第5話 魔力なし四男とフォルフとしばぬぅ
屋敷本体から厩舎へ向かう道は、食堂や廊下とは空気が違う。
磨かれた床ではなく、踏み固められた土。
香油や布の匂いではなく、干し草と飼料と、かすかな獣の匂い。
石畳の端には馬車の車輪跡が残り、壁際には飼料袋や道具がきちんと並べられている。
主家区画が「見られる場所」なら、ここは「動かす場所」だ。
僕は、この空気が少しだけ好きだった。
食堂や廊下より、厩舎の方が気楽だ。
礼法も序列もあるにはあるけれど、馬やフォルフは家格で態度を変えない。
……まあ、機嫌が悪いと普通に怖いけど。
厩舎に着くと、ロッソが飼料の袋を確認していた。
日に焼けた顔に、無愛想な目。子どもが一人で近づくには勇気がいる。
ただ、ロッソは動物を見る時だけ、表情に小さな変化が出る。
馬の脚の運びや、耳の向きや、食べ残しの量を見て、何かを判断しているらしい。
「こんにちは、ロッソ」
「ユキア様、こんにちは」
ロッソは手を止め、軽く頭を下げた。
必要な礼儀は示すけれど、過剰にへりくだるわけではない。
「僕のおやつですけど、軽食の方は、よければロッソに」
「……それは、坊ちゃんの分でしょう」
「焼き菓子がありますから」
ロッソは僕を見て、それから包みを受け取った。
「では、ありがたく」
「柵の中には入らんでくださいよ」
「分かっています」
「ならよろしい。フォルフは馬より気が荒い。見境なく噛むわけじゃないが、警戒すりゃ噛みますからね」
「はい」
厩舎の奥には、二頭のフォルフがいた。
ルオルルノと、ファイリバ。
ロッソや父は、その名で呼ぶ。
僕は、縮めてルオとファリと呼んでいる。
本人たちに通じているかは、まだよく分からない。
二頭のフォルフは、馬に近い大きな体をしていた。
頭部は狼に似ていて、耳は鋭く、口元には白い牙がのぞく。
脚は長くしなやかで、首は厚い。
こちらを見る目には、普通の馬よりもずっと野性味があった。
そのうち一頭は、主に父が乗るものだと聞いている。
ヴァンハルト家は武を重んじる家だ。
普通の馬だけでなく、こういう戦闘力の高い騎獣まで抱えている。
異世界らしいと言えば、かなり異世界らしい。
ただし、近くで見ると、感動より先に「噛まれたら大変だな」という現実的な感想が出てくる。
「ロッソ。これ、ルオたちに食べさせてもいいかな」
僕は布に包んだ果物を見せた。
ロッソは受け取って匂いを確かめ、それから小さくうなずく。
「これなら構いません。切るのはこちらでやります」
「お願いします」
僕は柵のそばに腰を下ろした。
自分用の焼き菓子を膝の上に置き、ロッソが果物を切り分けるのを待つ。
手前にいた一頭が、ゆっくりと鼻先を寄せてきた。
大きい。
顔だけで、僕の胸くらいまである。
けれど、唸り声はない。
牙も見せない。
耳は少し動いているが、警戒しているというより、こちらの様子を確かめているようだった。
「こんにちは、ルオ」
声をかけると、フォルフは鼻を鳴らした。
返事なのか、ただの息なのかは分からない。
僕はロッソの様子をうかがってから、果物を差し出す。
フォルフは唇で器用にそれを受け取り、ゆっくりと噛んだ。
しゃく、と音がした。
僕も焼き菓子を一口かじった。
甘い。
運動した後なので、かなりおいしい。
フォルフが二口目の果物を食べる。
僕も二口目を食べる。
なんだか、一緒におやつを食べているみたいだった。
「……本当に、坊ちゃんには大人しいな」
ロッソがぽつりと言った。
「何度も来ていますから」
「慣れるのと、気を抜くのは別ですよ」
「そうなんですか?」
「こいつらは賢いですからね。餌をくれる相手でも、信用しない時は信用しません」
ロッソは、柵の向こうで僕のそばを離れないフォルフを見た。
「食べ物目当てだけなら、食べたら離れるんですがね」
そう言われて、僕はフォルフを見る。
フォルフは果物を食べ終えた後も、離れなかった。
柵の向こうから鼻先を寄せ、今度は僕の手元をじっと見ている。
視線の先には、僕の焼き菓子があった。
「……これは、だめだよね?」
僕がロッソに確認すると、ロッソは即答した。
「だめです」
「そうだよね」
「人間用の焼き菓子には、砂糖や油、香辛料が入っています。少し食った程度でどうこうなるとは限りませんが、与えん方がいい」
「うん。分かりました」
僕は少し残念な気持ちで、最後のひとかけを口に入れた。
フォルフが、ぶふ、と不満そうに鼻を鳴らした。
「ごめんね。これは僕のおやつだから」
そう言うと、フォルフはもう一度鼻を鳴らした。
まるで納得していないみたいだった。
ロッソが小さく笑う。
僕はそっと手を伸ばし、柵越しにフォルフの鼻先へ触れた。
ロッソが止めない範囲で、ほんの少しだけ。
毛並みは思ったより硬く、鼻先は温かかった。
フォルフは犬ではない。
というか、犬よりずっと大きいし、牙も怖い。
それでも、鼻を鳴らす仕草だけは、少しだけあいつに似ていた。
しばぬぅ。
前世で飼っていた犬だ。
散歩より昼寝が好きで、年を取ってからは、僕の部屋の近くで丸くなっていることが多かった。
僕が落ち込んでいる時だけ、なぜか隣に来る。
慰めているのか、ただ温かい場所を探していただけなのか、最後までよく分からなかった。
でも、あの鼻を鳴らす音は、少し懐かしい。
僕がそっと手を引っ込めると、フォルフはもう一度だけ鼻を鳴らした。
その音が、なぜか名残惜しそうに聞こえた。
しばらく、その場を離れがたくなった。
とはいえ、あまり長居をしてもロッソの仕事の邪魔になる。
「ありがとう、ロッソ」
「いえ。戻る時は、足元に気をつけてください」
「はい」
僕は空になった焼き菓子の包みを畳み、厩舎を後にした。




