間話 護衛は準備を怠れない
ユキアがドリスタへ向かう少し前。
家兵たちが詰める部屋には、昼の騒がしさがまだ残っていた。
壁には手入れされた武具が掛けられ、近くの板には巡回の予定や外出に関する書きつけが並んでいる。
出入りする家兵の足音、革具がこすれる音、低く交わされる確認の声。
どれも、ヴァンハルト邸の日常の音だった。
グレンは、机の上に置いた書きつけを一枚ずつ確認していた。
今日の巡回報告。
明日の交代予定。
門まわりで共有すべき注意事項。
それに、ドリスタ行きの護衛に関する項目。
必要なものだけを抜き出し、余計な紙は端へ寄せる。
勤務中のグレンは、姿勢も装備も乱れていない。
髪も身なりも整っており、黙っているだけなら、若い家兵の中でも目を引く方だった。
もっとも、近くで別の書きつけをまとめていたミロスは、グレンを見ても特に感心した顔はしなかった。
見慣れているからだ。
ユキア様のドリスタ行きに、お前を護衛としてつける。
そう告げられたのは、出立の支度が屋敷内で具体的に動き始めた頃だった。
家兵隊長のレオンは、いつものように必要なことだけを短く告げた。
「ユキア様が向かわれる遠出だ。道中の警戒、現地との連絡、安全確認を怠るな。滞在先でも、自分の目で見ろ」
グレンは一拍置いてから、短く答えた。
「承知しました」
ドリスタ。
フェンリース領の東側にある魔石鉱山町だ。
領主家の子弟が現場を見て学ぶために向かう場所でもある。
出立の予定そのものは、家兵の間にもすでに伝わっていた。
だから、驚いたのはドリスタ行きではない。
その護衛に、自分が選ばれたことだった。
これは、ただの巡回や門番ではない。
領主家の子息を連れて、町の外へ出る護衛任務だ。
うまく果たせば、今後の評価につながる。
上席に近い仕事を任されるかもしれない。
そう考えたところで、グレンは内心を顔に出さないよう、顎を引いた。
「任せるだけの理由はある。結果で示せ」
「必ず務めを果たします」
レオンはそれ以上言わなかった。
短い命令だった。
だが、グレンには十分だった。
そして今、その出立は明日に迫っている。
グレンは回想を振り払うように、机の上の紙束へ視線を戻した。
道中の確認、装備の点検、交代の引き継ぎ。
やるべきことは、まだ残っている。
そのタイミングを待っていたように、ミロスが顔を上げる。
「ユキア様……あの坊ちゃんっすか」
「旦那様のご子息だ。言い方に気をつけろ」
「今は隊長いないじゃないっすか」
「いなくてもだ」
グレンがそう返すと、ミロスは肩をすくめた。
軽い態度ではあるが、声の大きさは抑えている。
そのあたりの分別はある。
「でも、意外っすね。グレンさんがつくんすか」
「命じられたからな」
「いや、そうじゃなくて。坊ちゃん、最近はあんまり見ないんすけど、昔は庭でよく変なことしてたんすよ」
グレンは、書きつけを揃えながら視線だけを向けた。
「変なこと?」
「縄を置いて、その間を細かく足で越えたり。短い縄を回して、何度も跳んでたり。石とか丸太の近くで、妙な姿勢で止まってたり。遊びなのか訓練なのか分からないやつっす」
「子どもの遊びだろう」
「俺も最初はそう思ったんすけどね」
ミロスは考えるように、手元の紙を指で叩いた。
「なんか、真剣だったんすよ。魔力なしって言われてるのに、拗ねるでもなく、投げ出すでもなく、当たり前みたいに続けてて。馬鹿にしてるわけじゃないっす。変わってるけど、面白い坊ちゃんだなって」
グレンは、すぐには返さなかった。
ユキアについて、グレンが知っていることは多くない。
ヴァンハルト家の四男。
魔力面では期待されていない子息。
屋敷の中でも、目立つ立場ではない。
護衛対象としては、静かで手のかからない子どもなら助かる。
それが、今のところの認識だった。
ただ、ミロスがわざわざ覚えているなら、完全な遊びでもないのかもしれない。
「見かけた範囲の話だな」
「そうっす。俺が見た範囲っす」
「なら、覚えておく」
