第55話 四男は救援へ走る
救援先へ向かう前に、ラウガがもう一度、足を前へ出した。
けれど、その動きはすぐに止まった。
身体が動かないわけではない。立ってもいるし、声も出ている。
「俺が行った方が早い」
「早くても、途中で倒れたら意味がないよ」
フィンが短く返す。
いつもの軽い調子は薄い。目は森の奥を見ているのに、その焦点が少し揺れているように見えた。
「僕も奥まで走れる状態じゃない。回収組へ戻って伝えよう。ガレスたちを向かわせた方がいい」
「ちっ」
ラウガは低く舌打ちした。
悔しそうだった。
でも、言い返さなかった。
そのことが、かえって怖かった。
ラウガとフィンが行けない。
それだけで、これから向かう先が、想像していたよりずっと危ない場所なのだと分かってしまう。
「グレン」
「はい」
「倒すより、まず崩れないことだ」
「分かりました」
案内の冒険者が先に立つ。
ふらついているのに、必死に足を動かしていた。
僕たちは、その後を追った。
走ると言っても、町の道を駆けるのとは違う。
下草が足に絡み、木の根が土から浮き、視界の端で枝が揺れる。
土と葉の匂いが濃い。
息を吸うたび、胸の奥に湿った空気が沈んでいく。
空気が重い。
森そのものが、こちらの動きを少しずつ鈍らせているようだった。
「あそこだ……!」
案内の冒険者が、息を切らしながら言った。
次の瞬間、前方から重い音が響いた。
木を叩いたような、鈍い音。
獣の唸り。
誰かの怒声。
視界が開ける。
完全な広場ではない。木々の間が少し空き、倒れた幹と大きな根がいくつも転がっている場所だった。
そこに、いた。
二メートルほどの大柄な魔物が、こん棒を振り回している。
緑がかった身体。太い腕。振るわれるたび、近くの枝が折れ、土が跳ねた。
あれが、オーガなのだろうか。
フィンが言っていた弱い個体かもしれないという言葉が、一瞬だけ頭をよぎる。
弱い。
それでも、僕の目には十分すぎるほど大きかった。
その周囲に、中型の魔獣が一体。
さらに、小型の魔獣が四体。
「増えてる……」
ミロスが小さく言った。
案内の冒険者の顔色が、さらに悪くなる。
たぶん、彼が離れた時より増えている。
あるいは、その時には見えていなかっただけかもしれない。
冒険者の一人が倒れていた。
ぴくりとも動かない。
別の二人は、立っているだけで精一杯に見えた。
一人がオーガの正面で必死に踏みとどまり、他の冒険者たちが中型魔獣と小型魔獣を散らそうとしている。
戦線は崩れかけていた。
どこを見ればいいのか、一瞬分からなくなる。
オーガのこん棒。中型魔獣の動き。小型魔獣の跳ねる影。倒れている冒険者。
全部が同時に目に入って、頭の中で結びつかなかった。
「ミロス、あの大きい方の魔獣を止めろ。倒せなくていい。こっちへ来させるな」
「了解っす!」
グレンの声で、視界が少し戻った。
「オーガは俺が受ける」
グレンは冒険者たちへ短く告げると、迷わず前へ出た。
「小さいのは頼んだ」
グレンがオーガの前へ入る。
オーガのこん棒が振り下ろされ、グレンの身体が低く沈んだ。
受け止めたのではない。力を逃がしながら、ぎりぎりで軌道をずらしているように見えた。
それでも、土が跳ねた。
グレンの足元が沈む。
楽に止めているわけではない。
ミロスは中型魔獣の前へ滑り込むように入った。
剣を振るい、中型魔獣の進路を塞ぐ。
動きは鋭い。
けれど、小型魔獣が横から跳ねる。
ミロスが踏み込もうとするたび、別の影が足元や脇を狙う。
「邪魔っすね、ほんと……!」
ミロスの声に余裕は少ない。
僕は倒れている冒険者を見た。
刀へ伸ばしかけた手が、そこで止まる。
まず、あの人だ。
倒れている冒険者のそばへ膝をつく。
血の匂いがした。
外套にも土がこびりついている。
「聞こえますか」
返事はない。
僕は冒険者の肩に手をかけた。
持ち上げるのは無理だ。なら、少しでも木の陰へ動かす。
外套の端と装備の隙間を掴み、腕に力を込める。
ずる、と身体がわずかに動いた。
重い。
当たり前だ。大人の冒険者だ。子どもの僕が簡単に動かせるはずがない。
少しでいい。
今より、被害が届きにくい場所へ。
その時、横で何かが跳ねた。
小型魔獣だった。
ミロスか冒険者に弾かれたのか、土を蹴って僕の近くへ飛び退いてくる。
僕は刀へ手をかけ、身体を固くした。
小型魔獣の目が、こちらを向いた。
見られた。
そう思った。
けれど、小型魔獣は僕へ飛びかからなかった。
ほんの一瞬だけ視線を向けると、すぐにミロスの方へ跳ね戻っていく。
