第26話 四男は治癒魔法を受ける
水の音がしない。
最初にそう思った。
耳に届くのは、川の流れではなく、布が擦れるような小さな音だった。
どこかで、薪が小さく爆ぜる音がした。火の音だろうか。
鼻の奥には、湿った土ではなく、温まった布の匂いと、薬草に似た匂いがあった。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
見えたのは、木の天井だった。
枝葉の隙間から差す光でも、濡れた地面でもない。
そこにあるのは、整えられた梁と、薄暗い部屋の中で揺れる灯りだった。
……部屋?
ぼんやりした頭でそう考えた瞬間、左腕の奥が、ずきりと熱を持った。
「っ……」
息を吸い込む。
動かそうとしたわけではない。ただ意識を向けただけで、肘の少し下から手首にかけて、重く引きつるような感覚が走った。
そこでようやく、記憶が戻ってきた。
川。
濡れた森。
魔獣。
左腕を裂かれた痛み。
水属性魔石で傷を洗い、布を巻き、聞き覚えのある大声を聞いたところで、意識が途切れた。
「……ラウガ、さん」
声は、思ったよりかすれていた。
その声に反応するように、寝台のそばで椅子が小さく鳴った。
「ユキア様」
名前を呼ぶリズの声が、ほんの少しだけ震えていた。
顔を向けると、リズが寝台の横に座っていた。
髪はいつもより少し乱れ、目元にも疲れが残っている。
両手を膝の上で握り、こちらを見る姿勢は、むしろ無理にでも崩れまいとしているように見えた。
「……リズ?」
「はい。ここにいます」
その言葉を聞いて、胸の奥から、ふっと力が抜けた。
助かったのか。
いや、助けられた。
そう思った途端、身体中の重さを思い出した。
腕だけではない。肩も背中も、脚も、どこかへ打ちつけられた後のように鈍く痛む。
「ここは……ドリスタの、部屋?」
「はい。滞在場所のお部屋です。ラウガさんたちが、ユキア様を連れ帰ってくださいました」
「ラウガさんたち……」
そこまで言ったところで、部屋の奥から別の声がした。
「目が覚めましたか」
ミレアだった。
「ユキア様。左腕へ、魔力を巡らせられますか」
「……今、ですか」
頭が、まだ状況に追いついていなかった。
目を覚ましたばかりで、ここがどこなのかも、誰がいるのかも、まだはっきりしない。
そのまま魔力を巡らせるよう言われても、すぐには反応できなかった。
ミレアは唇を引き結んだ。
「はい。今でないと、傷に治癒魔法が届きません」
「治癒魔法……」
「説明はあとだ」
部屋の壁際から、低い声がした。
ラウガが腕を組んで立っていた。
靴やズボンの裾には乾ききらない泥が残っている。
森の中を歩き回ってきたことだけはすぐに分かった。
「坊主、今は言われた通りにしろ。寝ぼけた頭で考えてる暇はねえ」
「……はい」
返事をしながら、僕は左腕を見下ろした。
けれど今は、感覚がつかみにくかった。
身体が重い。
眠い。
傷の奥が熱く、そこだけが自分の身体ではないように感じる。
それでも、やらなければ治らないらしい。
僕は深く息を吸い、左腕へ意識を向けた。
痛みのせいで感覚はひどく乱れている。
それでも、ほどけそうになる魔力の流れを、傷のある場所へゆっくり通していった。
「っ……」
魔力が傷の近くへ触れた瞬間、腕の奥が強く引きつった。
痛い。
けれど、通らないわけではない。
途中でほどけそうになる感覚を、息を止めるようにして押さえる。
細い流れが、左腕の内側へ届いた。
「……通りました」
ミレアが小さく息を呑んだ。
「このまま、少しだけ保ってください」
彼女の手が、僕の左腕の上へかざされる。
何かが外から強く押し込まれる感覚ではなかった。
むしろ、左腕の内側に通した細い魔力へ、温かいものがそっと重なる。
傷の奥で固まっていた痛みが、ゆっくりほどけていくようだった。
ふと、右手に温かいものが触れた。
見ると、リズが僕の右手に、そっと指先を添えていた。
目を伏せ、何かを祈るように。
けれど、治療を妨げないよう、触れているだけの弱い力だった。
その手は、わずかに震えている。
「……速い」
ミレアの声が、ほとんど息のように漏れた。
「さっきまで、細かったのに……」
次の瞬間、彼女ははっとしたように口を閉じる。
「ユキア様、そのままです。もう少しだけ」
「はい……」
頷こうとして、頭が揺れた。
思った以上に疲れている。
左腕へ魔力を保つだけで、全身から力が抜けていくようだった。
