第39話 四男は再びドリスタへ命じられる
十一歳になってから、僕の朝の日課に、新しいものが増えた。
厩舎近くの広場で、若いフォルフの背に乗ることだ。
ルリカンテは、ルオルルノとファイリバの間に生まれた子だ。
僕は、親しみを込めてルリと呼んでいる。
四歳になった今では、人を背に乗せることにだいぶ慣れている。
歩く、止まる、向きを変える。
そのあたりの合図には、きちんと反応してくれる。
短い距離なら、軽く駆けることもできる。
ただ、今のところは屋敷内での訓練が中心だ。
外の道でどこまで落ち着いていられるかは、まだ確かめていない。
人や馬車の多い場所では、厩舎番や護衛の目が必要になる。
「ルリ、ゆっくりでいいよ」
僕がそう言うと、ルリカンテは耳を動かし、短く鼻を鳴らした。
足取りは慎重だが、嫌がってはいない。
むしろ、僕が手綱を強く引かないことを確かめるように、時々こちらを振り返る。
半周ほどしたところで、僕は軽く合図を送る。
「少しだけ、走ってみようか」
ルリカンテの耳がぴくりと動いた。
次の瞬間、歩く調子が変わる。
馬よりも低く、しなやかな揺れが背中越しに伝わってきた。
速い。
でも、怖くはなかった。
ルリカンテは勝手に速度を上げず、広場の端へ近づく前に、僕の合図で足を緩めた。
「うん。いい子」
首筋を撫でると、ルリカンテは得意げに鼻を鳴らした。
一人前の騎獣と呼ぶには、まだ早い。
でも、こちらの声を聞き、合図を待とうとしてくれるだけで、十分に賢いと思う。
広場の端では、シリウスが目を輝かせていた。
「兄様! ぼくも乗りたいです!」
「少しだけだよ。ルリが嫌がったら、すぐに降りること」
「はい!」
返事だけは立派だった。
僕が降りて、厩舎番のロッソの手を借りながらシリウスを乗せる。
シリウスは背筋を伸ばし、緊張と嬉しさを隠しきれない顔で手綱を握った。
「ルリ、お願い」
「お願いします、ルリカンテ!」
ルリカンテは一度だけ僕の方を見た。
それから、広場をゆっくり歩き出す。
シリウスは最初こそ息を詰めていたけれど、半周する頃には頬が緩んでいた。
今にも声を上げそうな顔だ。
けれど、一周し終えると、ルリカンテは迷わず僕の方へ戻ってきた。
「もう終わりですか?」
「終わりみたい」
「もう一周だけ……」
「バウ」
短い鳴き声だった。
返事なのか、もう十分だと言っているのかは分からない。
ただ、ルリカンテは僕の外套の端へ鼻先を押しつけて、動く気配をなくしていた。
僕には甘える。
でも、他の相手にはまだ慎重だ。
シリウスは不満そうに頬を膨らませたけれど、無理に続けようとはしなかった。
そこは、成長したところかもしれない。
「ユキア様」
広場の外から、ニコが小走りに近づいてきた。
息を整えてから、丁寧に頭を下げる。
「旦那様から、執務室へ来るようにとのことです」
「父様が?」
「はい」
父からの呼び出し。
それ自体は珍しくない。
けれど、ニコの声がわずかに硬い。
僕はルリカンテの首を撫でた。
「ルリ、今日はここまで。あとでまた来るよ」
「バフ」
返事を聞いてから、僕は屋敷へ戻った。
部屋へ戻ると、リズがすでに着替えの上着を用意していた。
広場でついた細かな砂を払い、襟元と袖口を整える手つきは、以前よりずっと落ち着いている。
「父様から呼び出しがあったみたい」
「はい。ニコさんから先に聞いております」
リズは小さく頷き、襟元を確かめた。
「ご気分は、悪くありませんか」
「大丈夫」
「それならよかったです」
安心したように言いながらも、リズの視線は僕の顔色を確かめている。
ドリスタでの事故の後、こういう確認は増えた。
心配されるたびに申し訳なくなる。
でも、何も言われなくなるよりはいいのかもしれない。
支度を終え、僕は父の執務室へ向かった。
◇
父の執務室は、いつも通り静かだった。
机の上には、書簡と報告書がいくつも重ねられている。
その中に、見覚えのある紙束があった。
ドリスタから届いたものだ。
「ユキア」
「はい、父様」
「ドリスタから風属性魔石に関する報告が来た」
父は余計な前置きをしない。
僕は静かに頷いた。
ドリスタ。
その名前を聞いた瞬間、雨の町の音が胸の奥でよみがえる。
荷車の音、工房の熱気、坑道の湿った空気、マルタの工房で水が流れた時の弱い風。
あれから数か月が経っている。
「風を起こす試作について、ある程度安定した動作を確認できたそうだ」
「風属性魔石の加工に、使えるということでしょうか」
「そこまでは書かれていない」
父は、卓上の報告書に視線を落とした。
「安定した、と言っても、実際に魔石で使えるかどうかは別だ。風属性魔石の加工に組み込むには、まだ確かめることが多い」
父は報告書から目を上げた。
「お前を、再度ドリスタへ向かわせる」
一瞬、言葉が遅れた。
「僕を、ですか」
「風属性魔石だけではない。魔石が町をどう動かしているかもう一度見てこい」
