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ずれた四男の異世界暮らし ~僕の当たり前は、魔力社会の盲点でした~  作者: ただのゆきや
第2章 魔石鉱山町ドリスタ

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第25話 四男は自分の限界を知る

「……嘘だろ」


 もう一度、短剣を握り直そうとした。

 けれど、左腕に力が入らない。

 脚も震えて、立ち上がるだけで精一杯だった。


 もう一度戦えるとは、とても思えない。


 僕は痛む腕を押さえ、倒木の根元へ身を滑り込ませた。

 息まで消せるわけではない。血の匂いだって残る。

 それでも、今の僕にできるのは、それくらいだった。


 茂みの向こうから、もう一体の獣が姿を現した。


 さっきとよく似た体格。

 濡れた灰褐色の毛。

 泥へ食い込む、鋭い爪。


 魔獣は、倒れた一体へ鼻先を寄せた。

 短く匂いを嗅ぐようにしてから、ゆっくりと顔を上げる。


 その目が、僕へ向いた。


 見つかる。


 今度こそ、逃げ切れない。


 短剣を握る右手に、力を込めようとした。


 けれど、魔獣は僕へ飛びかかってこなかった。


 ぴくりと耳を動かし、突然、僕とは違う方角へ顔を向けた。


 直後、地面を震わせるような音が響いた。


 茂みの奥で、枝葉が大きく弾ける。


 何かが、突っ込んでくる。


 魔獣が横へ跳んだ。


 そのすぐ後を、黒褐色の大きな塊が駆け抜けた。


 熊に似た、巨大な獣だった。


 四つ足で立っているだけなのに、魔獣よりずっと大きい。

 分厚い毛並みの下には、岩のような身体がある。

 振り上げられた前脚の爪は、僕の短剣などとは比べものにならないほど恐ろしい武器に見えた。


 そして、左目の上から頬へかけて、白い古傷が斜めに走っていた。


 大型獣は、突進を避けた魔獣を追うように前脚を振るった。


 魔獣が吠え、地面を蹴る。

 鋭い爪が大型獣の肩口へ向かう。


 けれど、大型獣は怯まなかった。


 振り下ろされた前脚が、魔獣の身体を横殴りに弾き飛ばす。

 魔獣は泥の上を転がり、それでもすぐに起き上がって唸り返した。


 獣同士が争う音が、木立に響き渡る。


 動け。

 逃げろ。


 頭では分かっているのに、身体が固まっていた。


 その時、大型獣の顔が、わずかにこちらへ向いた。


 左目を横切る白い傷の下で、その目が僕を捉える。


 気づかれた。


 喉が詰まり、息すらできなくなる。


 けれど、大型獣は僕へ向かってこなかった。


 低く鼻を鳴らした次の瞬間、泥を蹴り上げ、再び魔獣へ飛びかかった。


 見逃したのか。

 それとも、僕は後回しにされただけなのか。


 分からない。

 分からないけれど、今しかない。


 僕は立ち上がった。

 左腕を押さえ、無我夢中で脚へ魔力を巡らせる。


 走った。


 背後で、魔獣の吠える声と、低く重い咆哮が重なった。

 枝が頬へ当たる。濡れた地面で足が滑る。

 それでも、振り返らなかった。


          ◇


 どれほど走ったのか分からない。


 背後の争う音が聞こえなくなった頃、僕の脚はとうとう前へ出なくなった。

 太い木の根元へ手をつき、そのまま身体を預ける。


「はっ……は……」


 息が苦しい。

 胸が痛い。

 足は泥の中へ沈んだように重く、全身の震えが止まらなかった。


 左腕を押さえていた右手を離す。

 手のひらが血で濡れていた。


 思ったより、傷が深い。


 喉が焼けるように渇いていた。

 川へ流されて、走って、戦って、また走った。

 服は濡れたままなのに、身体の内側だけが乾いていくようだった。


 水。


 そう考えた瞬間、革袋のことを思い出した。

