第47話 四男は選択肢を増やしたい
翌朝、バウルはニコの横で、落ち着かない様子のまま木剣を抱えていた。
場所は、僕たちが滞在している建物の一室だ。
部屋の隅には、水差し、布、木剣、休憩用の小さな荷物が並べられている。
ニコが一つずつ確認し、バウルが指示されたものを運ぶ。
ただそれだけの作業なのに、バウルの耳は忙しなく動いていた。
「バウルさん、それは訓練場所へ持っていくものです。こちらの籠に入れてください」
「分かりました」
バウルは返事をして、すぐに手を動かす。
何もせずに待っているより、何か役目があった方が落ち着くのだろう。
昨日の匂いの試験のあと、バウルは追加確認のため、一時的にこちらの滞在場所で預かることになった。
正式に配置が変わったわけではない。
鉱山の作業から一時的に外し、様子を見るための暫定対応だ。
「ユキア様、準備できました」
ニコに告げられ、僕たちは日課の訓練に向かった。
警備の訓練場には、朝の湿った空気が残っていた。
踏み固められた地面の上で、木剣を打ち合わせる鈍い音が響く。
離れたところでは、他の警備の人たちが体を動かしていたが、僕たちの周りは空けられていた。
グレンとミロスは、軽く体を温めたあと、魔力を抑えた状態で鍛錬を始めた。
「前より、動きが滑らかになっていますね」
僕が言うと、グレンは木剣を下ろした。
「少しずつですが、慣れてきた実感はあります」
「前よりは、自重鍛錬も回数をこなせるようになったっす。まあ、同僚には何やってんだって笑われましたけど」
ミロスが息を吐きながら言った。
二人を見ると、以前より体つきに厚みが出ているように見える。
ただ、それだけで効果が出ているとは言い切れない。
けれど、続ける意味はあると思えた。
その横で、バウルは、木剣を持ったまま、グレンとミロスをじっと見ていた。
訓練に憧れているような顔だ。
でも、自分がそこへ入ってよいのか、まだ迷っているようでもある。
「バウル」
「は、はい」
「君も、少し試してみますか」
バウルの耳が立った。
「やって、いいんですか」
嬉しそうな声だった。
けれど、次の瞬間には不安そうに視線が揺れる。
「でも、僕、うまくできるか分かりません。弱いので」
僕は少し言葉を探した。
ここで大きなことを言いすぎてもいけない。
バウルの匂いの感覚は、まだ正式に使えると決まったわけではない。
身体づくりをしたからといって、すぐ何かが変わるわけでもない。
それでも、昨日からずっと考えていた。
「バウル、君の鼻は、役に立たないものではないと思うんです」
バウルが瞬きをする。
「ただ、役に立つ場所まで、行けなかっただけかもしれません」
「役に立つ場所……」
「はい。匂いで危険や違いに気づけても、その場へ行けなければ使えません。危ない場所から逃げる。近づかないようにする。気づいたことを誰かに伝える」
ラウガに言われたことを思い出す。
強ければ、選択肢が増える。
その強さは、戦うためだけのものではないはずだ。
「強くなれば、選べることが増えます。戦うためだけじゃありません」
バウルは、木剣を抱えたまま黙っていた。
「今、やっていることは、魔力が弱い人でも強くなれる方法だと僕は思っています。まずは、試してみませんか」
耳がぴんと立ち、尾が一度だけ揺れる。
「……やってみたいです!」
ニコが、バウルの隣に立った。
「バウルさん、僕と一緒にやりましょう」
「じゃあ、ニコ、教えてもらっていいかな」
「はい」
バウルは、ニコに並んでもらいながら、魔力を抑える感覚と、身体を鍛えるやり方を教わった。
うまくできているかは分からない。
けれど、バウルは身体を動かすこと自体が楽しそうだった。
それが、僕には嬉しかった。
「兄様!」
その時、聞き慣れた明るい声が訓練場所に響いた。
振り向くと、シリウスが目を輝かせていた。
「訓練しているんですか?」
「うん。前からみんなに魔力の巡りを抑える訓練をしてもらってるんだ」
「魔力を抑える……魔力をなくすってことですか?」
「まあ、そういうことかな」
シリウスは、僕の言葉をそのまま受け取るように頷いた。
「魔力をなくすってことは、兄様と同じですか!」
「うん。ちゃんと巡らない状態にできたなら、同じだと思う」