「え、信じるんすか」
「信じるとは言っていない。情報として置くだけだ」
「出た。グレンさんの、真面目なやつ」
ミロスが笑う。
グレンは取り合わず、机の上にある紙をまとめた。
「ユキア様の護衛だ。考えることは多い」
「考えすぎっすよ。坊ちゃん、たぶん手はかからないっす」
「手がかからない相手ほど、見落としが出る」
「……それ、真面目に言ってるから怖いんすよね」
「考えるのも仕事だ」
ミロスは、はいはい、と言いかけて、声に出す直前で飲み込んだ。
任務そのものを軽く見ているわけではないのだろう。
からかう相手を間違えない程度には、グレンの表情も読んでいる。
グレンは席を立ち、壁際の棚へ向かった。
「ミロス」
「何すか」
「手伝え」
「……俺、今、関係ありました?」
「今すぐ急ぎの持ち場へ戻るわけではないだろう」
「そういう時だけ、こっちの予定を見るのやめてほしいっす」
文句を言いながらも、ミロスは立ち上がった。
逃げても無駄だと分かっている顔だった。
グレンは、旅路の護衛に必要な物を順に見ていく。
外套。
手入れ道具。
替えの衣類。
道中の書きつけ。
現地で確認すべき連絡事項。
細かく数え上げればきりがない。
だが、抜けがあった時の方が面倒になる。
必要な物を棚から取り出すと、グレンはそれを机の横の空いた場所へ並べた。
ミロスは途中から諦めたように、グレンの言う順に物を移していた。
一方で、机の上には、いろいろなものが置かれていた。
古い巡回表。
折り目のついた書きつけ。
使いかけの木札。
小さな布包み。
いつ置いたのか分からない紐の束。
ただ、手前の一角だけは空いている。
紙一枚を広げ、文字を書けるだけの場所が、きっちり残されていた。
椅子の背には布が一枚掛かり、床の隅には丸めた紙が寄せられている。
ミロスはそれを見て、何とも言えない顔をした。
「グレンさん」
「何だ」
「これ、いつの巡回表っすか」
ミロスがつまみ上げた紙を見て、グレンは目を細めた。
「……少し前のものだ」
「少し前って顔じゃないっすよ。これ、もう使わないやつじゃないですか」
「必要な物と不要な物は把握している」
「把握してるなら捨てるか、しまうかしてくださいよ」
「ひと月に一度は整えている」
「それ、片づけたかどうかは答えてないっすよね」
ミロスは呆れたように息を吐き、古い紙を端へ寄せた。
「任務に支障はない」
「それ言えば勝ちだと思ってません?」
「事実だ」
「仕事中だけなら、ほんと格好いいんすけどね」
「だけと言うな」
ミロスは小さく笑った。
グレンは気にせず、最後の確認事項をまとめる。
紙を折り、紐で留める。
それを外套とは別にして、持ち出しやすい位置へ置く。
誰の護衛であっても、任務は任務だ。
命じられた以上、見落としや準備不足で穴を作るわけにはいかない。
仕事に関わる準備は、順に終わっていく。
残っているのは、私物と旅支度だった。
「行くぞ」
「どこへっすか」
「部屋だ」
ミロスの動きが、分かりやすく止まった。
「……俺も?」
「最後まで手伝え」
「さっきの時点で、俺の仕事じゃなかった気がするんすけど」
「ここまで来たら同じだ」
「そういう理屈、ずるくないっすか」
言いながらも、ミロスはついてきた。
グレンはまとめた紙束を片手に、部屋を出る。
通路には、夜へ向かう静けさが下り始めていた。
遠くで家兵の足音がする。
別の方角からは、使用人が何かを運ぶ小さな音も聞こえた。
昼間ほど忙しくはないが、屋敷はまだ完全には眠っていない。
グレンは足を止めずに歩く。
隣で、ミロスが妙に慎重な声を出した。
「ところで、グレンさん」
「何だ」
「部屋、最後に掃除したのはいつっすか」
「ひと月に一度は整えている」
「それ、さっきも聞いたっす。しかも今、掃除って言葉を避けたっすよね」
「歩く場所は確保している。問題ない」
「それ普通っす。最低条件っす」
グレンは真顔のまま、通路の先へ進む。
ミロスは小さく息を吐き、覚悟を決めたように後を追った。