父の声は、いつも通り淡々としていた。
「見学ではない。補佐として学べ。ただし、現場を直接動かす権限はない」
「はい」
「考えがある場合は、エーベルト、オスカーと相談しろ。勝手に判断するな」
「はい」
「同行者は前回と同じ方向で調整する。日取りは追って知らせる」
「承知しました」
「以上だ」
いつもなら、そこで頭を下げて退室する。
けれど、僕はその場に残った。
「父様。一つ、お願いがあります」
父の目が、報告書から僕へ移る。
「言え」
「前にドリスタで、バウルという鉱山付き奴隷の獣人の少年に会いました」
「作業員か」
「はい。採掘や運搬の補助をしている子です。ですが、本人は匂いだと言って、属性魔石の違いを拾っているようでした」
父の表情は変わらない。
それでも、僕は続けた。
「僕には、あれが偶然には思えません。魔石を見て、聞いて、学ぶだけなら、管理官や職人の方に教われば足ります。でも、僕が見落としているものを拾う感覚が必要なら、バウルのような子が必要です」
「欲しい、ということか」
その言葉に、胸の奥が少し詰まった。
欲しい。
そう言えば、この家では話が早いのかもしれない。
けれど、バウルは道具ではない。
僕は言葉を選び直した。
「僕の補佐として、必要だと思っています」
父は短く息を吐き、机の上の報告書に指先を置いた。
「奴隷一人を動かすにも、理由と成果がいる。役に立つと言うなら、役に立つところを見せろ」
「はい」
「まずはエーベルトとオスカーを通せ。鉱山側が必要だと言うなら、ボルクにも確認させろ」
「はい」
「そのうえで、本当に使えるなら考える。使える者を雑務に埋もれさせるのも無駄だ」
その言い方は、父らしかった。
優しさではない。
けれど、道は閉じられていない。
「ありがとうございます、父様」
「礼を言うのは、結果を出してからにしろ」
「はい」
僕は頭を下げ、執務室を出た。
廊下の空気は、執務室より柔らかい。
けれど、胸の中では、ドリスタの音がまた近づいていた。
風の試作。
属性魔石。
そして、魔石の匂いに気づいた少年。
今度のドリスタ行きは、前に見たものを確かめに行く旅になる。
◇
それから数日、屋敷の中ではドリスタ行きの準備が少しずつ進んでいた。
リズとニコは荷物の確認に追われている。
僕も、前回の記録を読み返しながら、気になるところを考えていた。
そんな中、朝食中に母が僕に目を向けた。
「ユキア、ドリスタへ向かう準備は進んでいますか」
その一言で、食卓の空気がわずかに変わった。
僕は匙を置き、母の方へ向き直る。
「はい。ドリスタで困らないように、前に見たことをもう一度読み返しています」
「そう。今度は、無理をしないようにね」
「気をつけます」
母は柔らかく頷いた。
その横で、ヨハンが表情を和らげた。
「風の試作が、うまく進んでいるんだろう? すごいじゃないか、ユキア」
「まだ、確実と言える状態ではないです」
「それでも、父上がお前に行かせると決めたんだ。頑張れよ」
「はい、ヨハン兄様」
ヨハンの言葉は素直にありがたかった。
けれど、全員が同じように受け止めるわけではない。
カシムが、椅子にもたれたまま口元だけを歪めた。
「魔力なしが補佐とはな。ドリスタも、ずいぶん変わったものですね」
父の視線が、短くカシムへ向いた。
「決めたのは私だ」
「……いえ、父上のご判断に異を唱えるつもりはありません」
カシムはすぐに姿勢を正した。
父に真正面から逆らうつもりはないらしい。
ただ、面白くないのは分かった。
ザッカスは何か言いたげにカシムを見たが、父の前では口を挟まなかった。
一方で、シリウスは目を輝かせている。
「ユキア兄様、またドリスタへ行くんですか!」
「うん。まだ日取りは決まっていないけど」
「さすが兄様です!」
そのまっすぐな声に、僕は返事に困った。
朝食の場では、それ以上大きな話にはならなかった。
けれど、カシムの視線だけは、食事の終わりまで時々こちらへ向いていた。
納得していない。
それだけは、はっきり分かった。
◇
午後、僕が庭へ出ようとしたところで、カシムに声をかけられた。
「ユキア」
「はい、カシム兄様」
「ドリスタに行くんだろ。補佐だか何だか知らねえが、外へ出るなら最低限の身のこなしは必要だよな」
絡まれそうとは思っていたが、そうきたか。
「俺が少し見てやるよ。補佐として行くなら、腕も見ておいた方がいいだろ」
訓練という名目で、大勢の前で無様な姿を晒させるつもりなのだろう。
「僕は、打ち合いには向いていません」
「はっ。最初から言い訳か?」
カシムは笑った。
周囲にいた使用人が、一瞬だけ動きを止める。
ここで拒んで、しこりを残すのも面倒な気がする。
僕は小さく息を吐いた。
「分かりました。訓練として、お願いします」
「そうこなくちゃな」
カシムは満足そうに背を向けた。
その後ろ姿を見ながら、僕は訓練場へと向かった。