けれど、傷の痛みは少しずつ形を変えていた。
鋭く裂かれた痛みではなく、引きつるような違和感へ変わっていく。
ミレアが布をほどくと、その下から幅の広い葉のようなものが見えた。
葉は乾いているのに、傷口の周りへぴたりと張りついている。普通の薬草にも、包帯にも見えない。
「……この葉は?」
思わずそう尋ねると、ラウガが呆れたように鼻を鳴らした。
「こんな時でも、そこが気になるのかよ」
フィンが近くから覗き込み、軽く肩をすくめた。
「僕が魔力を通して少し固めた葉っぱだよ。止血にはなるけど、治せるわけじゃないからね」
「十分です。あれがなかったら、町まで戻る間にもっと悪くなっていました」
フィンは少し得意げに笑う。
「ほら、役に立ったでしょ。僕、こう見えても仕事はできるんだよ」
「お前は、黙ってりゃ頼れるんだがな」
「君がそれを言うかな」
二人のやり取りは軽い。
けれど、その軽さに、少し救われた。
部屋の中の空気は、まだ張りつめている。
リズもミレアも、部屋の隅に控えている見慣れない使用人たちも、静かに息を詰めているようだった。
それだけ、自分は危なかったのだろう。
そう考えたところで、ミレアの手が離れた。
「出血は止まりました。傷も塞がっています」
「治ったんですか」
「はい。ただ、まだ違和感は残ると思いますので、あまり左腕を使わないでください」
言われて、僕は指先を動かした。
動く。
けれど、強く握ろうとすると、腕の奥がきゅっと引きつった。
「……たしかに、少し変な感じがします」
「無理はしないでください。……それにしても、効きが早いですね」
ミレアは小さく言ってから、慌てて首を振った。
「あ、いえ。すみません。今は、休んでください」
「ミレアさん」
「はい」
「ありがとうございます」
僕がそう言うと、ミレアは一瞬だけ目を見開いた。
それから、少し困ったように視線を落とす。
「わたし一人の力ではありません。フィンさんの処置も、ラウガさんが急いで運んでくれたことも大きくて……」
「坊主、もう寝ろ」
ラウガが短く言う。
「聞きたいことはあるだろうが、その顔で話を聞いても半分も覚えちゃいねえ」
「……そう、ですね」
本当は、聞きたいことはいくらでもあった。
グレンは無事なのか。
案内役はどうなったのか。
あの魔獣は何だったのか。
左目に古傷のある、大きな獣はどうなったのか。
けれど、まぶたが重い。
考えようとすると、頭の中に霧がかかったようになる。
「ユキア様。お休みください」
リズが静かに言った。
その声は、いつもより近く聞こえた。
「……うん」
僕は返事をしたつもりだった。
けれど、声になったかどうかは分からない。
リズの気配と、部屋の灯りの温かさを感じながら、僕の意識はまたゆっくりと沈んでいった。
◇
次に目を覚ました時、部屋はさらに静かになっていた。
窓の外は暗い。
左腕の痛みは、もうなくなっていた。
ただ、腕を動かそうとすると、皮膚の下に、薄く突っ張るような違和感が残っている
僕はそっと息を吐いた。
生きている。
それを、今さらのように実感した。
その時、扉が静かに開いた。
薄く開いた隙間から、リズがそっと中を覗く。
替えの布を手にしていた。起こさないようにしているのか、足音もほとんど聞こえない。
けれど、僕と目が合った瞬間、リズは小さく息を呑んだ。
「……ユキア様。起きていらしたんですか」
髪は整え直されていたけれど、目元の疲れは隠せていなかった。
頬の色も、いつもより薄く見える。
「リズ、寝てないよね」
「少し、休みました」
少し、という言い方が、まったく休めていない時のそれだった。
「夜遅いし、もう寝ていいよ。僕は大丈夫だから」
「はい。……でも、眠れないので、大丈夫です」
「それは、大丈夫とは言わないと思う」
そう言うと、リズは困ったように目を伏せた。
責めたいわけではない。
ただ、彼女はこういう時、自分の疲れを後回しにしすぎる。
「今は、少し側にいさせてください」
声は控えめだった。
けれど、いつものようにただ遠慮しているだけの声ではなかった。
僕は迷った末に、小さく頷いた。
「……少しだけだよ」
「はい。ありがとうございます」
リズが寝台のそばへ静かに近づく。
その気配は、森で聞いた川の音よりずっと静かで、ずっと温かかった。
僕はその気配を感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。