僕は息を止めたまま、その背を見送った。
倒れている冒険者へ向き直る。
大きな木の根元までは、まだ少し距離があった。
このままでは足りない。
僕は息を吸い、身体に魔力を巡らせて力を入れる。
その瞬間、近くで動いていた小型魔獣の頭がこちらへ向いた。
さっきとは違う。
視線が刺さる。
迷いなく、こちらを捉えたように見えた。
僕は慌てて魔力を止めた。
小型魔獣の動きが、わずかに迷う。
飛びかかるのか、戻るのか、一瞬だけ揺れているように見えた。
そして、また冒険者の方へ向かった。
胸の内側が冷える。
前に魔獣と戦った時にも、似たことがあった。
見えているはずなのに、すぐには襲ってこない。
でも、魔力を巡らせた瞬間、魔獣は飛びかかってきた。
今も、同じなのかもしれない。
さっきより明らかに食いつきが強い。
やはり、僕の魔力の動きに反応しているのかもしれない。
でも、確かめている暇はない。
僕は倒れている冒険者を、もう一度引いた。
魔力は使わない。
腕が軋む。足が土の上を滑る。
それでも、冒険者の身体は少しずつ木の根元へ近づいた。
あと少し。
その時、横手の茂みが揺れた。
小型魔獣の一体が、こちらの横を抜けるように飛び出してくる。
狙いは、僕ではない
その先にいる、膝をついている負傷した冒険者へ向かっていた。
「そっちへ行きました!」
声を出すと同時に、僕は土を蹴っていた。
膝をついていた冒険者が、僕の声に反応して顔を上げる。
立ち上がる余裕はなさそうだった。
それでも、剣を前へ出し、小型魔獣の突進を受ける姿勢を取る。
小型魔獣が、その冒険者へ飛びかかった。
剣と爪がぶつかる。
冒険者の身体が後ろへ押され、片膝が土を削った。
小型魔獣の意識は冒険者へ向いている。
今なら、隙をついて攻撃できるかもしれない。
魔力は巡らせない。
足で土を蹴る。
魔力を巡らせれば、きっと気づかれる。
だから、間合いに入るまで使わない。
身体を低くして、一気に距離を詰める。
息が詰まる。
足が重い。
それでも止まれない。
小型魔獣の背が近づく。
間合いに入った瞬間、魔力を一気に巡らせる。
小型魔獣の頭が跳ねるようにこちらへ向いた。
でも、遅い。
僕は刀を振った。
刃が首元のあたりへ入る。
硬い感触のあと、ずるりと沈む感触が手に残った。
「っ……!」
小型魔獣が暴れかける。
僕はさらに体重を乗せた。
魔獣の身体が崩れる。
土と葉の上に落ち、足が二度、三度と跳ねた。
倒した。
そう分かった瞬間、息が一気に乱れた。
胸が痛い。
足が重い。
腕の奥が震えている。
「わりぃ、助かった」
冒険者が息を切らしながら言った。
「坊ちゃん!」
ミロスの声が飛んだ。
見ると、別の小型魔獣が、僕の方へ向かってきた。
飛びかかってきた魔獣の牙を、刀で受ける。
腕に重さがのしかかった。
そこへ、先ほど助けた冒険者が横から剣を突き込んだ。
小型魔獣は身をひねり、かろうじて刃を避ける。
けれど、魔獣の視線が冒険者へ移った。
「離れてろ!」
冒険者の声が飛ぶ。
僕は魔力を止めて、魔獣の正面から外れた。
下がるつもりだった。
ただ、魔獣の視線は冒険者へ向いている。
今なら、もう一度だけ入れる。
足元がふらつく。
膝が笑いそうになる。
僕は刀を握り直す。
間合い。
あと一歩。
そこへ入った瞬間、魔力を巡らせた。
小型魔獣が振り返る。
今度は、反応が早い。
刃は肩口へ入った。
けれど、一体目ほど深くはない。
小型魔獣が暴れ、飛び退こうとする。
そこへ、冒険者の剣が横から突き刺さった。
魔獣の身体が跳ねた。
やがて、力が抜ける。
僕は刃を引き、後ろへ下がろうとして、足がもつれた。
尻もちをつくほどではなかった。
でも、踏ん張るだけで精一杯だった。
息が苦しい。
喉が熱い。
手の中の刀が、さっきより重くなっている。
「坊ちゃん、下がって!」
ミロスの動きが変わった。
横槍が減ったことで、中型魔獣へ集中できるようになったのだと思う。
剣の軌道が大きくなり、ミロスが一歩、前へ出た。
「少し楽になったっす!」
負傷していた冒険者たちも、小型魔獣が減ったことで、少しだけ持ち直したように見えた。
動きはまだ苦しい。
それでも、さっきまでの崩れかけた空気とは違う。
グレンは、まだオーガを抑えている。
こん棒が振られるたび、グレンの身体が押し込まれる。
それでも、倒れない。
僕たちの方へ、通さない。
ただ、長く持つとは思えなかった。
その時、森の奥から、別の足音が近づいた。




