第16話 四男は次の景色が気になる
その日の昼過ぎ、ヴァンハルト家の書斎で、エルヴィンはアルノルトと向かい合っていた。
重い机の向こうに座るアルノルトは、短く問いを投げる。
「ユキアは使えるのか」
父親が子どもについて尋ねる言葉としては、少し冷たい。
ただ、アルノルトにとっては、それが普通だった。
エルヴィンは杖に両手を置き、面倒くさそうに肩をすくめる。
「魔力操作はまだ不安定じゃ」
「ならば、これまで通りか」
「話を急ぐな。武でも魔法でも、今の坊主は前に出すには向かん」
アルノルトは表情を変えない。
「ただ、あやつは、妙なところに気づく」
「だから、なんだ」
エルヴィンは目を細めた。
「お前次第ということじゃ。腐らせるも、活かすもな」
「今のまま狭い世界に置いておけば、生き残ることはできよう。だが、生きるだけじゃ」
アルノルトは短く沈黙した。
ユキアを高く評価しているわけではない。
魔力や武で家に貢献できるとは、まだ考えていない。
だが、エルヴィンの言葉を無視するほど、彼は老人の目を軽んじてもいなかった。
「外に出せと」
「さあのう、分からん」
その会話を、僕は知らない。
◇
その頃の僕は、屋敷の自室で本を開いていた。
文字は追っていたけれど、内容は頭に入っているような、入っていないような、少し曖昧だった。
数日前にエルヴィンの小宅で読んだ召喚の本のことが、まだ頭の端に残っていたからだ。
そこへ、控えめなノックがした。
「ユキア様。旦那様がお呼びでございます」
扉の向こうから、オズワルドの声がした。
僕は本を閉じ、椅子から立ち上がる。
「父様が、ですか」
「はい。書斎にてお待ちでございます」
「分かりました」
父から呼ばれる時は、だいたい僕の知らないところで何かが決まっている。
数年前なら、少し身構えすぎていたかもしれない。
今も緊張はする。
でも、以前ほど胸が重くはならなかった。
立場は変わっていない。
それでも、僕の中には小さな手応えがある。
誰にも見えないくらい小さなものでも、何もないわけではない。
僕は服の乱れを軽く整え、部屋を出て廊下を歩き出した。
書斎の前まで来ると、オズワルドが中へ声をかける。
「ユキア様をお連れしました」
「入れ」
短い返答だった。
扉が開く。
中には父、アルノルト・ヴァンハルトがいた。
大きな机。
整えられた書類。
壁に掛けられた領地図。
その空間に入ると、庭やエルヴィンの小宅とは違う重さを感じる。
父は机の向こうから僕を見た。
「ユキア」
「はい、父様」
「お前をドリスタへ送る」
いきなりだった。
「……ドリスタ、ですか」
ドリスタ。
フェンリース領の東側にある魔石鉱山町。
領地収入の柱であり、魔石資源の管理拠点でもある場所。
名前は本で読んだことがある。
兄のカシムが先に実地教育へ行っていることも聞いていた。
けれど、自分がそこへ向かうとは思っていなかった。
「領地経営の実地教育だ。遊びではない」
「はい」
「ヴァンハルトの子である以上、最低限、領地の現場を知る必要がある」
「リズを世話係、ニコを従者見習いとして同行させる。荷物、外出時の補助、現地での伝達に使え」
「ニコも、ですか」
「貴族子弟が外へ出る。体裁と実務の両方がいる」
「承知しました」
父は僕を見る。
「ユキア」
「はい」
「戦えとは言っていない。魔法を使えとも言っていない。見て、聞いて、学べ」
父の声は淡々としていた。
期待というより、役割を告げているようだった。
「ただし、見ただけで終わらせるな。戻ったら、見たことを報告としてまとめろ」
「分かりました。できる限り、見てきます」
「日取りは追って知らせる。準備しておけ」
「はい、父様」
「よい」
話はそれで終わりだった。
書斎を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。
扉のそばには、リズが控えていた。
僕が書斎に入っている間に、オズワルドが呼んでおいたのだろう。
何か大事な話だったことは察しているらしく、両手を前でそろえたまま、いつもより背筋が伸びていた。
「ユキア様……」
「リズ。急だけど、ドリスタへ行くことになった」
「ドリスタ、ですか」
「うん。東にある魔石鉱山町。領地経営の実地教育だって」
リズは一瞬だけ目を大きくした。
けれど、すぐに表情を引き締めて、小さく頭を下げる。
「わたしも、ご一緒するのですね」
「父様は、リズを世話係として同行させると言っていた」
「はい。承知しました」
返事は早かった。
早すぎるくらいだった。
「リズ」
「はい」
「無理はしないで。準備は一緒に確認しよう」
「……はい。わたしにできることなら、なんでもします」
「なんでもじゃなくて、できる範囲で」
リズは目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「はい。できる範囲で、頑張ります」
その言い直しに、僕も少し安心する。
リズと話している間に、オズワルドは少し離れたところでニコにも用件を伝えていたらしい。
こちらを見るなり、ニコは顔をこわばらせた。
「ユ、ユキア様。僕もドリスタへ同行することになったと……」
「うん。僕も今聞いたところ」
「ぼ、僕でよろしいのでしょうか」
「父様が決めたなら、そういうことだと思う」
「は、はい」
ニコは返事をしたけれど、まだ少し不安そうだった。
「それにニコでよかったと思ってる」
「えっ」
ニコが目を丸くした。
「外へ出るのは僕も慣れていないし、知らない場所へ行くなら、普段から一緒にいてくれる人の方が安心できるから」
「ユキア様……」
「だから、よろしく」
「はい! 頑張ります!」
返事が少し大きくて、近くの使用人がこちらを見た。
ニコは慌てて口を押さえる。
リズが小さく笑いをこらえていた。
こういう空気は、嫌いではない。
けれど、その先に待っているのは、屋敷の外だ。
エルヴィンの小宅でも、庭でも、厩舎でもない。
領地の現場。
魔石鉱山町ドリスタ。
そこには、魔石がある。加工場があり、工房があり、それを支える人たちがいる。
現場の人たちは、領主家の子どもをどう見るのだろう。
魔力なしの四男が来たと知れば、どう思うのだろう。
不安はある。
面倒ごとは避けたい。
本当なら、僕は静かに本を読んで、庭で身体を動かして、時々エルヴィンに変な課題を出されるくらいの生活で十分だった。
それでも、ドリスタという名前は、胸の奥に小さく引っかかっていた。
魔石鉱山町。
屋敷にも、魔石を使った道具はいくつかある。
エルヴィンの小宅にも、光属性魔石や水属性魔石が並んでいる。
けれど、それがどこで掘られ、どう選ばれ、どう加工されているのかを、僕はほとんど知らない。
知らないからこそ、気になる。
平穏に暮らしたいだけなのに、どうしてこう、僕の生活は少しずつ外へ押し出されていくのだろう。
そう思いながらも。
僕は、ほんの少しだけ、次に見る景色を知りたいと思っていた。




