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ずれた四男の異世界暮らし ~僕の当たり前は、魔力社会の盲点でした~  作者: ただのゆきや
第2章 魔石鉱山町ドリスタ

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第24話 四男は濡れた森で生き延びたい

「……そうだ。落ちたんだ」


 川岸で、僕は小さく息を吐いた。


 リズとニコは一緒にいなかった。

 そのことだけは、本当によかった。


 グレンの声は聞こえた。

 なら、僕が川へ落ちたことは分かっているはずだ。

 彼が無事かどうかは分からない。けれど、きっと誰かには知らせてくれる。


 探しに来てくれる。


「……それまで、僕が持てばいい」


 そう口に出すと、少しだけ思考が整った。


 空を見上げる。

 木々の隙間から見える太陽は、だいぶ高い。

 朝からどれほど時間が経ったのか、川を流されてどれほど意識を失っていたのかは分からない。

 それでも、少なくとも暗くなるまでには時間がありそうだった。


 次に、自分の身体を確かめる。

 肩と背中は痛む。腕や脚にも細かな擦り傷がある。

 けれど、立てないほどではない。


 懐へ手をやると、革の鞘に収まった短剣が残っていた。

 濡れているが、抜け落ちてはいない。


 外套の内側を探る。

 革袋にも指が触れた。


「よかった……」


 エルヴィンから受け取った、小さな属性魔石の入った革袋。

 全部が無事かどうかまでは、今すぐ広げて確かめる気にはなれない。

 それでも、袋そのものが残っているだけで心強かった。


 問題は、服がすっかり濡れていることだった。


 立ち上がっただけで、身体の震えがはっきり分かった。

 今は歩ける。けれど、このまま冷え続ければ、動けなくなるかもしれない。


 川を遡れば、落ちた場所へ戻れるだろうか。


 僕は流れの上流へ目を向けた。

 川は雨を受けたせいか、水量が多い。川沿いの地面も滑りやすそうで、ところどころ斜面がむき出しになっていた。


 どれくらい流されたのかも分からないのに、一人で戻ろうとするのは危ない。

 探す側だって、まずは川下へ向かうはずだ。


 なら、川から離れすぎず、見つけてもらえる場所で待つ。


 そのためにも、火が欲しかった。

 暖を取れるし、煙が上がれば、見つけてもらいやすくなる。


 僕は濡れた袖を握って水気を絞ると、川の音が聞こえる範囲で木立へ入った。


 地面に落ちている枝は、どれも濡れていた。

 持ち上げるだけで、指に湿った冷たさが移る。


「さすがに、都合よく乾いた薪が転がってるわけはないか……」


 革袋から、小さな火属性魔石を取り出した。

 手から魔石へと魔力を流す。


 石の先に、小さな火が灯った。


 けれど、濡れた枝の先へ近づけても、じゅ、と頼りない音がしただけだった。

 白い煙がほんの少し上がり、火はすぐに弱くなる。


 練習用の小さな魔石で、雨上がりの枝を燃やすのは難しいらしい。

 使いこなせない僕にも、かなり問題はありそうだけれど。


 僕は火を消し、魔石を革袋へ戻した。

 無駄に使い続けるわけにはいかない。


 倒木の下や、太い根の陰なら、少しくらい乾いた枝が残っているかもしれない。


 震える指を擦り合わせながら、僕は辺りを探した。


 やがて、苔のついた倒木の下に、細い枝が何本か引っかかっているのが見えた。

 雨を直接受けていない部分は、表面が少し乾いて見える。


「これなら……」


 膝をつき、腕を伸ばした。

 枝の束を掴み、引き寄せる。


 ぱきり、と乾いた音がした。


 その音だけが、濡れた木立の中で妙に大きく響いた。


 僕の手が止まる。


 川の音に混じって、別の音がした。


 葉が擦れる。

 泥を踏む、軽い音。


 ゆっくりと顔を上げる。


 倒木の向こう、低い茂みの間に、四つ足の獣が立っていた。


 大きさは、中型の犬くらいだろうか。

 濡れた灰褐色の毛が身体へ張りつき、その下の筋肉がはっきり浮いている。

 爪は、泥の上へ食い込むほど長い。牙の覗く口からは、細い唸りが漏れていた。


 おそらく、魔獣だ。


 魔力の気配を読むことに慣れているわけではない。

 それでも、あれの周りにまとわりつくものが、ただの獣とは違うことくらいは分かった。


 空気が重い。

 肌の上を、冷たいものが這うような感覚がする。


 僕が魔力を身体へ巡らせようとする時の感覚とは、まるで違う。

 もっと濁っていて、荒くて、触れてはいけないもののようだった。


 獣はすぐには飛びかかってこなかった。


