第37話 四男は見たものを書き残す
机の上に、書きつけが何枚も並んでいる。
採掘現場。
領主家直営加工場。
倉庫と出荷管理。
冒険者ギルド支部。
マルタの工房。
それから、水で空気を押し出した、あの頼りない風の試作。
ドリスタへ来たばかりの頃は、見るものすべてが新しかった。
雨の町も、魔石を運ぶ人たちの足音も、僕へ向けられる慎重な視線も、まだ遠いものに感じていた。
けれど、気づけば実地教育の終わりが近づいている。
大きな見学予定は、おおむね終わった。
採掘現場にも入り、加工場も見た。倉庫では魔石が仕分けられるところを確かめ、冒険者ギルド支部では町を支える仕事の一部も聞いた。
マルタの工房で試した風の仕組みは、まだ職人たちが改良点を考えている段階だ。
風が出た、とは言える。
でも、使える、とは言えない。
そこを間違えると、報告書ではなく、ただの願望になってしまう。
僕は羽根ペンを持ったまま、空欄の多い紙を見下ろした。
「……書くことが増えたな」
小さく呟くと、リズが卓の横に温かい飲み物を置いてくれた。
「ユキア様。少し休まれますか」
「ありがとう。でも、もう少し整理したい」
「承知いたしました」
リズは無理に止めなかった。
その代わり、散らばりかけた紙の端をそっと揃えてくれる。
ニコは反対側で、紐でまとめた書きつけをいくつか並べ直していた。
「ユキア様、倉庫の時の書きつけはこちらです。冒険者ギルド支部の分は、こっちに分けておきました」
「助かる」
「いえ。僕も、どれがどれか覚えているうちに分けた方がいいと思いまして」
ニコの字は、まだ整っているとは言いにくい。
それでも、どの場面で使った紙なのかは分かるように、端に小さく印がつけられていた。
こういう細かな助けがなければ、たぶん僕は考えることに気を取られて、どの紙が何の記録だったか分からなくなっていた。
報告書に書くべきことは、ただ出来事を並べるだけでは足りない。
見た事実。
僕が感じたこと。
今後、確認した方がよいと思うこと。
それらを混ぜてしまえば、読んだ人が何を信じてよいのか分からなくなる。
僕は紙の端に、短く線を引いた。
「事実、推測、提案……」
「また分けてるんすか」
窓際に立っていたミロスが、半分呆れたように言った。
「分けないと、何を書いていいか分からなくなるから」
「坊ちゃん、真面目っすね。俺なら、見たことを順番に書いて終わりにしそうっす」
「それができるなら、僕もそうしたい」
僕がそう言うと、ミロスは笑った。
「そういうところが坊ちゃんなんすよね」
「それ、褒めてる?」
「もちろんっす」
たぶん、半分くらいは違う。
けれど、ミロスの軽い声のおかげで、部屋の空気は緩んだ。
次に、僕はバウルのことを書こうとして、羽根ペンを止めた。
属性魔石の匂いに気づいたこと。
属性の違いを、目で見る前に感じ取ったかもしれないこと。
それは、確かに大事なことだと思う。
けれど、まだ一度見ただけだ。
本人がいつも同じように判別できるのかも分からない。
それに、これを書けば、バウルのことは僕の手を離れる。
よい扱いにつながるかもしれない。
でも、そうならないかもしれない。
僕は少し迷ってから、その項目を報告書から外した。
忘れていいことではない。
ただ、今ここに書くことではない気がした。
採掘現場については、作業能率だけでは見えない適性があるかもしれない、とだけ書いた。
具体的な名前は出さない。
今の段階で、誰が何をできるかまで書くには、見たものが少なすぎる。
それでも、採掘や運搬だけで人を測ると、見落とすものがある。
そのことだけは、報告書に残しておきたかった。
来た時は、僕はただ魔石を見に来たつもりだった。
でも、今は違う。
魔石は、石のまま勝手に町を巡るわけではない。
そういうことを、僕はこの町でようやく知り始めたのだと思う。
◇
午後、僕は報告書の一部をオスカーに見てもらうことにした。
滞在場所の一室に来たオスカーは、いつものように書きつけを受け取ると、淡々と目を通していく。
表情はほとんど変わらない。
けれど、風試作の項目に入ったところで、指先が止まった。
「こちらは、表現を分けた方がよいでしょう」
「やっぱり、まだ大きく書きすぎていますか」
「弱い風が確認された、という記録は残せます」
オスカーは紙の端を指で示した。
「ただし、風属性魔石の加工に利用可能、とは書けません。現時点では、実用化には課題あり、という扱いが妥当です」
「水気が混ざること、風が弱いこと、安定しないこと、ですね」
「はい。加えて、条件の再現性も確認できていません。水量、管の角度、箱の深さ、空気の逃げ道。記録すべき項目が多い」
オスカーらしい答えだった。
そのおかげで、どこまで書けばいいのか見えてくる。
「では、弱い風が出た事実と、職人側で改良点を検討中であることまでにします」
「その書き方なら、過大ではありません」
過大ではない。
褒め言葉ではないけれど、今はそれで十分だった。
◇
確認を終える頃には、頭が重くなっていた。