 僕は震える手で袋を開き、中から水属性魔石を探し出した。


 掌の上の石へ、わずかな魔力を流し込む。


 透明な水が、掌へ細く流れ出た。


 考える余裕はなかった。

 僕はそれを口へ運ぶ。


 冷たさが、乾いた舌と喉へ触れた。

 一瞬だけ、ひどく気持ちよかった。


 けれど、飲み込んだはずの水は、身体へ落ちていく感覚を残さなかった。

 喉の渇きは、少しも軽くならない。


「あ……」


 そこでようやく、知っていたはずのことを思い出した。


 魔力で生まれる水は、本物の水ではない。

 濡らしたり、冷やしたり、洗い流したりはできても、飲み水にはならない。


「……こんな時に、確認したくなかったな」


 笑う余裕はなかった。

 情けなさより、落胆が重かった。


 ただ、掌に残った水の感触を見て、視線が左腕へ落ちた。


 飲めないだけで、使えないわけではない。


 僕はもう一度、水属性魔石へ魔力を流した。

 今度は、左腕の傷へ細い水をかける。


「っ……!」


 痛みに身体が跳ねた。

 泥と血が流れ、裂かれた傷がはっきり見えた。

 洗い流したそばから、また赤い血がにじみ出てくる。


 治るわけではない。

 当たり前だ。


 僕は歯を食いしばり、内側に着ていた服の袖を右手で引っ張った。

 うまく裂けず、何度か指が滑る。

 最後は残った魔力まで振り絞り、布を引きちぎった。


 その布を、傷の上に巻きつける。

 片手では思うように締められない。

 端を噛んで引き、何とか結び目を作った。


 布にはすぐ血が滲んだ。

 それでも、さっきのように流れ続けるよりはましに見える。


「……これで、少しだけ」


 自分へ言い聞かせるように呟く。


 水属性魔石は、役に立った。

 けれど、喉の渇きはどうにもならない。


 しばらく、何も考えられなかった。


 ただ荒い呼吸を繰り返しているうちに、少しずつ周囲の音が耳へ戻ってきた。


 さっきまで意識する余裕がなかった音の中に、かすかな水音が混じっている気がした。

 川のように大きな流れではない。

 もう少し細く、近い音。


 本物の水があるかもしれない。


 川へ戻る方が確実なのかもしれないが、もう方向が分からない。

 少なくとも、聞こえる水音を辿るしかなかった。


 僕は木の幹に手をつき、立ち上がった。

 膝が笑う。視界が揺れる。


 一歩。

 もう一歩。


 水音のする方へ進む。


 あの大きな獣は、僕を見ていた。

 それなのに、襲ってこなかった。


 助けてくれたのだろうか。


「……いや、魔獣の方を、優先しただけだよね……」


 声にしたはずなのに、自分でもよく聞こえなかった。


 木々の向こうで、水が流れている。

 そこまで行けば、本物の水を口にできる。

 もしかしたら、見つけてもらいやすい場所にも出られる。


 そう思っていたのに、足から急に力が抜けた。


 地面へ手をつこうとして、左腕の痛みで支えきれない。

 膝をつき、倒れかけた身体を右手だけで受け止めた。


 音がした。


 枝を踏み折る音。

 何かが、こちらへ走ってくる音。


 また、何か来たのかもしれない。

 逃げなければ。


 そう考えたのに、身体は動かなかった。

 短剣を抜こうとする手にも、もう力が入らない。


「……動け」


 自分へ言い聞かせる。

 けれど、視界の端から暗くなっていく。


 足音が近づいた。


 そして、木々の向こうから聞き覚えのある大声が響いた。


「坊主!」


 ラウガだ。


 その声に気づいた途端、張り詰めていたものが一気に切れた。


 よかった。


 それだけを思って、僕の意識は暗闇へ沈んでいった。


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