第45話 四男は匂いの違いを確かめる
前日の書きつけは、朝にはきれいに束ね直されていた。
僕が書きつけへ目を通していると、扉が叩かれた。
ニコが応対し、オスカーが部屋へ入ってくる。
「失礼いたします。昨日ご相談いただいたバウルの確認について、エーベルト様へ報告いたしました。鉱山側への確認も進めております」
オスカーは、いつも通り無駄の少ない声で言った。
「ただし、正式な判断ではなく、まずは一度確かめるための場です。石の準備と、バウルの作業の都合を合わせ、午後にはご案内できます」
「分かりました。午後にお願いします」
「確認の手順としては、まず、基準になる風属性魔石をバウルに見せます。その後、記録が残っている標準品、良品、不良品を、番号を振った状態で順に確認させます」
オスカーは、書きつけの一枚を机の上に置いた。
「バウルには番号だけを伝え、感じたことを答えてもらいます。その言葉を記録し、あとでこちらの記録と照合する形にします」
「分かりました。その形で進めていただければと思います」
僕が頷くと、リズが小さく息を整えた。
記録すべきことが増えたからだろう。
バウルの確認は、午後。
そう思ったところで、僕は別の書きつけを思い出した。
父から預かった封書と伝言の中に、エルヴィン宛てのものがあった。
「オスカーさん、もう一つ相談があります」
「何でしょうか」
「父様から、エルヴィンさん宛ての封書を預かっています。ドリスタにいるはずなので、直接渡したいのですが」
オスカーの目が、わずかに細くなる。
驚きというより、確認する項目が増えた時の顔だった。
「こちらでお預かりして届けることもできます」
「エルヴィンさんは、僕の知り合いです。できれば、自分で渡したいです」
「……少々お待ちください」
オスカーは考え込むように視線を落とした。
「エルヴィン様がドリスタへ入っている場合、冒険者ギルド関係の場所に滞在している可能性があります。まず、冒険者ギルドで確認するのがよろしいかと」
「それなら、バウルの件が終わったあとで、僕が冒険者ギルドへ直接行って確認してもよいでしょうか」
オスカーはグレンへ視線を向けた。
「護衛上、問題はありますか」
「冒険者ギルドまでであれば、同行は可能です。その後の移動は、場所を確認してから判断いたします」
グレンが短く答える。
扉近くにいたミロスも、表情を改めた。
「自分も同行します。冒険者ギルドは人の出入りが多い場所ですから」
「では、グレン、ミロス。お願いします」
「承知しました」
「承知しました」
オスカーは頷き、手元の紙へ一つ印をつけた。
「では、午後のバウルの確認を予定通り進めます。その後、冒険者ギルドへ向かえるよう調整いたしましょう」
◇
午後になり、僕たちはオスカーが用意した確認の場へ向かった。
部屋には長い作業机が置かれ、その上に番号札のついた魔石が並べられている。
色合いや濁りにわずかな差があるものもあれば、僕の目ではほとんど同じに見えるものもある。
リズは記録用の紙を持ち、ニコは番号札と書きつけの位置を確かめている。
グレンとミロスは離れた場所に立ち、出入口と窓の方を見ていた。
「エーベルト様への報告と、鉱山側への確認は済ませてあります」
オスカーが淡々と言う。
「バウルには、属性、等級、良品か不良品か、どの工程の石かは伝えません。最初に基準となる風属性魔石を一つ確認させます。その後、番号の石を順に確認します」
「正解表は」
「私と記録係が持ちます。ユキア様には見せません」
「分かりました」
僕が答えると、扉の外で足音が止まった。
連れて来られたバウルは、部屋に入るなり背筋を伸ばした。
犬系の獣人らしい耳が、ぴんと立っている。
でも、指先は落ち着きなく動きかけて、すぐに止まった。
「こ、この度はお日柄もよく、お足元の悪い中、こんなところまでお招きいただき、誠にありがとうございます。ええと、鉱山作業員として、精いっぱい務めさせていただきますので、その、何か不手際がございましたら――」
緊張したバウルの口は、また止まらなかった。
覚えた挨拶がいくつか混ざっている。
「バウル、落ち着いてください。失敗したから呼んだわけではありません」
バウルは机の上の魔石を見て、さらに緊張したようだった。
「オスカーさんから聞いているかもしれませんが、前に属性魔石の匂いが分かると言っていましたよね。それを、確かめさせてほしいだけです」
「ユキア様、その、何を言えばいいのか、よく分からないです……」
「感じたままでいいです。それを聞きたいんです」
オスカーが一歩前へ出る。
「これは正解を求める試験ではありません。あなたが何を感じ、どのような言葉で表すかを記録するための確認です。分からない時は、分からないと言って構いません」
「は、はい」
「まず、この石を確認してください。記録上の基準となる風属性魔石です。他の石を確認する時は、これと比べて何が同じで、何が違うかを言ってください」
オスカーが、小さな皿に載せた薄い緑色の魔石を差し出した。
バウルは、おそるおそる鼻を近づける。
一度、二度。
