第17話 四男は鉱山町へ旅立つ
がたん、と車輪が軽く跳ねた。
そのたびに、僕の向かいに座っているリズが、膝の上の荷物へそっと手を添える。
水差しの入った籠。替えの布。小さな包みがいくつか。
どれも倒れたり潰れたりしていないのに、彼女は揺れるたびに確かめていた。
……馬車って、もう少し揺れを抑えられないのだろうか。
前世にあった、スプリングのような仕組みを使えれば、少しは違うのかもしれない。
「ユキア様、気分は悪くありませんか?」
「大丈夫。まだ、そこまで揺れていないし」
「そうですか。よかったです」
リズはほっとしたように微笑み、それからすぐ窓の外へ目を向けた。
馬車の窓の向こうでは、見慣れた屋敷の庭も、エルヴィンの小宅へ続く道も、もうとっくに見えなくなっている。
土の道の脇に続く草地。遠くに見える畑。ときどきすれ違う荷車。
同じ領地の中のはずなのに、屋敷の周りとはまるで違う景色だった。
前方では、御者のオットーが馬を進めている。
ニコはその隣で、荷物の具合を見たり、道中の雑用を手伝ったりしているらしく、今は馬車の中にはいない。
さらに馬車の前後には護衛がついている。
出発前に挨拶をしたグレンをはじめ、道中の安全を任された者たちだ。
父からドリスタへ行けと言われた時には、まだどこか実感が薄かった。
準備を済ませ、荷物をまとめ、リズやニコと確認もした。
それでも、屋敷の中でしているうちは、先の予定にすぎなかった。
けれど、こうして馬車が進み、知らない道が窓の外へ流れていくと、さすがに分かる。
僕は、本当に屋敷を離れたのだ。
別に、何か大きなことを成し遂げたわけではない。
ただ馬車に乗っているだけである。
それでも、胸の奥がそわそわしていた。
不安がないわけではない。初めて向かう場所で、何を見て、何を知ることになるのかも分からない。
けれど、それ以上に――楽しみだった。
屋敷の外には、僕の知らないものがある。
そこで何を見て、何を知ることになるのか。
そう考えると、揺れる馬車の中にいるだけなのに、窓の外へ流れていく景色まで、いつもと違って見えた。
魔石鉱山町ドリスタ。
魔石が掘られ、選ばれ、加工され、運ばれていく場所。
出発したばかりの頃は、窓の外を眺めているだけでも楽しかった。
屋敷の周りとは少しずつ違っていく道や景色が、これから遠くへ向かうのだと感じさせてくれる。
ただ、しばらく進むと、道沿いには似たような草地と畑が続くようになる。
旅への興味が薄れたわけではない。
とはいえ、本を読むには揺れが大きいし、ずっと窓の外を眺めているだけでは、少し手持ち無沙汰だった。
僕は、膝の横に置いていた小さな革袋へ目を落とした。
中から取り出したのは、指先に収まるほどの小さな光属性魔石だった。
手のひらへ魔石を置き、静かに魔力を流す。
ほどなくして、魔石が淡く光った。
光を灯すところまでは、もうそれほど難しくない。
今の僕に必要なのは、意識を集中させている間だけできることを、少しずつ当たり前に近づけていくことだった。
「練習をされるのですか?」
「うん。移動している間は暇だからね」
「無理は、なさらないでくださいね」
「大丈夫。光を保つ練習をするだけだから」
リズはほっとしたように頷き、僕の手の中の魔石へ目を向けた。
「その魔石は、エルヴィン様から頂いたものですか?」
「うん。出発前にね」
そう答えると、出発前に訪ねた小宅の匂いがふっと蘇った。
古い本と紙、それから、何に使うのか分からない道具が混ざった、あの落ち着くような落ち着かないような部屋の空気だ。
◇
「父様から、ドリスタへ行くよう命じられました。一か月ほど、向こうで学んでくることになります」
僕がそう報告しても、エルヴィンは大して驚かなかった。
