第19話 四男は鉱山町へ足を踏み入れる
ぽつ、ぽつ、という程度ではなかった。
朝から降り始めた雨は、馬車の屋根を途切れなく叩き続けている。
昨日までの土の道はすっかり濃い色に濡れ、車輪が通るたびに深い跡を残していた。
カドベ村を発ってから、もうしばらく経つ。
窓の外に広がっているのは、雨の幕と、ぬかるんだ街道と、その上を黙々と進む荷車ばかりだった。
「ユキア様。寒くはありませんか?」
向かいに座るリズが、心配そうに尋ねてきた。
膝に籠を抱え、水差しや替えの布だけでなく、濡れた時に使う乾いた布も用意されていた。
「大丈夫。リズの方こそ、外に出た時に濡れただろう?」
「わたしは大丈夫です。出発の時だけですから」
そう言って微笑むけれど、外套の裾にはまだわずかに湿り気が残っている。
馬車が、ぐらりと揺れた。
「わっ」
思わず座席へ手をつく。
雨で道が悪くなっている分、昨日より揺れが大きい。
「道が悪くなっていますね」
「うん。でも、昨日より荷車が増えている気がする」
雨除けの布を掛けた荷車。木箱を積んだ荷車。外套をまとい、頭を低くして歩く人たち。
そのどれもが、この先の町と関わって動いているように見えた。
その時、前方から声が聞こえた。
「ユキア様! まもなく、町が見えてまいります!」
雨音に負けないように張られた、グレンの声だった。
僕は思わず窓へ身を寄せる。
「ユキア様、お召し物が濡れてしまいます」
「あ、ごめん」
リズに止められ、慌てて身体を引いた。
初めての鉱山町が、もうすぐそこなのだ。
◇
雨の向こうに、低い屋根の集まりが見えてきた。
最初に目に入ったのは、大きな建物ではなく、町の入口近くに集まる荷車だった。
軒の深い建物の前では、雨に濡れないよう声を掛け合いながら、荷が降ろされている。
町の中へ入っても、人の動きは止まっていなかった。
荷を運ぶ人。荷を数える人。布を掛け直す人。道を急ぐ人。
ヴェルステインやカドベ村とは違う。
町全体が、大きな仕事の途中にあるように見えた。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。
「雨の中でも、ずいぶん人が動いていますね」
「雨だからといって、止められる仕事ばかりじゃないのかもしれないね」
そう答えながら、僕は窓の外から目が離せなかった。
馬車に気づいた人々が、道の端へ下がる。
礼を失しているわけではない。けれど、何人かの表情は、歓迎というより、少し身構えているようにも見えた。
領主家の馬車だからだろうか。
それとも、仕事の途中に僕たちが入ってきて、気を遣わせてしまっているだけなのかもしれない。
僕はまだ、この町のことを何も知らない。
それ以上を考える前に、馬車がゆっくりと速度を落とした。
「ユキア様、到着いたしました」
グレンの声に、僕は背筋を伸ばした。
楽しくても、ここからは遊びではない。
父から命じられたのは、この町を見て、聞いて、学び、報告としてまとめることだ。
扉が開き、湿った空気が馬車の中へ入り込んでくる。
リズが足元を確認してくれたので、僕は外套を整えて馬車から降りた。
屋根の下には、数人が待っていた。
その中央にいる男が、慌てたように一歩前へ出る。
「お、お待ちしておりました、ユキア様」
男は深く礼を取った。
「私は、このドリスタを預かっております、エーベルトでございます」
鉱山代官。
この町全体の管理を任されている人だ。
「ユキア・ヴァンハルトです。一か月ほど、お世話になります」
「は、はい。こちらこそ、その……できる限り、滞りなくご案内させていただきます」
エーベルトは丁寧に答えた後、雨の向こうへちらりと視線を向けた。
僕だけではなく、濡れた護衛や荷物のことも気にしているようだった。
「まずはお部屋へご案内いたします。詳しいご説明は、落ち着かれてからで結構でございますので」
なんというか。
責任者というから、もっと隙のない人を想像していたのだけれど、随分と周りに目を配る人らしい。
僕は、もう一度だけ雨の町へ目を向けた。
荷車の車輪が、水の溜まった道を音を立てて通り過ぎていく。
ついに、着いた。
ここが、ドリスタだ。
◇
滞在する部屋で濡れた外套を外し、休んだ後、僕はエーベルトたちが待つ部屋へ向かった。
「ご滞在は、およそひと月と伺っております」
エーベルトは、机の上に置かれた書類へ一度目を落としてから、言葉を選ぶように言った。
「その間に、ドリスタで行われております仕事を、順にご覧いただく予定でございます。とはいえ、その……現場には現場の都合がございますので、全てを予定どおりに、と申し上げるのは少々難しく……」
「安全や仕事の都合に合わせて案内していただく、ということですよね」
「は、はい。まさに、その通りでございます」
隣に座っていた男が、手元の書類を開く。
「鉱山管理官のオスカーでございます。具体的な見学の流れについては、私からご説明いたします」
「お願いします」