それから目を閉じて、短く息を吸った。
「……風の匂いです」
「どのような匂いですか」
「ええと、軽いです。鼻の先が、すっとする感じで……でも、痛くはないです。土の匂いとは違います」
オスカーが記録係へ目配せする。
リズも、バウルの言葉をそのまま書き留めた。
次に、番号札のついた石が一つ置かれる。
バウルは緊張したまま、鼻を近づけた。
「これは、さっきの風に近いです。でも、ちょっと薄いです」
「薄い、とは」
「匂いが遠いです。鼻に入ってくる前に、どこかへ逃げる感じがします」
次の石。
「これは……風の匂いが弱いです。水っぽいというか、湿った布みたいな感じがします」
次。
「さっきの風に似てます。でも、鼻の奥に引っかかります。ちょっと嫌です」
次。
「これは、いい匂いです。さっきより、すっとしてます。風がまっすぐ来る感じがします」
バウルの言葉は、専門的ではない。
等級も、工程も、品質も、正確な名前では言えない。
番号が進むたび、オスカーは正解表へ何度も目を落としていた。
どの石が良品で、どれに不良があるのかは、僕には分からない。
それでも、番号が進むたびに、バウルの言葉には違いが出ていた。
鼻の奥に残る、引っかかる、濁る、重い。
すっとする、まっすぐ来る、遠い。
その言葉を聞くたび、オスカーの表情は引き締まっていった。
最後の石を確認し終えると、オスカーは記録係の紙を受け取った。
リズが書いた控えとも、番号を照らし合わせる。
部屋の中が静かになる。
オスカーが数字や記録を見て黙る時、空気には独特の重さが出る。
感情で迷っているのではない。
記録が、簡単に無視できない形になった時の沈黙だ。
「偶然で片づけるには、少し当たりすぎています」
オスカーが、ようやく口を開いた。
バウルがびくっと肩を揺らす。
「では、バウルは役に立つということでしょうか」
僕が聞くと、オスカーはすぐに首を振った。
「そこまでは言えません。石の数、種類、条件、本人の体調。確認すべき点は多くあります」
「追加の確認が必要、ということですね」
「はい。記録を続ける価値はあります」
記録を続ける価値。
オスカーにとっては、かなり大きな言葉だと思う。
バウルは、自分が褒められたのか、疑われているのか分からない顔をしていた。
耳が落ち着かず、足元も少し動いている。
「それなら、バウルをすぐ鉱山へ戻さない方がいいと思います」
オスカーの視線が、僕へ向く。
「戻さない、ですか」
「はい。鉱山へ戻れば、周りの見る目が変わるかもしれません。バウル本人も、不安になると思います。それに、確認を続けるなら、町側にいた方が条件をそろえやすいはずです」
バウルが、驚いたように僕を見た。
「ユキア様の滞在場所で預かる、ということですか」
「はい。追加確認が終わるまでの間だけです。配置を変えてほしいわけではありません。すぐに扱いを変えてほしいという話でもありません。確認のために、一時的に鉱山側と切り離せないか、エーベルトさんと鉱山側へ相談していただきたいのです」
僕が勝手に決めることではない。
バウルは鉱山側の作業員で、ボルクたちの作業都合もある。
僕の滞在場所に置くなら、護衛や部屋の扱いも確認しなければならない。
それでも、今のまま鉱山側へ帰して、周りから妙な目で見られるのは避けたかった。
役に立つかもしれない。
特別な何かがあるのかもしれない。
そんな言葉は、立場の弱いバウルにとって、良いことばかりではないはずだ。
「私だけでは決められません」
オスカーは言った。
「エーベルト様への報告、鉱山側の作業調整、バウル本人の扱いを確認する必要があります」
「分かっています。正式な扱いは、エーベルトさんと鉱山側に確認してください」
僕は、バウルを見た。
「ただ、今日このまま鉱山へ戻すのは避けたいです。確認が取れるまでの間、バウルをこちらの滞在場所で預かれませんか」
オスカーは、短く考え込んだ。
「……早急に確認いたします。それまでは、ユキア様の滞在場所でお預かりいただいて結構です。鉱山側には、こちらから戻りが遅れる旨を伝えます」
「ありがとうございます」
僕は頷いた。
バウルは、まだ不安そうにしている。
役に立ったのか。
怒られなかったのか。
それとも、これから何かが変わってしまうのか。
きっと、全部が分からないのだと思う。
「バウル」
「は、はい」
「悪いことをしたわけではありません。今日言ってくれたことを、もう少し確かめたいだけです」
「……僕、変なこと言ってませんか」
「変なことではありません。僕には、ちゃんと意味があることです。ただ、それを町の仕事としてどう扱えるかは、もう少し結果を見ないと分からないそうです」
バウルは瞬きをした。
困ったような顔で、それでも小さく頷く。
「分かりました。僕、感じたことをちゃんと言います」
「それで大丈夫です」
まずは、これまで通り過ぎていたものを、目に触れる場所へ出すことはできた。
分からないものを、分からないまま置いておくのではなく、確かめられる形にする。
それも、今の僕にできる仕事なのかもしれない。