いつもの椅子に腰を下ろしたまま、手元の本から顔を上げ、ふん、と鼻を鳴らしただけである。
「そうか」
それだけ言うと、エルヴィンはまた本へ目を戻した。
……終わりらしい。
魔石鉱山町へ行くと聞けば、何か注意の一つでも飛んでくると思っていたのだけれど。
僕がその場に立ったままでいると、エルヴィンが面倒そうに目を細めた。
「何じゃ。泣いて引き止めてほしかったのか」
「いえ、そういうわけではありませんけど」
「こんな狭いところで、本ばかり読んでおるよりは面白かろう」
エルヴィンは本の端を指で軽く叩いた。
「本には、書いた者が見たものしか載っておらん。お前の目で見たものは、お前にしか分からん」
エルヴィンは、あっさりと言った。
けれど、その言葉は思った以上に胸に残った。
僕がドリスタで何を見ることになるのかは、まだ分からない。
それでも、向こうで気になったものを、自分の目で確かめてこいということなのだろう。
そう思っていると、エルヴィンが本を閉じた。
「……まあ、待て」
「はい?」
エルヴィンは面倒そうに立ち上がると、壁際の棚へ向かった。
積み上げられた箱をひとつ引き出し、中を乱雑に探り始める。
「何をしているんですか?」
「黙って待っておれ」
しばらくして、エルヴィンは小さな革袋を取り出した。
その中へ、棚の箱から選んだ小さな石を、ひとつ、ふたつと放り込んでいく。
最後に袋の口を雑に縛ると、こちらへ投げてよこした。
「わっ」
慌てて受け止めると、中で硬い物がいくつかぶつかり合った。
「これは?」
「向こうでも練習くらいは続けろ」
袋を開く。
中に入っていたのは、小さな属性魔石だった。
光属性魔石だけではない。
以前に触れたことのあるものもあれば、まだ僕には扱わせてもらったことのないものも混じっている。
「こんなに、いいんですか?」
「練習用じゃ。使わん石を棚に置いておいても、埃をかぶるだけじゃろう」
「それでも、こんなにたくさん……」
「いらんなら戻せ」
「使います」
即答すると、エルヴィンは鼻で笑った。
たぶん、最初からその返事をさせるつもりだったのだと思う。
そして、話は終わりだと言わんばかりに本へ視線を戻しかけたエルヴィンが、ふと動きを止める。
「それと、これも持っていけ」
今度は投げずに、机の上へ細長い物を置いた。
革の鞘に収まった、小ぶりの短剣だった。
古びてはいるが、雑に放っておかれた物ではない。柄にも鞘にも、長く手入れされてきた跡がある。
近づいて見ると、ほんの薄くだが、属性魔石に触れている時のような妙な気配を感じた。
普通の刃物ではない。
少なくとも、僕が気軽に受け取っていい物には見えなかった。
「……これは、ずいぶん高そうに見えるんですが」
「儂の退屈しのぎに付き合わせた礼じゃ」
「礼にしては、大きすぎませんか」
「わしが持っていても使わん。それに、お前も剣の扱いくらいは覚えたじゃろう」
エルヴィンは、机の上の短剣を顎で示した。
「多少は魔力の通る刃じゃ。普通の刃物よりは役に立つ」
「僕にも、扱えるんですか?」
「役に立つかどうかは使い方次第じゃ。お前が振り回せば何でも斬れる、などと思うなよ」
「思いませんよ」
「ならよい。護衛がおる間は、まず護衛を頼れ。それでも間に合わん時に、逃げるための隙を作る。その程度の物だと思っておけ」
その言い方は、相変わらず素っ気なかった。
けれど、ただ使わなくなった物を押しつけているわけではないことくらい、僕にも分かった。
僕は短剣を手に取り、革の鞘ごと両手で持った。
「ありがとうございます」
「礼を言うくらいなら、次に来る時に、もっと妙な坊主になって戻ってこい」
それだけ言うと、エルヴィンは今度こそ本へ視線を戻した。
僕は小宅を出る前に、もう一度だけ頭を下げた。
返ってきたのは、早く行けと言わんばかりの手振りだけだった。




