第28話 四男は治癒魔法の現実を知る
ちょうどその時、扉がもう一度叩かれた。
「失礼いたします。水と、少し食べられそうなものをお持ちしました」
入ってきたのはニコだった。
盆の上には、水と、柔らかく煮た麦の入った薄いスープが載っている。
その後ろには、ミレアも控えていた。
いつものように緊張した様子だけれど、視線は僕の左腕へ向いている。
ニコは部屋の中にラウガとグレンがいるのを見て、一瞬だけ緊張したように背筋を伸ばした。
「あ、あの……お邪魔でしたら、外で待ちます」
「いや、ちょうどいい」
ラウガが軽く言った。
「坊主がどう見つかったか、話すところだ。お前も少し関わってるしな」
「僕が、ですか」
ニコは盆を台へ置きながら、目を丸くした。
「坊主が川へ落ちたあと、グレンが町へ戻った。事故の場所と、川へ落ちたことを伝えたんだ」
ラウガは簡潔に説明を始めた。
「雨の後で水が増えてた。川は東の森の方へ続いてる。子どもが一人で流されたなら、時間をかけるほどまずい。エーベルトがすぐ冒険者ギルドへ緊急依頼を出した」
「ギルドに、ラウガさんたちがいたんですか」
「ああ。雨で予定が崩れてな。ちょうど残ってた」
そこでラウガはニコへ視線を向けた。
「こいつが、昨日飯を食った俺たちを思い出したらしい。まだ町にいるかもしれねえってな」
ニコは慌てて首を振る。
「僕は、ただ……前日にラウガさんたちにお会いしていたので。もしかしたら、まだいらっしゃるかもしれないと思っただけで……」
「十分だろ」
ラウガは短く言った。
「おかげで話が早かった」
ニコは言葉に詰まったように目を伏せた。
褒められ慣れていないのだろう。
僕のそばに立っていたリズが、表情をわずかに和らげた。
「ニコ、ありがとう」
「い、いえ。僕は何も……」
「でも、思い出してくれたから、ラウガさんたちにつながったんだよね」
「……はい」
ニコは控えめに頷いた。
ラウガは話を戻す。
「俺たちは川沿いに下ってたんだが、途中で森が騒がしくなった」
魔獣に襲われたあの時のことだろうか。
「何かがやり合ってる気配があったんで、そっちへ向かったら、坊主がいた。……見つけた時は、かなり危なかったがな」
「……来てくれて、助かりました」
「で、ミレアが治癒魔法をかけた。だが、効果がなかったんだ」
「昨日も、そう言っていましたね」
「ああ。だからフィンが葉を魔力で固めて、左腕に巻いて止血した。それで、町まで戻る時間は稼げた」
「フィンさんにも、お礼を言わないと」
「別にいい。あいつに言えば調子に乗る」
ラウガの言い方に、リズが目を瞬かせた。
ニコも困ったように笑いかけて、すぐに表情を引き締める。
その横で、ミレアが控えめに一歩前へ出た。
「あ、あの……ユキア様。左腕の様子を、確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ミレアは寝台のそばへ来ると、リズへ軽く会釈し、僕の左腕を確かめた。
「痛みはありますか」
「大丈夫です」
「ユキア様。昨日も少しお伝えしましたが、今後、治癒魔法を受ける時は、傷の近くへご自分の魔力を巡らせてください」
「自分の魔力を、ですか」
「はい。治癒魔法は、対象者の魔力を通して傷へ届きます。ですが、ユキア様の場合、その魔力が巡っていなかったため、届かなかったんです」
ミレアは言葉を選ぶように、目線を泳がせた。
「昨日、治癒魔法を受ける前に左腕へ魔力を巡らせたのは、そのためですか」
「はい。そこへ重ねることができました」
僕の魔力は、放っておくと勝手には巡らない。
治癒魔法を受ける時でさえ、そのことを忘れないようにしないといけない。
「それと、今日は左腕だけではなく、身体全体にも少し治癒魔法を通します。打ち身が多いので」
「分かりました」
僕は身体全体を意識して、魔力を巡らせた。
「では、始めます」
ミレアは手をかざした。
左腕の時ほどはっきりした感覚ではない。
温かい布を身体の上へ薄く広げられるような、淡い感覚が肩や背中へ流れていく。
それでも、呼吸がいくらか楽になった。
「……ありがとうございます」
「いえ。無理をされませんよう、今日は休んでください」
最後の言葉だけは、ミレアではなくリズの方が深く頷いていた。
「ユキア様。まずは、お食事を少しだけ召し上がってください」
「分かった。分かったから、リズも後で休んでね」
「……はい」
どこか怪しい返事だった。
でも、今は僕に強く言えるほどの体力もない。
ラウガはその様子を見て、鼻を鳴らした。
「話はここまでだな。坊主、あとは寝てろ」
「でも……」
「気になってたことは、少しは聞けただろ。諦めて寝ろ」
ラウガは軽く手を振った。
「続きは身体が戻ってからだ」
「……分かりました」
反論できなかった。
グレンはもう一度静かに頭を下げ、ラウガとともに部屋を出ていった。
ミレアとニコもそれに続いた。
リズだけが残り、僕が薄いスープを少し口にするのを見守っていた。
温かいものが胃に落ちると、身体の重さが、いくらか和らいだ気がした。
その代わり、眠気が戻ってくる。
「少し、眠りますか」
「うん。……でも、エーベルトさんが来るかもしれないんだよね」
「その時は、わたしが起こします。長くはお話しさせません」
リズの声には、いつもより芯があった。
「頼もしいね」
「今だけです」
リズはそう言って、目を伏せた。
僕は小さく笑い、そのまま目を閉じた。
そのあと、エーベルトが報告書に必要な確認のため、部屋を訪れた。
土砂崩れ、川への落下、森での魔獣、左腕の怪我。
僕は覚えている範囲で短く答えた。
案内役は命に別状がなく、グレンが馬車を止めようとしていたことも確認されているらしい
当然だが、採掘現場の見学は延期になるそうだ。
エーベルトの声は弱々しかったけれど、必要なことは確かに進んでいた。
最後にもう一度頭を下げると、エーベルトは書類を抱えて部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋には静けさが戻った。
「ユキア様。もうお休みください」
リズが、珍しく厳しい声で言った。
「うん。そうするよ」
ふと、ラウガの言葉を思い出す。
強ければ、選べる手は増える。
弱ければ、見えていても届かないものがある。
ラウガの言葉は、グレンだけに向けられたものではないような気がした。
僕も、もっとできることを増やさなければならない。
それは、ただ戦う力という意味ではない。
魔力を身体へ巡らせる力。
思った通りに身体を動かす力。
危険を見極める力。
準備する力。
それから、誰かに頼る時の判断。
無理をしないための線引き。
自分だけでできることと、できないことを――
「ユキア様」
リズの声が近くで聞こえた。
「考え事は、もう少しお身体が楽になってからになさってください」
「……はい」
僕は小さく頷いた。
採掘現場へは、すぐには行けない。
けれど、体調が戻れば、町中の加工場や工房なら見られるかもしれない。
事故の報告も、見学の予定も、きっと見直されることになる。
でも今は、休むしかない。
そう思いながら、僕はリズに促されるまま、もう一度目を閉じた。




