第3話 魔力なし四男は妙な老人と出会う
朝食の後は、いつもの日課だった。
午前は教育の時間。
読み書き、礼法、王国の歴史、領地の基礎。子ども向けとはいえ、貴族の子として覚えることは多い。
僕は勉強が嫌いではない。
むしろ、分からないことが整理されていく感覚は好きだ。
ただ、魔力に関する本だけは、どうにも物足りなかった。
魔力とは、人が持つ力である。
魔力は身体を助け、魔法を支える。
魔力の扱いは訓練によって伸びる。
魔力の少ない者は無理をしないこと。
どの本にも、似たようなことが書いてある。
間違ってはいないのだろう。
でも、僕が知りたいのはそこではない。
なぜ、自分には反応が出ないのか。
なぜ、周りの人たちは当たり前のように魔力を扱えるのか。
そもそも、魔力を使って身体を動かすとは、どういう感覚なのか。
子ども向けの本や屋敷にある基礎資料では、その答えには届かない。
僕は本を閉じて、軽く息を吐いた。
魔力が駄目なら、他のことをするしかない。
そう考えたのは、たぶん逃げではなく、現実的な判断だった。
午後になり、僕は庭へ向かった。
向かった先の庭の隅には、僕がニコに手伝ってもらって作った道具が置いてある。
縄を等間隔に結び、枝で簡単に固定した梯子状の道具。
前の人生で読んだ本では、たしかラダーと呼ばれていたものだ。
それから、跳び縄代わりに使う短い縄。
周りの目には、ただの庭遊びの道具にしか映らないはずだ。
けれど、僕にとっては小さな訓練場だった。
ラダーでは、足を狙った場所へ置き、動き出しや止まり方を整える。
跳び縄では、高く跳ぶことよりも、着地で姿勢を乱さないことを意識する。
詳しい理屈を全部覚えているわけではない。
ただ、こういう練習が、身体を思った通りに動かす助けになることだけは分かっていた。
魔力が身体をどう助けているのか、僕にはまだ分からない。
だからまずは、自分に分かる身体の使い方から始めるしかなかった。
そんなことを考えながら、僕は庭へ続く道を歩いていた。
だから、前をよく見ていなかった。
「わっ」
どん、と軽く何かにぶつかった。
いや、何かではない。人だ。
僕は慌てて一歩下がった。
「す、すみません」
目の前にいたのは、見慣れない老人だった。
痩せた老人だ。
背は少し曲がっている。けれど、弱々しいという印象は薄い。
片足をわずかにかばうように立っていて、身なりも貴族の客人らしくはない。
それなのに、目だけが妙に鋭かった。
屋敷の使用人とも、父の家臣とも違う。
現場の風や土や、もっと危ない何かを知っている人の目だと思った。
「……坊主」
老人が僕を見下ろす。
その声は低く、少しかすれていた。
「怪我はないか」
「はい。大丈夫です。前を見ていなくて、失礼しました」
僕は頭を下げた。
老人は何かを言いかけたようだった。
ただ、僕はそれ以上長居しなかった。
知らない大人にぶつかって、そのまま話し込むのはよろしくない。相手が父の客なら、なおさらだ。
「失礼します」
もう一度軽く頭を下げ、僕は庭の隅へ向かって歩き出した。
背中に視線を感じる。
振り返りたい気持ちはあった。
でも、振り返ると余計に気まずい気がしたので、そのまま歩いた。
しばらくして、後ろから使用人の声が聞こえた。
「エルヴィン様、お待たせいたしました。旦那様がお会いになります」
エルヴィン。
どこかで聞いた名のような気がした。
たしか、使用人たちが噂していた老人の名前だ。
魔物だの、ダンジョンだの、古い魔法だのに詳しい、引退した元冒険者。
父の知人らしいが、屋敷の者たちの話しぶりでは、ただの客というより、どこか扱いに困る変わり者のようだった。
もしかして、あの人だろうか。
僕は足を止めかけたが、やめた。
今さら戻って、「あなたが噂の偏屈老人ですか」と聞くわけにもいかない。
さすがに失礼すぎる。
庭の隅に着き、僕は縄の位置を確かめるふりをしながら、小さく息を吐いた。
変な人だった。
怖いというより、妙に見透かされる感じがした。
もちろん、その時の僕には知る由もなかった。
僕が庭の隅へ戻ったあとも、老人――エルヴィンが、まだこちらを見ていたことを。
そして、その老人が、案内役の使用人に問いかけたことも。
「……今の子は誰だ」
エルヴィンの声が低く響く。
案内役の使用人が、戸惑ったように答えた。
「ユキア様でございます。旦那様の四男でいらっしゃいます」
「四男か」
エルヴィンは庭の方へ目を向けた。
「……あの坊主、魔力の気配がどうも……」
そこで言葉を切る。
まるで、口にした言葉が自分でもしっくりこないようだった。
使用人が、わずかに言葉を詰まらせる。
「はい。少々、その……魔力の扱いが難しいお方でございます」
「魔力足らずか」
「屋敷では……そのように見る者もおります」
エルヴィンは黙った。
庭の隅で、僕はラダーの最初の枠へ、そっと足を置く。
右足、左足。
足の置き場を確かめるように、ゆっくりと。
「魔力足らず、ねぇ」
その声には、納得ではなく、わずかな引っかかりが混じっていた。
「……妙な坊主だ」
その言葉が聞こえたわけではない。
けれど、僕はなぜか背中が少しだけむずむずした。
平穏な一日になるはずだった。
朝は騒がしく、兄弟はいつも通りで、食事には物足りなさがあって、午後はいつもの庭遊び。
けれど、その日。
僕の静かな日常の端に、ひとりの偏屈そうな老人が引っかかった。
そしてたぶん、僕もまた、その老人の中に引っかかってしまったのだと思う。