シリウスの表情が、ぱっと明るくなる。
「では、僕もやります!」
即答だった。
「じゃあ、少しやってみようか」
「はい!」
シリウスは元気よく返事をした。
僕は、シリウスにグレンやミロスに伝えたことと同じように、抑える感覚を伝えた。
シリウスは真剣な顔で聞いていたが、目の奥が楽しそうに光っている。
「魔力を、内側で静かに……」
シリウスはそう呟き、息を整えた。
「む、難しいです」
やはり、すぐにはできないらしい。
イリスを横目で見ると、彼女も試しているように見えた。
何度か繰り返しているうちに、シリウスは急に足元を見た。
「兄様、身体が重いです! 面白いです!」
シリウスは、その場で一歩だけ動こうとして、すぐに止まった。
うまくできているわけではないようだ。
たぶん、ほんの一瞬、普段と違う感覚を掴んだだけだ。
それでも、シリウスはとても嬉しそうだった。
「兄様と同じです!」
「少し近い感じ、かな」
「はい! 少し同じです!」
言い方を変えても、喜びはあまり減らなかった。
バウルが、その様子を見て小さく笑った。
自分も訓練を楽しんでよいのだと、思えたのかもしれない。
訓練が終わる頃には、バウルの額にも汗がにじんでいた。
激しく動いたわけではない。
ただ、慣れない感覚で身体を使ったせいか、思ったより疲れたらしい。
リズが水を渡すと、バウルは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「無理はしないでくださいね」
「はい。でも、楽しかったです」
リズが小さく笑う。
バウルはそれに気づいて、照れたように木杯へ目を落とした。
僕は少し離れたところから、その様子を見ていた。
バウルの匂いの感覚は、まだ正式に使えると決まったわけではない。
昨日の確認だけで、仕事にできるほど簡単ではなかった。
でも、もし身体を少しずつ作れたなら。
バウルの鼻は、今より使い道が増えるかもしれない。
これは、バウルだけの話ではないような気がした。
弱いと見なされていても、別の何かに気づける人はいるかもしれない。
ただ、その気づきを役目にできる場所まで行くための身体がない。
伝える立場がない。
だから、価値が表に出ない。
もちろん、そんな人が必ずいるとは言えない。
鍛えれば誰でも強くなる、という話でもない。
けれど、弱いと見なされたまま終わらせる前に、身体を作り、役目を探す道はあるのかもしれない。
僕はまだ、その先をうまく言葉にできなかった。
だから今は、目の前で水を飲んでいるバウルの姿を、覚えておくだけにした。
それから数日、ドリスタでの滞在は慌ただしく過ぎていった。
午前は予定されていた視察を続け、風の試験設備では記録が増えていく。
バウルの匂いについても、オスカーが結果を整理し、必要な分だけ追加確認を進めていた。
すぐ成果になるものは少ない。
けれど、少しずつ前に進んでいるように思えた。
◇
その日の夕方、訓練を終えようとしていた時だった。
訓練場の外側で、イリスが先に顔を上げた。
それに続いて、グレンもそちらを見る。
鉱山管理からの使いの者が、こちらへ近づいてきていた。
「ユキア様。冒険者ギルドから、鉱山管理を通してお話が届いております」
「冒険者ギルドから、ですか」
「はい。ユキア様に、ギルドまでお越しいただけないかとのことです。可能であれば、グレン様とミロス様もご一緒に、と」
その場の空気が、少し変わった。
ただの予定確認なら、僕だけでいいはずだ。
護衛として同行するのは当然でも、わざわざグレンとミロスの名を出す必要はない。
ミロスの表情から、軽さが消えた。
グレンも、短く目を細める。
「詳しい話は、ギルドで直接お伝えしたいとのことでした」
使いの者は、それ以上は言わなかった。
何だろう。
思い当たることがあるとすれば、エルヴィンに会いに行ったことくらいだ。
けれど、それなら僕だけでよい気もする。
「いつ伺えばよいでしょうか」
「明日の午前であれば、予定を調整できるとオスカー様から伺っております」
「分かりました。明日の午前に伺います」
グレンとミロスが、そろって姿勢を正した。
何の話なのかは、まだ分からない。
ただ、グレンとミロスの名が出た理由だけが、胸の奥に引っかかっていた。