リズに勧められ、僕たちは気分転換と帰還前の確認を兼ねて、町中を歩くことになった。
グレンとミロスが前後を見ながら、リズとニコが近くにつく。
雨の日に初めて歩いたドリスタの道は、どこか硬く、遠く感じた。
今も、町の人が僕へ気軽に声をかけてくるわけではない。
領主家の子息。
実地教育に来ている子ども。
兄カシムのことを、町の人たちはまだ覚えているのかもしれない。
それでも、最初の頃より、視線が刺さる感じは薄い。
倉庫の近くでは、箱を運ぶ人たちがこちらに気づいて道を空けた。
工房区画の通りでは、金属を叩く音と、磨き粉のような匂いが混ざっている。
やがて、滞在中にリズとニコが何度か立ち寄っていた店先に差しかかる。
店先には籠がいくつか置かれ、奥から女性の声がした。
「あら、リズちゃん、ニコくん。もうすぐ帰るんだって?」
声をかけられたリズが、驚いたように足を止める。
ニコも、背筋を伸ばした。
「はい。あと数日で、ヴェルステインに戻る予定です」
リズは丁寧に答えた。
砕けすぎず、それでも、いつもの屋敷の中よりは少し柔らかい声だった。
「そうなの。せっかく顔を覚えたところなのに、またすぐ戻っちゃうなんて寂しいわぁ」
「お世話になりました」
ニコが、照れたように頭を下げる。
女性はにこにこしていたが、その視線がリズの後ろへ向いた瞬間、はっとしたように表情を改めた。
「あっ……失礼しました。ユキア様をお引き止めしてしまって」
「いえ、大丈夫です。気にしないでください」
僕がそう言うと、女性は困ったように笑って、軽く頭を下げた。
僕は少し迷ってから、言葉を続けた。
「リズやニコと仲良くしていただけるのは、僕も嬉しいです」
女性は一瞬だけ目を丸くした。
それから、改めて軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
返事はそれだけだった。
長く話すことも、何かを頼むこともない。
でも、それでよかった。
店先を離れてから、僕は後ろを歩くリズとニコを見た。
リズは、何か悪いことをしたのではないかと考えているように、視線を落としている。
ニコは、まだ照れたように背筋を伸ばしていた。
僕が一人で歩いていたら、あの女性はきっと声をかけなかった。
声をかけたとしても、用件だけを短く済ませたはずだ。
町の人たちは、まだ僕から距離を取っている。
それは分かっている。
けれど、リズとニコは、いつの間にか顔を覚えられていた。
買い物や用事で何度か言葉を交わすうちに、町の人との距離を縮めていたのだろう。
自分一人では縮められなかった距離を、二人が少し縮めてくれていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ありがとう。
けれど、それを口に出すと、リズはきっと困る。
ニコも、何を言われたのか分からず慌てるだろう。
だから、胸の中だけで思うことにした。
「ユキア様?」
リズが、僕の視線に気づいた。
「ううん。何でもない」
「そうですか」
リズは小さく首をかしげた。
ニコは、ますます背筋を伸ばしている。
ミロスが、横で小さく笑った。
「リズちゃんとニコ、町で顔が広くなってるっすね」
「そんなことはありません」
リズが慌てて否定する。
「ぼ、僕も、何度か買い物に来ただけです」
「ただ買い物しただけじゃ、ああは声をかけられないっす」
ミロスは軽く言った。
グレンも周囲を警戒したまま、わずかに頷いたように見えた。
派手なことではない。
町が僕たちを歓迎している、という話でもない。
ただ、少しだけ。
滞在していた時間の分だけ、道の音や、人の顔や、声の距離が変わっていた。
それに気づけただけでも、歩いてよかったと思った。
◇
翌日、僕は報告書の下書きと確認事項を、エーベルトへ見せることになった。
エーベルトは紙の束を見るなり、顔色をわずかに悪くした。
「こ、これは……なかなかの量ですね」
「すみません。見たことを整理していたら、増えてしまいました」
「いえ、少ないよりはよいのです。少ないよりは……確認する者の胃には、多いですが」
エーベルトは困ったように笑い、それを受け取った。
「こちらは、まずドリスタ側で確認いたします。事故の経緯、見学時の記録、工房での試作……どれも、こちらの記録と照らし合わせる必要がありますので」
「お願いします。現場の人に迷惑をかける書き方にはしたくありません」
エーベルトが、少しだけ顔を上げた。
「ユキア様が命じたつもりでなくとも、報告書に残れば、現場も無視はできませんので……。そのあたりをお気にかけていただけるのは、助かります」
弱々しい言い方だった。
けれど、言っていることははっきりしていた。
エーベルトは下書きをそっと揃えた。
「それにしても……無事にお帰りいただけそうなのが、何よりです。そこだけは、本当に」
最後の一言には、少し本音が漏れていた。
これで、報告が終わったわけではない。
父へ提出する前の、下書きの確認だ。
帰還の日は、もう遠くない。
それでも、ひと区切りがついた気がした。




