第23話 四男は採掘現場へまだ辿り着けない
水の音が、近い。
近いというより、すぐ隣だ。
ざあ、と途切れることなく流れる音が、ぼんやりした意識へ入り込んでくる。
冷たい。
ずぶ濡れの服が身体へ貼りつき、頬も、手も、背中も冷え切っている。
僕は目を開けた。
最初に見えたのは、濡れた砂利だった。
次に、泥の混じった地面と、すぐ向こうを勢いよく流れる川。
「……川?」
声に出した途端、頭の奥がずきりと痛んだ。
肩も背中も、どこかへ打ちつけたように重い。指先へ力を込め、身体を起こそうとすると、手のひらが泥と砂利へ沈み込んだ。
「っ……」
息が詰まる。
痛い。けれど、手は動く。脚も、感覚はある。
膝を立て、ゆっくりと上体を起こした。
濡れた髪から水が滴り、顎を伝って落ちていく。
周囲には木々が生えていた。
雨上がりの葉が陽を弾き、その下では、湿った地面が黒く沈んでいる。
ドリスタの町並みも、昨日見た倉庫も、採掘現場の入口らしいものも見えない。
「……ここ、どこだろう」
そう呟いたところで、途切れていた記憶が、少しずつ戻ってきた。
◇
朝、目を覚ました時、雨音は消えていた。
ようやく、昨日オスカーから聞いた、魔石が掘り出される場所を見られる。
そう思うと、支度をする手が、自然と早くなっていた。
採掘現場へ向かうのは、僕と護衛のグレン、それに現地の案内役だけだった。
リズとニコは、滞在場所に残っている。
僕は、用意された馬車へ乗り込んだ。
案内役が御者台に座り、グレンは馬車の後方に付いた。
町を出ると、馬車は濡れた道をゆっくりと進み始めた。
窓の外には、雨粒を残した木々と、湿った地面が続いていた。
時折、道の脇に荷車の車輪が残した深い跡が見える。
それを眺めながら、僕はこれから見ることになる採掘現場へ思いを巡らせていた。
掘り出されたばかりの魔石は、どんな姿をしているのだろう。
昨日教わった加工や検査に回される前に、現場ではどんな人たちが、どんな手順で石を取り出しているのだろう。
そんなことを考えていた、その時だった。
遠くで、低い音が響いた。
最初は、雷でも鳴ったのかと思った。
けれど、空は明るい。
それに、音は上からではなく、もっと近いところから、地面を震わせるように聞こえてきた。
「……何の音だろう」
窓の外へ目を向けた次の瞬間、山側の木々が大きく揺れた。
枝が跳ねる。
幹が傾く。
その下から、濡れた土と石が、一斉に道へ流れ落ちてきた。
「止まれ――いや、進め!」
御者台から、案内役の切迫した声が聞こえた。
馬が大きく嘶き、馬車が乱暴に揺れる。
進むのか、止まるのか。案内役が必死に手綱を操ろうとしているのが、声と振動だけでも分かった。
けれど、間に合わなかった。
次の瞬間、馬車の横へ何かが激しくぶつかった。
「っ!」
身体が座席から投げ出される。
僕は反対側の壁へ肩を打ちつけ、息が詰まった。
木の軋む音が響く。
馬車が、大きく傾いた。
窓の外に見えていた道が、斜めにずれていく。
足元に置かれていた荷物が、床の上を滑り、崖側の壁へぶつかった。
「ユキア様!」
外から、グレンの声がした。
傾いた車内で身を起こし、山側の窓へ手を伸ばす。
けれど、床はもうまともに立てる角度ではなかった。座席の縁へ指をかけ、身体を引き上げようとしても、濡れた靴が床を滑る。
「山側へ! こちら側へ上がってください!」
「はい……!」
グレンの声に答え、僕は座席を掴んだ。
腕に力を込め、上になった山側へ身体を引き寄せる。
その時、馬車の外で、誰かが息を詰めるような声を漏らした。
崖側へ滑り落ちかけていた馬車の動きが、かろうじて止まる。
前方では、案内役が馬を必死に制御しているらしく、荒い声と馬の嘶きが聞こえた。
グレンが、止めてくれている。
あと少し。
山側の扉まで届けば、外へ出られる。
そう思った瞬間だった。
山の方から、木の裂けるような重い音が響いた。
「ユキア様、掴まってください!」
グレンの叫びと同時に、何か硬いものが車体へぶつかった。
身体が浮いた。
掴んでいた座席から、指が外れる。
傾いた床の上を、僕は崖側へ滑り落ちた。
「待っ――」
崖側の扉へ背中からぶつかる。
留め具が外れたのか、扉が勢いよく開いた。
開いた扉の向こう、崖下には濁った川の流れが見えた。
まずい。
咄嗟に扉枠へ手を伸ばした。
けれど、指先は木の縁を掠めただけだった。
「ユキア様!」
グレンの叫び声が聞こえた。
次の瞬間、身体が馬車の外へ投げ出された。
上の方から、グレンが僕の名を叫んでいる。
その声も、崩れる土の音に呑まれて遠くなっていった。
次に見えたのは、迫ってくる濁った水面だった。
咄嗟に身体を庇うように、全身に魔力を巡らせようとする。
冷たい水が、全身を叩いた。
水の中で上下が分からなくなる。
手を伸ばしても、濁った水と流される枝にぶつかるだけだ。
岩らしきものへ肩を打ちつけた。
息が漏れ、視界が白く弾けた。
それから先は、何も覚えていない。




