だ」
グレンが短く言う。
リズが前へ出た。
イリスがすぐ横につき、リズがすぐ下がれる位置に立つ。
リズの手が、熊の脇腹へ向けられた。
「少しだけ、我慢してください」
熊に通じるかは分からない。
けれど、リズは声をかけずにはいられなかったのだと思う。
リズの治癒魔法がかかると、裂けた部分からの出血が弱まり、むき出しだった傷がゆっくり塞がっていく。
流れ続けていた血が止まり、浅く乱れていた呼吸が少し変わった。
熊の身体に、力が戻り始める気配があった。
「リズ、離れろ」
グレンの声が飛ぶ。
リズはすぐに手を引き、後ろへ下がった。
イリスが一歩、リズと熊の間へ入る。
続いて、グレンとミロスも熊から距離を取った。
熊はしばらく伏せたままだった。
それから、ゆっくりと身体を起こす。
大きい。
立ち上がるだけで、森の中の空気が変わったように感じる。
熊は、傷が塞がったあたりを気にするように首を曲げた。
それから、押さえていたグレンとミロスを見る。
リズを見る。
最後に、僕を見た。
白い古傷の下の目が、まっすぐこちらを捉える。
あの時と同じだ。
息を詰めたまま、僕は熊を見ていた。
誰も動かない。
熊が飛びかかれば、すぐ届くほど近くはない。
けれど、安心できるほど遠くもなかった。
熊は、低く鼻を鳴らした。
それから、足元の魔獣の死骸へ近づく。
太い首を下げ、牙でそれを咥えた。
首が、横へ振られる。
次の瞬間、それがこちらへ投げられた。
「下がれ!」
グレンの声が響く。
僕たちは一斉に身構えた。
けれど、投げられた死骸は、手前の地面に落ちただけだった。
熊はそれ以上、こちらへ近づいてこない。
攻撃、ではなさそうだった。
少なくとも、そう見えた。
熊は別の死骸を咥えると、森の奥へ歩き出した。
足取りはまだ重い。
それでも、さっきまで倒れていた時とは違う。
しばらく進んだところで、熊が一度だけ振り返った。
白い傷が、木漏れ日の中で短く浮かぶ。
そして、そのまま木々の奥へ消えていった。
残されたのは、投げられた魔獣の死骸と、転がった魔石だった。
誰かが、小さく息を吐いた。
それにつられるように、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
「……お礼、なんでしょうか」
ニコが小さくつぶやく。
「分かりません」
僕は首を振った。
本当にお礼だったのか。
邪魔なものをこちらへ捨てただけなのか。
それとも、別の意味があったのか。
あの行動に、どんな意味があったのかは分からない。
ただ、あの熊は今回も僕たちを襲わなかった。
僕は、熊が消えていった先を見つめた。
白い古傷の下の目が、しばらく僕の頭から離れなかった。