「まず、採掘された魔石が、運ばれ、加工され、検査を受け、保管され、出荷へ回るまでの流れをご覧いただきます。加えて、必要に応じて記録や在庫管理についてもご説明いたします」
採掘。
運搬。
加工。
検査。
保管。
出荷。
僕がこれまで触れてきた魔石が、どうやって掘り出され、どう扱われているのかを見られる。
雨で重くなっていた身体が、急に軽くなった気がした。
そこで、エーベルトが遠慮がちに咳払いをした。
「た、ただ、ひとつ申し上げておかなければならないことがございまして。この雨が続きますと、坑道周辺や運搬路の確認に時間が必要になる場合がございます」
「その場合は?」
「先に加工場、あるいは案内可能な工房をご覧いただくことになるかもしれません」
「加工場や工房も、見られるんですか?」
「はい。もちろん、作業場の状況を確認した上で、ではございますが」
「それも見てみたいです。採掘現場も、安全になったら案内していただけますか?」
「も、もちろんでございます。安全が確認でき次第、必ず」
「では、楽しみにしています」
本音だった。
掘るところから見たい気持ちはある。けれど、加工の現場も、それはそれで見たい。
僕がそう答えると、エーベルトは安心したように見えた。
けれど、その表情には、まだどこかこちらをうかがうような色が残っている。
どうしてそこまで慎重なのだろう。
領主家の子どもを預かるのだから、神経を使うのは当然かもしれない。
その時は、まだそれ以上には考えなかった。
◇
説明を終えて部屋へ戻る頃になっても、雨は止まなかった。
リズとニコは、滞在中の支度を整えるため、しばらく部屋を外すことになった。
二人が出ていった後、僕は荷物の中から、シリウスにもらった小さなフォルフの人形を取り出し、机の端へ置いた。
「ドリスタに着いたよ、シリウス」
帰ったら、雨の中でも働く人たちのことや、魔石の仕事のことを話そう。
そう思うと、明日が一段と待ち遠しくなった。
窓の外が暗くなり、部屋の灯りがはっきり見える頃になって、リズとニコが戻ってきた。
「お帰り。雨、大丈夫だった?」
「はい。少し濡れましたけれど、必要な物は受け取ってまいりました」
「こちらは僕が片づけます」
ニコは包みを抱えたまま、部屋の隅へ運んでいく。
けれど、二人とも、いつもより少し口数が少なかった。
「……どうしたの?」
僕が尋ねると、リズは小さく息を呑んだ。
「ユキア様。今日、必要な物を受け取りに出た際に……気になる話を耳にしまして」
「僕に関係すること?」
「はい。ユキア様が来られたことで、以前こちらに滞在された方のことを思い出し、不安に感じているようでした」
「……カシム兄様の時のこと?」
「おそらくは。詳しい事情までは分かりませんが……」
リズは、一度言葉をためらってから続けた。
「『違う方なら、少しは話が通じるといいんだがな』と、そう聞こえました」
話が通じるといい。
その言葉は、思っていたよりも重かった。
カシムがここで何をしたのかは分からない。
ただ、次にやって来た僕に対して、そんな言葉がこぼれる程度には、何かが残っているのだろう。
「ニコも聞いたの?」
「はい。僕も、同じ言葉を聞きました」
到着した時、出迎えてくれた人たちは礼儀正しかった。
けれど、どこかこちらを測っているようにも感じた。
「……だから、今日、皆さん、少し身構えていたのかもしれないね」
「申し訳ありません。せっかく到着された日に、このようなお話を」
「リズが謝ることじゃないよ。聞かせてくれてありがとう」
僕は、机の上の書類へ視線を落とした。
明日から見るのは、魔石や作業場だけではない。
そこには、この町で働いている人たちがいる。
けれど、向こうから見れば、僕はまずヴァンハルト家から来た子どもだ。
カシムの弟で、同じ家の人間。
まだ何もしていない僕を、最初から区別してもらえる理由はない。
「二人に、頼みたいことがあるんだけど」
「はい」
「僕が、現場のことを知らないまま無理を言いそうになったら、教えてほしい。相手が断りにくい頼み方をしていた時も」
「ですが、ユキア様へわたしがそのようなことを申し上げるのは……」
「僕は、学びに来たんだ。分からないまま偉そうにして、仕事の邪魔をする方が困るよ」
短い沈黙の後、リズがゆっくりと頷いた。
「……分かりました。わたしに分かることでしたら、お伝えします」
「僕も、できる範囲でお伝えします」
「ありがとう」
僕がそう言うと、二人の緊張が少しだけほどけたように見えた。
カシムが何をしたのかは、いずれ現場で見えてくるのかもしれない。
けれど、今の僕にできるのは、兄とは違うと口で言い張ることではない。
明日からの自分の振る舞いで、少しずつ示していくしかないのだろう。
僕は、改めて机の上の書類へ目を落とした。
同じ予定のはずなのに、そこに並んだ文字は、さっきよりも少し重く見えた。
楽しみなだけでは済まないのかもしれない。
それでも、明日この町の仕事を見られることへの興味は、少しも薄れなかった。