 低く唸りながら、こちらを見据えている。

 濡れた前脚が泥の上をわずかに擦り、身体がゆっくりと沈んだ。


 見つかっている。


 ただ、襲いかかるのではなく、こちらの動きを窺っているのだ。

 怪我をしているのか。逃げるのか。抵抗するのか。

 それを確かめるかのように、魔獣はじっと僕を見ていた。


 喉の奥が乾く。


 このまま睨み合っていても、助かるとは思えない。

 逃げるなら、先に動くしかない。


 僕は、意識を両脚へ向け、魔力を巡らせる。


 その瞬間、魔獣の反応が変わった。


 唸り声が低く沈み、泥へ食い込んでいた爪が深く沈む。

 こちらを見ていた目が、今度こそ僕を獲物として捉えたように細くなった。


 まずい。


「――っ!」


 迷う暇もなく、魔獣が地面を蹴った。


 速い。


 僕も横へ飛んだ。

 魔力を乗せた脚が、濡れた地面を強く蹴り、身体を無理やり横へ運ぶ。


 直後、さっきまで僕がいた場所を爪が薙いだ。


 泥が跳ねる。

 僕は転がるように太い木の裏へ回り込んだ。


 魔力が途切れる。

 息が乱れる。

 心臓が痛いほど鳴っている。


 けれど、息を整えている場合ではなかった。


 木の向こうから、低い唸り声が聞こえた。


 けれど、魔獣はすぐには飛び込んでこなかった。


 泥を踏む音が、一度止まる。

 続いて、鼻を鳴らす音がした。


 僕がこの木の裏へ逃げ込んだことは、見えていたはずだ。

 それなのに、さっきのように襲いかかってはこない。


 もしかして、僕の場所を正確には捉えられていないのか。


 少なくとも、魔力を脚へ巡らせた瞬間、あいつは飛びかかってきた。


 なら、ここでまた魔力を使えば、すぐに気づかれるかもしれない。


 逃げたい。

 今すぐ、この場から離れたい。


 でも、魔力を使わずに逃げ切れる気はしない。

 使えば見つかるかもしれない。

 使わなければ、追いつかれる。


 僕は、懐の短剣へ手を伸ばした。


 短剣を抜く。

 濡れた柄が滑りそうで、両手で握り直した。


 木の向こうから、獣が回り込んでくる音がした。

 息遣いが近い。


 手が震える。

 脚だって、今すぐ逃げろと言っている。


 木の端から、灰褐色の鼻先が見えた。

 続いて、牙の並んだ口が覗く。


 ……行くなら、今しかない!


 僕は木の陰から飛び出した。


 同時に、脚と腕へ一気に魔力を巡らせる。

 身体が、さっきまでの震えを置き去りにするように前へ出た。


 ――魔獣の目が、ぎらりとこちらへ向く。


 気づかれた。


 けれど、もう距離はなかった。


「ああっ!」


 短剣を突き出した。


 喉を狙ったつもりだった。

 魔獣が身体をひねり、刃は狙いを外れて首の脇へ深く突き刺さる。


 魔獣が吠えた。

 近すぎて、音が身体の中まで響く。


 次の瞬間、左腕に焼けるような痛みが走った。


「っ、ぐっ!」


 爪で裂かれた。

 衝撃で腕が弾かれ、短剣の柄から指が離れかける。


 離れたら、死ぬ。


 頭で考えるより先に、それだけは分かった。


 僕は魔獣の身体へしがみつくように踏ん張った。

 短剣を抜かない。抜けない。

 ただ、突き刺さった刃を、力の限り首筋へ押し引く。


 腕へ巡らせた魔力がほどけかける。

 消えそうになる感覚を、もう一度だけ掴み直した。


「倒れてくれ……っ!」


 魔獣が大きく暴れた。

 肩が木へぶつかり、息が潰れる。

 それでも柄を離さなかった。


 やがて、魔獣の身体から力が抜けた。


 重い塊が泥の上へ崩れ落ちる。

 僕も引きずられるように膝をついた。


 すぐには、手を離せなかった。

 動かなくなった魔獣の身体と、短剣の柄を握った自分の手を、ただ呆然と見つめる。


 雨上がりの木立に、川の音が戻ってきた。


「……倒した、のか?」


 声が震えた。


 勝った、という気はしなかった。

 ただ、今すぐ噛み殺されることだけはなくなった。


 短剣から手を離した途端、左腕の痛みが一気に押し寄せた。

 袖が裂け、その下を血が流れている。

 手のひらにも、短剣にも、魔獣の血と自分の血が混ざっていた。


 足元が揺れた。

 川へ落ちた時の痛み。濡れた身体の冷え。さっき無理に巡らせた魔力。

 全部が、遅れて身体へ戻ってきたようだった。


 茂みの奥で、枝が折れた。


 僕は息を呑む。


 さっきの魔獣は、目の前で動かない。

 なら、今の音は別のものだ。


 再び、低い唸り声が、木々の間から響いた。


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